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- No.11 豊臣秀吉の肖像画(逸翁美術館)
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 豊臣秀吉の肖像画(逸翁美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主・豊臣秀吉およびキリシタン政策について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
◆◆【1】豊臣秀吉の肖像画(逸翁美術館)◆◆
豊臣秀吉の彩色肖像画制作のための画稿(デッサン)であり、狩野永徳の 嫡男・光信が、面前で描いた寿像と考えられている。
なお、本稿は2007年06月25日にまぐまぐから配信した原稿を加筆改定した ものである。
★豊臣秀吉の肖像画(逸翁美術館)はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p11.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 豊臣秀吉画像(画稿)
作者名: 狩野光信
材 質: 紙本淡彩(日本画・軸装)
寸 法: 53.4×59.4cm
制作年: 1598年以前
所在地: 逸翁美術館(大阪府池田市)
注文者: 豊臣秀吉正妻・高台院であろう。
意 味: 追慕像制作のための画稿で、本画稿は狩野光信が太閤秀吉の面前で描いたとされる。
下部に「これかよくに申よしきいて候」(これが良く似申し由、聞いて候) という書き入れがある。
◆◆【3】像主・豊臣秀吉(1537-1598)について ◆◆
室町から桃山時代の武将。織田信秀の足軽百姓・弥右衛門の子として、尾張 の中村に生まれ、幼名を日吉丸、のち藤吉郎と呼ばれた。姉に甥・秀次を生ん だ、のちの瑞龍院があった。
母は御器所村の人で、夫・弥右衛門との死別後、信秀の元同朋衆だった竹阿 弥と再婚し、秀吉の異父弟にあたる小一郎(のちの秀長)と、のちに徳川家康 に嫁ぐことになる異父妹・旭をもうけた。
彼は15歳ごろ家を出ると、遠江・今川氏に属する松下嘉兵衛之綱に雇われた が、1558年尾張に戻って信秀の子・織田信長に仕え、木下藤吉郎と名乗る。 1561年には浅野長勝の養女(杉原助左衛門定利の娘)ねね(1548-1624)を妻 に迎えた。
次第に信長に重用され、1566年の美濃・斎藤氏攻めにあたっては、墨俣城築 城に才能を示した。南近江・六角氏攻め、伊勢・神戸氏、北畠氏攻め、近江・ 浅井氏、越前・朝倉氏を破った姉川の合戦などに功績があり、近江・小谷城主 12万石、ついで長浜城主となる。
浅井攻めの頃から斎藤氏の家臣だった竹中半兵衛重治を軍師として用い、ま た羽柴筑前守秀吉を名乗るようになった。
1577年信長の命で、西国の雄・毛利氏攻めにあたる。播磨・姫路城主、黒田 官兵衛孝高を配下とすると、播磨・三木城の別所氏、備前・宇喜多氏、因幡の 鳥取城主・吉川経家をくだし、1582年には備中・高松城の清水氏を包囲した。
このとき秀吉の援護に向かう予定だった信長が、6月2日家臣・明智光秀によ って京都・本能寺で非業の最期を遂げるという大事件が起こった。
主君の死に、さすがの秀吉も茫然自失、泣き崩れたというが、竹中亡きあと の軍師・黒田官兵衛の秘策で、毛利氏と急ぎ和議を結び、光秀を討つため大軍 を取って返す、中国大返しを挙行した。
現在の岡山市の先から京都・山崎まで距離にして200km 超。秀吉軍は駆けに 駆けた。家来の前野某が、「何も知らされず、あのときほど苦しい思いをした ことはない」と述懐した記録が前野家文書『武功夜話』に残されている。
