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ゴーキーの生涯
アーシル・ゴーキー(1904-1948)はアメリカの抽象表現主義の画家です。抽象表現主義の画家には他に、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、アドルフ・ゴットリーブ、ロバート・マザウェル、クリフォード・スティル、ヘレン・フランケンサーラー、サム・フランシスがいます。この内、ゴーキー、ポロック、デ・クーニングは大変重要な画家です。評論家メルヴィン・P・レーダーは、ゴーキーがヨーロッパの近代美術とアメリカの抽象表現主義の一群の画家たちの架け橋として知られてきたと記しています。
いかなる芸術家にもいえることですが、彼の芸術とその生涯は、切り離して考えることはできません。ゴーキーのそれは、出発点と晩年においてひどい不幸に彩られた生涯でした。パウル・クレーの書いた「この世界がおそるべきものになればなるほど、それだけいっそう、芸術は抽象的になるのだ」という言葉のとおり、まさにその出発点における悲劇がゴーキーの抽象芸術の骨格を形作りました。そしてその悲劇的な最期ゆえに、彼の芸術はさらに輝きを増して感じられるのです。
【生い立ち】 アーシル・ゴーキーは1904年4月15日、トルコ領アルメニアのヴァン湖岸の小さな村コーコムに生まれました。本名はヴォスダニック・マヌーク・アドイアンといい、二人の姉と妹が一人いました。父は農夫と商人と大工を兼業しており、母は聖職者の家系でした。
アルメニアは古代から周辺の国に侵略され続けていた小国で、当時はトルコによってひどい迫害を受けていました。1909年のトルコによる大虐殺では、25万人のアルメニア人が犠牲となり、1915年から16年の第1次世界大戦下では、トルコ軍によって150万とも200万ともいわれる無差別虐殺が行なわれました。
ゴーキー3才のとき、父親はトルコ軍への兵役を拒否して、単身アメリカに亡命しました。このため母親が息子の人格形成に大きく関わることになり、彼女のもとで、ゴーキーは木や粘土をいじったり、素描を始めました。
ゴーキー6才のとき、一家はヴァン市に移住します。ヴァンは古くからある都市で、古代アルメニアの写本や壁画、建築の宝庫でした。彼は母に連れて行かれた教会で、これらを知り強い印象を受けています。
1915年トルコ軍の攻撃がひどくなり、一家は160キロの逃避行の涯てエレヴァン(現アルメニアの首都)に逃れました。翌年、二人の姉はアメリカに渡りました。残った3人はかろうじて生き延びましたが、1918年母親が重病にかかり、翌年春、彼女は14才だったゴーキーの腕の中で、餓死したのです。二人きりとなったゴーキーと妹は、周囲の人間に助けられて、1920年父や姉のいるアメリカへ出帆して行きました。
ゴーキー少年は父のもとに落ち着くと、働きながら少しずつ学校に通って絵を学び始めました。1924年、18才のとき彼はアーシル・ゴーキーと名前を変えます。アーシルとは、古代ギリシャの英雄アキレスを表すロシア語で、ゴーキーとはロシアの文豪マキシム・ゴーリキーを連想させる名前でした。当時のアメリカでは、特異な風貌のゴーキーにとって、アルメニア移民よりもロシア人を名乗った方が、生活しやすかったのでしょう。
1925年ニューヨークに居を定め、グランドセントラル美術学校に入学し、翌年からは講師となって五年間勤めています。ゴーキーは早くからロシア人移民とつながりを持ち、中でも、ヨーロッパで『青騎士』のメンバーだったダヴィッド・ブルリョークや、アメリカの進歩的な画家のグループ『ジ・エイト』と交流のあったジョン・グレアムから、最新の情報を仕入れていました。そのため、まだアメリカではキュービズムやシュール・レアリズムがよく知られていない時期に、セザンヌ、ピカソ、ブラック、マチス、アンドレ・ブルトンらの芸術を論じています。180cmを超える背丈、黒い髪と黒い目のゴーキーはまたたくまに生徒たちの信頼を得たようでした。
