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キルヒナーの生涯
エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)は、ドイツ表現主義の画家です。このドイツ表現主義という芸術運動には、主に二つのグループが深くかかわっています。
一つは、ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、パウル・クレー、アレクセイ・ヤウレンスキー、アルフレッド・クービン、ライオネル・ファイニンガー、ガブリエル・ミュンターらが属したミュンヘンのグループ 『青騎士』(ブラウエライター)で1911年に発足しました。
そしてもう一つがキルヒナーの属するドレスデンのグループ 『ブリュッケ』(橋)で、青騎士に先立つこと6年、マチスに代表されるフォービズムが開花したのと同じ年の、1905年6月7日に創立されました。メンバーには他に、フリッツ・ブライル、エーリッヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットロフ、エミール・ノルデ、マックス・ぺヒシュタイン、クーノ・アミエ、オットー・ミュラーがいます。
【ブリュッケについて】 1900年代初頭ドレスデン工科大学で、建築を学ぶ4人の学生、キルヒナー、ブライル、ヘッケル、シュミット=ロットロフが出会いました。彼らは、当時流行の雑誌『ユーゲント』(ドイツにおけるアール・ヌーボー=ユーゲント・スタイルを紹介)や『ジムプリツィシムス』(若いパスキンが挿絵を担当していた)などに刺激を受け、新しい芸術を起こそうという野心に満ちた学生たちでした。
『ブリュッケ』という名称は、「人間の偉大なる所以は、彼が目的ではなく、橋(ブリュッケ)であるところにある」というニーチェの言葉に由来しています。彼らは積極的にグループの意義をアピールし、メンバーを勧誘していきました。私は彼らのうちで、キルヒナーとエミール・ノルデが最も重要な画家であると考えています。
彼らの芸術の指標になったのは、ゴッホ、ムンク、そしてフォービズムの画家たちであり、またドイツのヴォルプスヴェーデ芸術村で活動した女流画家パウラ・モダーゾンベッカーの名を忘れることができません。彼らの芸術に共通していえることは、当時一般に認識されていた“絵画の完成度”という概念が全く当てはまらないことです。そのため、保守的な人々からは、描きかけだ、常人の描いた絵とは思えない、などとひどい攻撃を受けました。
「よし、やるぞ、僕はドイツの芸術を改革してやるぞ」
これはキルヒナー18才の言葉ですが、彼らが認められるには少し時間が必要でした。創立2年めに結婚したフリッツ・ブライルは、グループを去り建築の仕事に戻りましたし、後から加わったエミール・ノルデも1年半ほどで脱会しました。最初に世に受け入れられたのは芸大出身で豊かな経歴を持ち、明快で人好きのする絵を描いたペヒシュタインでした。
1907年初めて画廊で成功をおさめたブリュッケは、1910年までに30の展覧会を組織、拠点もドレスデンからベルリンへ移すことになるのですが、旺盛な活動が展開し始めるのと同時に、もともと個性的でひとくくりにはできない芸術家集団の内部で、不協和音が鳴り始めました。そこで、もう一度グループでの共通事項を明確にするため、「芸術家集団ブリュッケ年代記」の発行を決めたのですが、自分がブリュッケの創設者であるとキルヒナーが記述したために、他のメンバーが気分を害し、結局1913年5月27日ブリュッケは解散しました。
【キルヒナーの芸術】 キルヒナーの芸術にあらわれるモチーフは、初期の牧歌的な自然の中のヌードから、街頭風景、都市を闊歩する女たち、サーカス、舞踏、浴女、神話、自画像、肖像画、さらにピカソを思わせる後期の半具象作品まで多岐にわたります。技法も、版画、油彩、水彩、デッサン彫刻、家具・調度品、壁画にまで及びます。椅子を刻み、食器を作り、テーブルクロスやカーテンに絵を描き、また作ったデザインを妻のエルナに刺繍させたりして、周囲を自らの作品で覆い尽くしたといいます。しかし、彼の総合芸術的な意図は、その私的生活の範囲内にとどまっており、油絵と2400点に及ぶ版画が、彼の代表作を形作っています。
キルヒナーの年譜の最後は、
1937年、ヒトラーのナチス政権により作品を没収され、ミュンヘンで開かれた『頽廃芸術展』に出品させられたことは、画家の苦痛を増大させることになった。1938年、キルヒナーは自らの手で命を絶った。