北陸道で上杉氏に釘付けの柴田勝家、武田氏の旧領経営に就いたばかりの東 山道の滝川一益、京に遊覧中の東海道の徳川家康、兵士逃亡が相次ぎ大阪城に 移動せざるを得なかった神戸信孝・丹羽長秀。
信長家臣団の誰もが動けない中で、遠隔地で最大の敵・毛利氏と対峙してい た秀吉が、本能寺の変後わずか11日めにして、逆臣・明智光秀を敗走させた。
このことは信長死後の事態収拾のための清洲会議で秀吉を優位に立たせるこ とになる。彼は、信長の次男・信雄と三男・信孝、筆頭家老の柴田勝家を退け て、信長の孫・三法師(秀信)を擁立し、後継者にのし上がった。
翌1583年4月、賤ヶ岳の合戦で、織田信孝、滝川一益、柴田勝家連合軍を破 りると、その年の9月から3年がかりで大坂石山本願寺跡に巨大な大坂城を築い た。城下には堺・伏見の商人を移し大城下町を実現した。
1584年には、徳川家康・織田信雄連合軍と争う。戦さ巧者の家康は、小牧・ 長久手の戦いで秀吉軍を完敗させ、土佐の長宗我部氏、紀伊の雑賀衆、越中の 佐々成政とも連携を取っていた。しかしここで、秀吉が信雄を抱き込むという 挙に出たため、大義名分を失った家康は講和した。
1585年徳川家康は、秀吉から妹の旭姫、実母の大政所を人質に差出されたの を潮に、翌1586年大坂に上り、臣属することになる。この年、秀吉は豊臣の姓 を入手し、関白に就任した。同年土佐の長宗我部元親を屈服させ、1587年には 薩摩の島津義久を攻略し九州を平定した。聚楽第の完成はこの年のこと。
1590年秀吉は、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼし、奥州の伊達正宗を帰服さ せ、信長も成し得なかった天下統一を遂に完成させた。
1591年1月、人望の高かった秀吉の弟・大和大納言・豊臣秀長が死んだ。
百姓出身の秀長は、兄に仕えるようになってからも、力攻めを避け、寝返り 工作、兵糧攻めを好む有能な謀将だった。彼は秀吉の軍政にとって最大の功労 者であり、唯一信頼を置くことのできた人間である。
秀長の死後は、天下人・秀吉に歯止めをかけるものがいなくなったため、そ の無道ぶりだけが際立つことになった。
翌2月、商人で茶の宗匠・千利休を切腹させ、1595年には後継者に定めてい た甥の関白秀次・その子女・妻妾三十余人と家臣前田長重らを殺害した。
そして、晩年の秀吉を締めくくるのは、海外侵略の野望、悪名高い朝鮮出兵 である。1580年代中頃から朝鮮に対して幾度も入貢を促しており、前後してポ ルトガル領インド総督やフィリピンのマニラ政庁、高山国(台湾)にも入貢を 勧めていた。
朝鮮王室が応ずることなく、秀吉の号令が全国に降る。こうして、一度目の 文禄の役(壬辰倭乱:1592-96)では15万8千人、二度目の慶長の役(丁酉倭乱 :1597-98)では14万人の軍隊が大陸に渡っていった。
すべてが順調だった1592年6月頃、秀吉自らも朝鮮に渡ろうとした。まさに 乗船寸前だったが、徳川家康・前田利家により強く諌止された。道中の安全を 憂えてというのが表向きの理由だったが、大陸侵略はまったく実情にそぐわぬ ものだったからである。家康たちには先が見えていた。
いずれも緒戦は連戦連勝。しかし、大砲を活用する全羅水軍節度使・李舜臣 の大活躍により制海権を握られ、補給路を断たれた秀吉軍の戦局は次第に悪化 する。
戦いが長引くに連れ、兵糧の欠乏は深刻さを増し、敗走が繰り返されたが、 朝鮮民衆への残虐行為は増え続けた。朝鮮側に幾十万の犠牲が出たのか、記録 はない。やがて日本軍の中にも、厭戦気分が蔓延。朝鮮・明連合軍に投降・参 軍する兵士(降倭)があいついだ。
秀吉は戦争処理の着かぬまま、1598年8月唯一の後継者・秀頼(1593-1615) の将来を案じながら62歳で病死した。