【ゴーキーの芸術】 ゴーキーの絵画は模倣から始まりました。若い画家の卵たちは誰しも、過去の偉大な芸術の模倣から入ります。それには二つ方法があって、 好ましい絵をそっくりに模写するケースと、好ましい画家の様式を模倣するケースとがあげられます。“様式の模倣”とは、規範としたい画家の視点に立って、自分の絵を描くことで、即物的な模写とは異なります。ゴーキーは、この様式の模倣を徹底的にやった画家でした。1920年代から30年代後半までの間に、セザンヌ時代、ピカソ時代、ブラック時代、ミロ時代、アングルの新古典様式時代、カンディンスキー時代と名付けることが出来るほど、明らかに物真似と分かる描き方で描き続けました。ゴーキーの画集を見ると、半分以上が模倣の山です。
ゴーキーは1932年、ジュリアン・レヴィという有力な画商と接触を図っています。のちにゴーキーを世に送り出すことになったレヴィは次のように述べています。
私はゴーキーと一緒にユニオン・スクウェアに行き、彼のアトリエですべてを見た。私は彼が経済的に困っているのを聞いて500ドルを貸した。のちに彼が返済できなくなったとき、私は彼のデッサンを買った。だが、彼に展覧会の約束をすることはできなかった。
「あなたの作品はピカソに非常によく似ている」と私はいった。「模倣ではない。しかしそれでもあまりにピカソ的だ。」
ゴーキーはいった。
「私は長い間セザンヌと一緒にいました、そして今はもちろんピカソと一緒にいます」と。
「いずれ、あなたがゴーキーと一緒にいるときに…」と私は約束した。
私はかつて、他人の様式にこれほどまでに完全に共鳴する画家に会ったことがなかった。
ゴーキーの模倣時代はこのあと30代半ばまで続くのですが、最後のカンディンスキー時代のあと、突如としてゴーキー様式が開花するのです。レヴィは1945年3月、ゴーキーの素晴らしい個展を開いています。ゴーキーは1939年、芸術について語っています。
「僕は芸術の無秩序に反対する。芸術には構造がなくてはならないし、何らかの脈絡が必要だ。まったくの無秩序は獣的で無思考、そして非精神的という理由で非人間的である。僕にとっては芸術は考える心の一つの切子面でなければならないのだ。芸術には無秩序はあり得ない。もし無秩序があるならば、それは芸術ではない。無秩序はまったくのシノシズムから起こる。つまり組織化と洞察の能力、技術を通じて複雑さに熟達する人間の知力への不信なのだ。手放しの自発性はカオスである。そうした無秩序は審美的な芸術を否定する。
偉大な芸術は意識を強調する。さもなければどんなものでも、分け隔てなく、芸術であると主張できることになる。しかし、分け隔ては存在するのである。芸術に平等はない。代わりに優越性がある。よい芸術と悪い芸術があるのだ。優れた質は放縦さからは生まれない。」
ゴーキーの長い模倣時代は、芸術の構造を頭と体に叩き込むのが目的でした。若い芸術家のほとんどは、自らの芸術を開花・出産にこぎつける前に力尽き、死産に終わる、つまり、安易な二番煎じの物真似アート、偉大な画家の亜流で終わるケースが多いのですが、ゴーキーはそうではなかった。それは、体力と強靭な精神力の賜物としか言い様がありません。さらに二つ彼の言葉を引用します。
「芸術は普遍的な感情を表現しようとする鋭敏な芸術家から、深遠な思考を同胞に伝えようとするきわめて人間的な欲望によって生み出されるものであり、それ以外の動機によるものではない」
「僕はアルメニアの犂(すき)の素描に専念している。僕らの家の近くのアドイアン家の畑で使っていたやつだ。……われわれのアルメニア人の犂から飛び出してくる形がどんなにたくさんあるか、おまえには想像がつかないだろう。ぼくらの祖先が何千年ものあいだ、労苦と快活さ、困苦と詩の中で使いつづけてきた、あの犂のことだ。コーコムから来たアルメニアの男にとって、犂は墓石がわりにふさわしい。僕は、果樹園のアンズの実の匂いをかぎ、アンズの実は、昔のダンスをしながら僕の方へやってくる。その歌はアルメニアの民の古来の歌なのだ。僕はこのことを描いている。おまえもきっとわかってくれるだろう。とてもたくさんの形と着想、誰にも知られていない宝物。」
