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モネとホドラー『家族の肖像』
クロード・モネ(1840-1927)という画家はずっと評価していなかった。人間をあまり描いていないこと。人生を描いていないこと。描かれたものが何も暗示していないこと、つまり、写生で終わっていること。そんなことが理由だったろうか。
松方や大原といった日本の大コレクターたちに高値で作品を買わせ、広大な庭園や豪邸を所有する、でっぷり肥えた大金持ちであったという偏見もあった。セザンヌは言った、「モネは眼に過ぎない。しかし、何という素晴らしい眼だ」と。この言葉の前段のみを鵜呑みにしていたのだ。
「積み藁」や「ルーアン大聖堂」のシリーズ、オランジェリー美術館の「睡蓮の間」などを知るうちにこれはとんでもない画家だと思い直したのはそう遠い昔のことではない。
それはさておき、テレビ東京の『芸術に恋して!』を見て初めて知ったのは、若きクロード・モネが極端な貧困に喘いでいたことだった。
「草上の昼食」「庭の女たち」「緑衣の女」「アルジャントゥイユのひなげし」「日傘をさす女」。貧しさを微塵も感じさせない。しかし、美しいいでたちで描かれた恋人や母子の像は、貧しさの中の精一杯の装いだったのだ。
1875年の「ラ・ジャポネーズ」では金髪のかつらを被せたカミーユに着物を着せてポーズをとらせているが、食べるものにもことかいていた彼らの心情を察すると痛々しい。
1876年の妊娠中絶のあとカミーユは重病に陥った。2人目の子供を育てる資力などあるはずもなく、中絶は苦渋の末の決断だったろう。そして1879年長患いの末、最愛の妻カミーユが没する。モネ39才、彼女は32才の若さだった。
『芸術に恋して!』の中で私が衝撃を受けた、一枚のモネの絵、それは死の床のカミーユの肖像だった。
大切な人の死をもキャンバスに残そうとする行為。番組ではこれを、“画家の業”ととらえていた。司会の高嶋ちさとは、「そんなことより、もっと他にすることがあるでしょう!」と憤慨していた。なるほど。
しかし、もう死んだあとだったとしたら、それほど非難されるべき行為でもない。それをさせるのは画家の中の絶望的な悲しみなのだ。“めったに得られないモチーフを描くチャンス”だから描く、のではなく、もう二度と彼女を描くことができないから描くのだ。
まず、その絵を描写する前に、もう一人の画家を紹介しよう。死体を描いた画家は多いし、死に行く家族を描いた画家も少なくない。中でもスイス人のフェルナンド・ホドラー(1853-1918)が、内縁の妻を描いた一連のシリーズは有名である。
1909年、55才の画家は36才の美術教師ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルに出会った。4年後には二人の間に一人娘が生まれるが、その前年から彼女には癌の兆候が現われていた。
ホドラーは出会った当初から彼女の死まで百枚以上の肖像を描いた。こちらを見返す元気な美しい肖像。生まれた娘を抱く姿。力なく見返す「病めるヴァランティ―ヌ」。苦しそうに口で息をする「死に近きヴァランティ―ヌ」。そして物質と化した「死の床のヴァランティ―ヌ」。 それらは衝撃的な作品である。と同時に、確かに残酷な作品群と言えるだろう。日本にも『九相詩絵巻』(鎌倉時代)と呼ばれる類似のものがあるけれども、ホドラーは特定の人物をモデルにしているためにその表現性は際立っている。 さて、ホドラーの制作を遡ること36年、印象派のクロード・モネはどう描いたか。
一般に知られているモネの制作方法は、常に同じ光のもとで描いたということである。カミーユの死から10年後の作品 『積み藁』、『ポプラ並木』、『ルーアン大聖堂』、これらはすべてそうであった。
死人を描いた絵でいいものはない。そこには希望のかけらもない。しかし、番組の中で垣間見た、妻カミーユの最後の肖像、それは驚くべきものだった。
死人を描いた絵でいいものなどないと書いた。しかし、『死の床のカミーユ』は、例外である。あの絵はどこで見られるのだろうか。 (02/03/09) |
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「ヴァラティーヌ・ゴデ=ダレルの肖像」1910 | |
「ヴァラティーヌと娘ポーレット」1913 | |
「病めるヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル」1914 | |
「病めるヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル」1914 | |
「死に近きヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル」1915 | |
「死に近きヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル」1915 | |
「死の床のヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル」1915 | |
モネの絵画 | |
「死の床のカミーユ」1879 ajiさんの協力でこの絵を見つけることができました。 |