【時空を超えて~歴代肖像画1千年】
このページでは、歴史上の肖像画名品を広く紹介しています。肖像画名品の模写の販売は一切行っておりません。
This page only introduces famous portraits. There is no selling of those copies in this site.
作品名:織田信長の肖像
作者名:ジョバンニ・ニコラオ (筆者の推定)
材 質:洋紙に木炭、若しくはコンテ、銀筆等(筆者の推定)
制作年:1585~86年 (筆者の推定)
寸 法:不詳(原画は失われた。)
所在地:羽前・三宝寺(山形県天童市)
注文者:織田信雄 (筆者の推定)
意 味:原本は、織田信長(1534-82)の死後まもない頃に描かれた追慕像。
織田宗家の代々の礼拝に用いられた。
遠藤周作の対論集『たかが信長されど信長』(文芸春秋社1992)によれば
「信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を明治になってから複写
し、宮内庁、織田宗家、三宝寺で分け持ったという。織田家ではこの絵が信長
にもっとも似ていると語り伝えられている。
天童は、信長の二男信雄の直系の藩、代々の位牌をまつる三宝寺の仰徳殿内
に、この絵は大切に保存されている。」
信雄の依頼でニコラオが制作した、と筆者が推測する理由。
1.明治維新の33年前、天保6年(1835年)に天童藩がこの絵を所有していた
という記録があること。
(この絵は洋風画ではなく西洋画そのものであるから、幕末以前の日本人には
描き得ないし、鎖国下に西洋人画家も存在しない。それより前の時代であるな
らば、作者は江戸初期のキリシタン追放以前の南蛮人となる。)
2.織田信長の次男・信雄(1558-1630)は、11才のとき岐阜において神父
ルイス・フロイスに接しており、長じて安土のセミナリオに出入りして西洋
文化に親しみ、またオルガンチーノ校長や教師たちとも面識があったこと。
3.イタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)は、天正11年
(1583年)から慶長19年(1614年)までの32年に渡り、セミナリオ(キリシタ
ン学校)で西洋画法を日本人に伝授するために派遣されていた正規の画家であること。
4.本能寺の変のあと尾張と伊勢の領主となった信雄が、まだ権力も財力も保持
していた時代(1585-87年)に、セミナリオが安土/高槻から大坂に移って来て
おり、教師二コラオが在籍していたらしいこと。
(二コラオは、信長とも親しかったアジア巡察使ヴァリニャーノの肝入りで
派遣された有能な画家・修道士であり、1587年のキリシタン追放令でセミナリオの
九州移転が余儀なくされるまでは影響力の大きい中央で教えていたと考えるのが自然。)
5.このようなリアルな肖像画を描くには信長とよく似たモデルが不可欠だが、
信雄の家臣には弟・長益(1547-1622)がおり、大坂には同腹の弟の信包
(1543-1614)がいたこと。
|
本作品に関するエッセイはこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/mag2.html
〈参考図〉(早稲田大学図書館)
|
水平に反転(三宝寺蔵)
|
〈参考図〉弟・織田有楽斎長益
|
〈参考図〉弟・織田信包
|
〈参考図〉「聖母子像」 キャンバスに油彩 52.5×40cm 福井県の旧家で見つかった1600年前後のイタリア派の作品 (大阪 南蛮文化館蔵)
|
〈参考図〉「悲しみのマリア」 金属板に油彩 21.8×16.6cm 長崎奉行が押収した同時代の作品 (東京国立博物館像)
|
〈参考図〉「聖母子像」板に油彩 58×36cm 福井の寺の天井裏で見つかった1600年前後の作品(大阪 南蛮文化館蔵)白地に薄塗り(描きかけ)であり、西洋人が当地で描いたことが明らか。
『日本美術全集10』(小学館)では、作者がニコラオである確率が高いと解説。上の2つの完成作もルネッサンス後期の職業絵描きのもので、二コラオを候補のひとりに挙げることに無理はない。