【秀吉のキリシタン政策について】
1587年のこと。九州平定の途上にあった秀吉は、キリシタンの布教された地 域の神社仏閣が荒廃し尽くされていることに驚いた。同時に、キリシタンが一 向宗と同じ一大勢力になる危険性を感じ取る。
宣教師たちはキリシタン大名の領内で宣教活動を行う一方、奴隷売買を仲介 していた。キリシタン大名の大友宗麟・高山右近・有馬晴信らは、火薬を得る ために人身売買を容認。「火薬一樽につき日本娘50人」だったという。
同年7月秀吉は、11ヶ条からなる「伴天連(ばてれん)追放令」を発令した。 しかし、キリスト教が予想以上に普及しており、南蛮貿易を許可していたこと から、その効力はさほど強くなかった。
1590年には、天正遣欧少年使節が帰国した。大友、大村、有馬の甥たちは、 売り飛ばされた見目の良い日本娘たちのことをヨーロッパ各地で見聞きしてい た。その数50万人。宣教師たちはインド・アフリカまで売りさばいていた。
さらに1596年9月、土佐の浦戸に、スペイン商船サン・フェリペ号が漂着し た。9年前に発令された「伴天連追放令」で通商は断絶していたため、船の貨 物は没収された。
船長は、秀吉が派遣した増田長盛に世界地図を見せ、「広大な領土を持つス ペイン人を虐待するとただでは済まない」と威嚇した。
長盛が「いかにしてこのような領土を得たのか?」とたずねると、船長は 「まず宣教師を派遣して、人民を帰依させてのち、乱を煽動する。しかるのち に軍隊を送り、その国を征服する」と語った。
宣教師たちはスペインの、世界最強の海軍力を背景にキリシタン大名を取り 込み、「日本占領計画」を進めようとしている。朝鮮征伐でも明らかなように 日本は海軍力が弱く、兵器も十分ではない。
秀吉はこの報告を聞き及ぶにいたって、キリシタン禁教に踏み切った。同年 11月のことである。石田三成には、京都在住の宣教師と信徒の捕縛を命じた。
捕えられたキリシタンら26名は、京都からわざわざ長崎まで引きまわされ、 十字架に縛り付けられたまま槍で処刑された。有名な「長崎二十六聖人殉教」 である。キリスト教世界に対する大デモンストレーションとして、秀吉はわざ と、知れ渡るように行なったのである。
こののち、秀吉の外交政策は次の天下人・徳川家康に引き継がれた。やがて それは鎖国として完成された。当時の日本にあっては、日本国民の安全を保持 し、またヨーロッパと著しく異なる金銀の価値基準を維持する上でも必要な優 れた政策であった。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
(※メルマガNo.1の「織田信長の肖像画(二)」と作者が同一のため、
この項は、そのまま全文引用している。)
絵師の名は狩野右京光信(1565-1608)。狩野永徳洲信(1543-1590)の長男 である。弟には狩野右近孝信(1571-1618)がいた。
江戸時代の画人伝『本朝画史』には興味深い光信に関する人物評が書かれて いた。以下に全文を引用する。
狩野光信者永徳嫡子也、称右京進。画様不如父意、故未伝家法、永徳没後 従家族及諸門生、孜々(しし)得家法。為花草禽虫、倭画風情軽柔可愛、 又倣玉澗(ぎょくかん)之山水、雖不及父不凡。慶長壬寅(みずのえとら) 年死寿四十二歳令。洛下相國寺法堂天井蟠龍図乃光信之墨痕也。
筆者の意訳では、
狩野光信は永徳の嫡子であり、右京進と称する。絵様が父の意に沿わない
ものであった故に家法を伝授されなかったが、一族の者や父の門人に従っ
て懸命に努め家法を得た。
花草鳥虫を描く、やまと絵の風情は軽く柔かで愛すべきものである。また
玉澗(破墨山水画で知られる中国南宋の画僧)に倣い、父に及ばずといえ
ども並大抵な才能にあらず。慶長7年(1602)42歳で死去。