【画家の結婚と、その最期】 1935年ゴーキーはWPA芸術計画連盟に参加します。それは、1929年の世界大恐慌のあとルーズベルト大統領が打ち出した画期的な公共事業でした。多くの画家たちが政府から月給制で雇われ、公共芸術の制作に従事するというもので、経済難にあえぐ芸術家たちを救済することが目的でした。1943年に廃止されるまで、3600人が参加したといわれ、その中には、国吉康雄、ベン・シャーン、ゴーキー、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコなどが含まれています。このとき、ゴーキーは空港の壁画を手がけています。
同年、女流画家のマニー・ジョージとの結婚と離婚。アルメニア流のしつけを重んじるゴーキーと、ニューヨーク娘の慣習のギャップが原因でした。披露宴のあと、浴槽に浸かりながら歓喜のシャンパン・グラスを傾けていた彼女を見て激怒したゴーキーはそのまま叩き出したという逸話が伝わっています。
ソール・シャリーという友人はゴーキーに、アメリカ人に結婚してはいけないと以前より忠告していました。
「アメリカ人の生活習慣で彼に理解できないものがたくさんあったから。ですから、マニー・ジョージと結婚したときはがっかりしました。 なぜならだめになるとわかっていたからです。次に結婚したアグネス・マグルーダーのときも、まったく同じ気持ちでした。」
ゴーキーに夢中になった女性は大勢いました。彼は女性にとって非常に魅力的な存在で、彼の前でよく気絶する人がいたくらいですが、たいていの場合、ゴーキーは拒絶していたといいます。
1941年9月に結婚した二番目の妻アグネス・マグルーダーは海軍将校の娘でした。人生の大半をボストンで過ごし、そこで洗練された雰囲気と自信を身につけていました。このときアグネス33才。おそらく20才のときに出会ってモデルをつとめていますから、彼女にとっては遅すぎる春だったでしょう。しかし、彼女の合理的なアメリカ人気質が、7年後、画家を死に追い込むことになります。
同年、近代美術館によって作品が買い上げられ、45年から48年まで毎年ジュリアン・レヴィ画廊で個展を開催、画業も順調でした。
1946年1月、アトリエの火災。このとき、ほとんどすべてのデッサンと、30枚の新作油絵が失われました。この降って湧いたような災難が、悲劇の開幕の合図でした。
数日後、不調を訴えて診察を受けたゴーキーは、直腸癌を宣告されました。2月末手術を受け、切り取った患部の代りには、排泄物を調節する袋が腹部に取りつけられました。ときどき腹部から音を発するこっけいな体となってゴーキーは生還したのですが、滅入る気持ちを奮い立たせるように、失われた作品を取り戻すかのように、制作に打ち込みました。この年の夏には300枚のデッサンを描いています。
1947年父親が死亡。レヴィ画廊での4回目の個展では、彼の芸術は理解も評価も得られませんでした。
1948年6月26日、ジュリアン・レヴィ夫妻と共に同乗していた車が衝突事故を起こし、ゴーキーは首の骨を折るという重傷を負いました。利き腕は麻痺し、性的能力も失われ、肉体的、精神的苦痛は耐えがたいものになり、ひどい精神的障害に陥ってしまいました。このとき、妻のアグネスは、娘二人を連れて実家に帰ってしまったのです。もはや、妻であることよりも、母親である立場を優先した彼女は、ゴーキーの暗く呪われた運命を、娘にまで降りかからせるわけにはいかないと考えたのでしょう。
これが、ゴーキーを決定的に打ちのめしたのです。7月中旬、友人の彫刻家イサム・ノグチを訪れたゴーキーは、娘の薄汚れた人形を二つ手にしており、「これが私に残ったすべてだ」と告げたといいます。ノグチは、ゴーキーをかかり付けの精神科医の治療を受けさせ、シャーマンのアトリエまで送り届けました。
7月21日、近所の友人たちが駈けつけたとき、ゴーキーは首を吊って死んでいました。傍らには、完成して間もない「最後の絵画」と題された作品があり、踏み台にした木箱には、チョークで、「愛する者たちよ、さようなら」と書かれていました。
ゴーキーが死んでからまもなく、彼の作品は広く認められるようになります。
(00/03/06)