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ド・スタールの生涯
ニコラ・ド・スタール(1904-1955)は、ロシア出身の抽象画家です。中期以後の彼の作品には全て具体的なモチーフがあり、それを見ながら余分なものを極限にまでそぎ落として行くという形式の抽象画でした。絵のマチエールも、初期の濃密な物質感のあるものから、晩年のあっさりとした薄塗りまで、少しずつ変化して行っています。
健康でハンサムな身長194cmの大男、晩年は仕事の展開も、経済状態も順調だったド・スタールの死は、あまりにも唐突でした。大きな個展を控えた41才の彼は、アトリエのテラスから投身自殺してしまったのです。私なりに彼のそこまでの道筋を描いてみたいと思います。
【生い立ち】 ニコラ・ド・スタールは1914年1月5日、帝政ロシア末期、首都サンクトペテルスブルグに生まれました。父は名門貴族のド・スタール・フォン・ホルスタイン将軍で、母も富豪の娘でしたが、1917年のロシア革命で、父は将軍職を解任され、一家は2年後ポーランドに亡命します。しかし、この地で失意の父母をあいついで失い、三人の孤児となったド・スタール兄弟は、母の友人のつてで、ベルギーのロシア人家庭に引き取られました。
養父母は慈愛に満ちた人々で、孤児たちは愛情に包まれて成長します。けれども、幼い頃、実母に絵の手ほどきを受けていたド・スタールは、高校卒業後土木工学の道へ進むことを望む養父の期待を裏切り、1933年、ブリュッセルの王立美術学校に入学しました。そして絵画の研究のために、オランダ、フランス、スペイン、モロッコと旅行を重ね、一途に絵の道を進み始めました。
1937年8月、23才のド・スタールは、旅先モロッコのマラケシュでフランス人女性に出会います。彼女はジャニーヌ・ギユーというブルターニュ地方出身の画家で、別居中の夫との間に息子を持つ4才年上の女性でした。二人は意気投合し、アルジェリア、そしてイタリアと一緒に旅を続け、1938年9月パリに新居を定めると彼女の連れ子と三人での共同生活を始めました。
ジャニ-ヌとの生活は、1946年に彼女が病死するまで続くのですが、前夫との離婚手続きはついに完了せず、また彼女の父親が大のロシア人嫌いであったことも影響して、結局正式に結婚することはできませんでした。
【模索の時代】 1939年には第2次大戦が勃発、ド・スタールは外人部隊に志願し、8ヶ月の軍隊生活を送っています。除隊後は家族とニースでの暮らしを始めましたが絵は売れず、42年に娘が生まれるといよいよ生活は逼迫しました。ジャニ-ヌは安値で売り絵を引き受け、細腕で一家を支えるのですが、やがて無理がたたり、病におかされていきました。
この頃、ド・スタールが描いたジャニーヌの肖像があるのですが、この絵をきっかけとして彼は抽象絵画を模索していくことになりました。後年彼は描き残しています。
若いころ何年か、ぼくはジャニーヌの肖像を描きつづけた。肖像、本当の肖像というものは、やはり芸術の一頂点だ。そう思ってぼくは肖像を二点描いた。それを眺めながらぼくは自問した――いったい何を描いたんだろう?生ける屍か、死せる生きものか?…それで少しずつぼくは対象を写実的に描くことが窮屈に感じられてきた。なぜなら、ある対象について、たった一つの対象についても、ぼくは無限に多くの他の共存する対象に悩まされるからだ。何であれ、その対象だけを考えつづけるなんて絶対にできるものではない、じつにいろいろな対象が同時にあるため、受け入れる可能性が消しとんでしまうのだ。そこでぼくは自由な表現を模索したわけだ。
要約すれば、結局思い通りに描けなかったので、抽象に転じたというところでしょうか。私は、『ニコラ・ド・スタールの手紙』を読んでいるのですが、絵にしても、文章にしても、彼にはリアルに描写するという情熱が欠けているようです。手紙で目につくのは感嘆符ばかりで、言葉がふわふわ浮いており、心に入り込んで来るものがありません。『ゴッホの手紙』に見られるような情熱と共感は得られないのです。逆にこれが、切れ切れの文章、警句や詩文のようなものになるとド・スタールの言葉は輝き始めます。抽象画家とは、小説家ではなくまさに詩人ですね。
さて本題に戻ると、ド・スタール一家の生活はどん底でした。飢えに苛まれたド・スタールは家具職人のもとで働いたり、建物のペンキ塗りをしたりし、ジャニーヌも絵を売るのに努めました。しかし、やがて彼らはニースでの生活に見切りをつけ、1943年9月、知人の画商を頼って、ナチス占領下のパリに出ることにしました。
翌年個展を開催しましたが、状況は好転しませんでした。そして極貧の中、ジャニーヌの病状は悪化し、1946年2月、彼女は帰らぬ人となりました。ド・スタールははらわたのよじれる思いだったでしょう。彼は、この頃から憑かれたように制作にのめり込んでいくのです。