京都相国寺法堂の天井画「蟠(ばん)龍図」は光信の墨画である。
(ここでは、光信は1602年に数えの42歳で死去と記されており、1561年生ま れということになる。)
この本の著者は京狩野の絵師・狩野永納吉信(1631-97)であるが、永納は 父である狩野山雪光家(1589-1651)が企画した「画人伝」の遺稿を受け継い で完成させている。
山雪の師匠で養父であったのが、狩野山楽光頼(1559-1635)である。山楽 といえば永徳門下における光信の兄弟子にあたり、数百人を数える歴代狩野派 絵師の中でも、三本の指に入る天才肌の画人だった。
永納は、光信とは生きた時代が異なっているからその人となりを知らぬ。
山雪は同時代人ではあるが、光信が狩野宗家の長(おさ)であるのに対して 自分は弟子筋の京狩野であって、かつ一世代下であった。
したがって『本朝画史』の光信評は、山雪のものというより、山楽の考えを よく伝えているものと思われる。
そう考えると、長命だった兄弟子・山楽が、師匠の倅(せがれ)をどう見て いたのかが、生きた言葉で書き表されていて非常に面白い。
安土城の作事が始まった1576年、父永徳に従う光信は11才(本朝画史によれ ば15才)であるからこれが“初陣”であったろう。
完成した安土城普請に大いに満足した信長は、1581年大工棟梁・絵師その他 計13名ほどを城に招き、全員に小袖を賜った。永徳は「天下一」及び「法印」 の称号と知行300石を与えられた。息子の光信もこの席に連なっている。
1582年信長の死によって、安土城天守閣は灰燼に帰したが、永徳一門は新た な天下人秀吉によって、また宮中や大寺院の要請によって息つく暇もないほど の障壁画作事に忙殺されることになった。
1584年~大坂城御殿
1586年~正親町院御所
1587年~聚楽第
1590年~内裏(この年永徳は48才で死去)
1592年~肥前名護屋城
1595年~法然院方丈「槇に海棠図(まきにかいどうず)」「桐に竹図」
1600年~園城寺勧学院客殿「四季花木図」「深山瀑布図」
1602年~都久夫須麻(つくぶすま、竹生島)神社本殿「花木図」
1603年~京都徳川秀忠邸「大内裏図」
1605年~高台寺御霊屋(秀吉・ねねの霊廟)「浜松図」
1605年~相国寺法堂天井画「蟠龍図」
これ以外には
「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県立名護屋城博物館)
「春秋花鳥図屏風」(個人像)
「豊臣秀吉肖像画」(宇和島伊達文化保存会/高台寺/逸翁美術館等)
「三十六歌仙図扁額」(宗像大社)
光信の門人であった狩野一渓重良(1599-1662)は、日本で最初の画人伝 『丹青若木集』を残しているが、師匠の光信を評して、
家法を伝え図絵に長じ、筆力は軽妙自在でありながら強靭かつ重厚なり。
人物の手足は小さく為し、于花(うのはな)禽鳥の描写に長ずる。
関白豊臣秀吉公の御殿に花草図に画いたところ、胡蝶が来りて画花に
遊び戯れ、これを見た人が皆感称したものだ。
『丹青若木集』には続けて光信の妻についての記述もある。
右京光信は、土佐将監の聟(むこ)也。
狩野光信は、亡き土佐将監光元の娘(光吉の養女)を妻に迎える。
これは曽祖父・狩野元信(1477-1559)が、土佐光信の娘を娶ることで やまと絵を家法に取り入れ、同時にこの姻戚関係を利用して、禁裏の仕事に 進出した前例に倣ったものだった。
光信夫婦の間には、のちの左近貞信(1597-1623)が生まれたが、貞信は 後継ぎを残すことなく没したため、狩野宗家は、光信の弟・右近孝信の三男 ・安信によって引き継がれることになった。
1608年夏、右京光信は徳川氏の仕事のため江戸に東下した帰途、桑名で 病没した。享年44とも42とも伝わる。