と結ばれています。他に軍隊時代に受けた苦痛の後遺症による肉体的衰弱と精神的不安をあげている資料もありましたが、これだけでは私には不満でした。なぜなら、彼はユダヤ人ではありませんし、作品を没収された画家は彼以外にもたくさんいて、亡命したものもいましたが、じっと国内で耐え忍び、大戦後教授職などに返り咲いた芸術家も多いためです。
私はその死をもっと具体的に知るために国会図書館に足を運んだのですが、得られた事実は実に痛々しいものでした。それは、第1次大戦と第2次大戦という二つの戦争と、芸術家になれなかった独裁者ヒトラーに翻弄された人生でした。
* * *
【ブリュッケ以後】 1913年のグループ解散後もベルリンで制作を続けていたキルヒナーは、1915年初頭、第1次大戦に突入していた祖国ドイツの陸軍に召集され、ザクセン州ハレの砲兵隊に配属されました。しかし同年11月には除隊となっています。
誇り高い芸術家キルヒナーが軍隊生活で受けた肉体的及び精神的ダメージは相当なもので、フランクフルト近郊のサナトリウムに送られて療養生活を余儀なくされています。以後のキルヒナーは、闘病と創作の二重生活を送ることになります。
そして彼は、前後して、凄惨な「右手首のない自画像」と、上官の監視のもとでの屈辱を匂わせるような「シャワーを浴びる兵士たち」を描いています。余談ですが、前者には、後年、絵筆を持つことをナチスに禁止されるキルヒナー自身の姿が、後者には、アウシュビッツのガス室が私にはだぶって見えてしまうのです。
1917年、交通事故で重症を負ったキルヒナーは、翌年スイスのダヴォスに移住。1923年にはダヴォスに近いブラウンキルヒ=ヴィルボーデンに永住することを決意。1930年代にはミュンヘン、ベルン、ハンブルク、バーゼル、デトロイト、ニューヨークで個展が開催されました。1931年、ベルリンアカデミー会員。しかし、この頃から再び肉体的衰弱と不安が彼を悩ますようになり、かつまた、ナチスの影もしのび寄りつつあったのです。
【頽廃芸術展】 1933年はヒトラーが政権を奪取した年です。
1907年、1908年とウィーンの芸大の入試に失敗していたヒトラーには、画家としての独創性が乏しく、前衛芸術を忌み嫌うという側面がありました。総統となったヒトラーは、ユダヤ人に対するのと同様に、前衛芸術に対する徹底した弾圧に乗り出します。(これは、女優として大成することのなかった毛沢東夫人の江青が、文化大革命の際に演劇人を弾圧し復讐した事実に酷似しています。)
ユダヤ人から全財産を没収すると共に優れた美術品はかき集めてコレクションとし、ナショナルギャラリーの前衛芸術1152点は撤去させました。前衛芸術家たちからも作品を没収すると、制作も禁止しました。保守的な芸術家たちには、ナチスと労働を賛美する作品を7000点も描かせ、1937年には『大ドイツ美術展』を開催、そこにはヒトラー好みの絵ばかりが並べられました。
同年、前衛芸術家たちから没収した絵画を『頽廃芸術展』と名付けて陳列しました。さらしものの刑というわけです。今世紀のドイツを代表する芸術家集団、『ブリュッケ』も『青騎士』も例外ではありませんでした。「無意味」「無分別」「醜悪」「狂気」……といったレッテルを貼られた作品群を、4ヶ月で400万人が観たといいます。それは、もう二度と見られないかもしれない「傑作ぞろい」だったそうです。
ドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次大戦の勃発した1939年には、ヒトラー側近のゲッペルスによって、4000点の頽廃芸術が焼却され、また外貨を稼げる作品3000点は外国へ売り飛ばされました。しかし、前衛芸術を好んだ側近のゲーリングなどは、総統の目を盗んで、没収されたゴッホ、セザンヌ、ムンクなどをコレクションしていたそうです。一方ヒトラーも、1940年にパリを占領するとそれから4年の間に、ユダヤ人所有だった古典から近代に至る名画2万点をドイツに持ちかえったといいます。
【画家の最期】 ユダヤ人だったシャガールやファイニンガーはアメリカへ亡命しました。カンディンスキーはフランスへ、マックス・ベックマンはオランダへ、パウル・クレーはスイスへ、オスカー・ココシュカはイギリスへ、ピエト・モンドリアンはイギリス経由でアメリカへと、いずれも亡命していきました。
1936年から37年にかけて、新たに生じた結核の病苦と経済的な困難にあえいでいたキルヒナーにとって、頽廃芸術展に32枚の作品が掲げられたことは絶望を意味しました。金銭的に余裕があれば、おそらく他の画家たちのように国外へ逃れることもできたのでしょう。
押収されたキルヒナーの作品は639枚。
1938年6月15日、極度の神経衰弱に陥ったキルヒナーは、スイスの自宅でピストル自殺を遂げました。享年58才でした。
(00/03/09)