【多作の画家】 同年5月、二人の子供をかかえたド・スタールは、息子の英語の教師をしていたジャニーヌの遠縁の女子学生、フランソワ-ズと結婚、47年に一家はパリのゴーゲ街に住まいを移しました。1948年には、フランス国籍を取得、同年、ウルグアイで海外初の個展を開催。この頃からド・スタールの仕事に光が当り始めます。
重く分厚いマチエールの完全抽象だった作品には、少しずつ具体的な形が現われ始め、以後彼の作風は、明るい半具象の薄塗りに傾いて行きます。
1950年代に入ると、フランス政府によって作品が買い上げられるという幸運も舞い込み、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどで個展も開催されるようになって、経済状況も好転しました。
1953年8月、ド・スタールはイタリアのシチリア島を旅行します。この地中海最大のシチリア島は、有名なダンテの『神曲;地獄篇』のモデルになった土地だったという話を聞いたことがあります。あいつぐ植民地化に対して愛国者たち(マフィア)が抵抗運動を起こすのですが、植民者によって捕らえられ、送りこまれた火山の硫黄採掘場で硫酸ガスに倒れていくという地獄絵図。この『神曲』をもとにジオットが、ピエロ・デラ・フランチェスカが、ルカ・シニョレリが壁画を描きました。
ドイツの文豪ゲーテの『イタリア紀行』の最終目的地はやはりこのシチリア島で、『神曲』を旅して古えのダンテをしのんだそうです。古来より北欧の作家たちが、南欧を旅することで開眼する例はたくさんあります。ファン・アイク、デューラー、ルーベンス、ゴッホ、シャガール……。ロシア出身のド・スタールもそうでした。パリに戻ると、堰を切ったように制作に没頭し、『シチリア風景』『アグリジェント』など代表作を生み出しています。私は、この旅行をきっかけに、彼の絵が明るく、より自由になったような気がします。
同年11月には、メネルブの古城を買い取り1954年夏まで制作を行ない、9月になると、さらにニースとカンヌに挟まれたリゾート地アンチーブの海に面した明るいアトリエに移りました。家族はゴーゲ街の家に残し、1955年夏にパリとアンチ-ブで開かれる個展のための絵画制作に全速力でのめり込んでいったのです。
【終焉】 1955年はド・スタールの死の年でした。それまでの10年間に制作した油絵は1000点にのぼり、最後の2ヶ月半で90点の絵画を残しています。つかんだ成功をより確かなものにするために、憑かれたように、追い立てられるように制作に打ち込む中で、軋みが生じていったようです。その制作量は、先妻ジャニーヌの死の直後から加速し始めました。画家であった彼女は、ド・スタールの助言者であり、容赦なき批判者であったと画家の娘は伝えています。
後妻のフランソワ-ズとの間には、3人の子供をもうけていますが、私にはどうも強い愛情の結びつきが感じられません。フランソワーズでは精神面の充足が得られず、長く別居することになったのだと思います。
しかし、ド・スタールには支えが必要でした。画商のジャック・デュプールに宛てた手紙の中で、うめきのようなものを漏らしています。
「僕の孤独が非人間的なのは自分でもわかっている。そこから抜け出す手段は見当がつかないが、着実に進歩する手段は見当がついている。進歩といえるかどうかわからないが、そんなことはどうでもいい。歴史が決めてくれることだが、もしも僕が二三年こうして孤塁を守れば、正直な話、僕はどこか別のところにいるだろうし、あなたは世界で最もセンセーショナルな地位を得るだろう。」(1954年12月)
「僕を工場だと思わないでくれ。これでもできるだけはやっているのだ。」(1955年2月)
そんな彼は親友を通じて、アンチーブでジャンヌという美しい女性に出会っています。薬局を営み、子供もいる人妻でした。これは推測に過ぎませんが、1954年に描かれた半具象のヌードは彼女かもしれません。もしかすると、アンチーブにアトリエを構える以前に二人は出会い、逢瀬を重ねていたという可能性も考えられるでしょう。しかし、彼女に家庭を捨てて画家のもとへ走る覚悟はありませんでした。そしてついに二人にとって破滅の日が来ました。詳細は伝わっていません。
3月5日、ド・スタールはウェーベルンとシェーンベルクのコンサートを聞くためにパリに出ました。その数日後、パリで出会った画商に向かって、彼はこんな言葉を残しています。「僕は失ってしまった、もう何をしたらいいかわからない…」
3月14日、アンチーブに戻った彼は、絶筆『コンサート』に取りかかります。極度の神経衰弱で長いこと眠っていませんでした。
3月15日、描けない。
3月16日夜、アトリエのテラスから、ド・スタールは8メートル下の路上に投身自殺。享年41才でした。
(00/02/26)