父永徳と同じく、光信もまた過労が早世の原因になったと思われる。 光信は兄弟子の山楽と共に、織田・豊臣・徳川に仕えた稀有の画人だった。
後世、「狩野光信兄弟は親に似ず至極の下手にて候」(木村探元著『三暁庵 雑志』)と書かれ、「下手右京、下手右近」と噂された光信ではあるが、近年 これらの悪評は覆されてきている。
筆者が現存する作品の図版を見る限りにおいても、当を得ているとは思えな い。むしろ、永徳に認められなかった光信は、父とは一線を画する様式を生涯 を通じて目指したのだと思える。
永徳の「巨樹」に代表される荒々しさ、豪快さ、一転して「洛中洛外図」に 見られるような乾いた緻密さ。
これに対して光信は、「花木図」に見られる柔らかな潤いを帯びた表現、優 美で繊細、かつどこまでも構成的な画面を追及した。
父と子は相反する表現を、狩野派の伝統として決定づけたのである。
山楽の天才も、光信の芸術には瞠目した。
とはいうものの、『本朝画史』に山楽・山雪・永納ラインが一点だけ特記、 紹介した光信の作品は、相国寺法堂の天井画「蟠龍図」であった。
これは珍しく、豪快で重厚な、永徳ばりの蟠龍である。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
全図では、胸から上が重ね貼りされた別紙の上に描かれたことが分かる。
また下部に「これかよくに申よしきいて候」(これが良く似ていると聞いて います)という、取次ぎ者の書き入れがあることから、別紙大の下絵が数枚あ って、その中から選ばれた一枚なのであろう。
「似ている」と言ったのは、秀吉当人なのか夫人なのかは不明だが、この絵 は下絵であり、これを元にした本絵があったに違いない。
参考図として掲載した高台寺本は、豊臣秀吉像として教科書に掲載される最 も有名な肖像で、神格化した「豊国大明神」を表わしている。これと本図は似 ているが、元々高台寺本のために描かれたものかは疑わしい。
普通、日本画で本絵を作る際、原寸下絵をそっくり同じに敷き写す。つまり トレースするのである。もちろん修正することはある。しかし、2枚を比べて みると、参考図では「気」や「線質」が劣っている。
本図を参考にしている(見ながら描いている)ことは間違いないが、シワ の向きや長さに微妙な相違があって、筆者には絵師が別人のように思える。
詳しく本図を見てみよう。
秀吉は黒い表衣(うえのきぬ)の束帯姿で上畳に座っている。神護寺蔵の有 名な源頼朝像と同じく、朝廷の正装に身を包む伝統的な様式である。
冠を被り、右手に笏(しゃく)を持ち、腰に佩いた(吊るした)太刀の柄 (つか)に右手を置いている。
痩せてはいるがまず堂々とした体躯である。
しかし、熟視すると面白いことに気づく。
袖口を見てほしい。何か変ではないだろうか? 両の前腕部あたりには袖の 黒い穴がのぞいているではないか。さらにその下には黒く塗りつぶされた両手 が見えている。ここがデッサンの面白いところである。
初めに描かれた両手は、もっと上部にあったことが分かるのだ。そうしてみ ると、秀吉の腕は随分短い。頭部に別紙が重ね貼りされているのも、当初はも っと小さな頭部だったのを修正するためだったのかもしれない。
秀吉は、猿とあだ名される小男だったことは事実である。しかし、後世に伝 わる肖像画のためには、小男に見えないように修正が施されたのだ。
顔を見る。狭い額に小さな顎。肉付きの悪い頬。
秀吉の容貌は、貧相といえるかもしれないが、バランス良く整った顔立ちで もある。なるほど一代で天下を取った男、百姓のこせがれから天下様まで昇り つめ、現代では出世の神、金運の神とも称される男とはこういう顔なのか。
注意力・観察力に優れ、機転が利き、行動力がずば抜けていた秀吉。人間関 係・調整力、人たらしの天才。
表情は冷たくもあり、温かくもある。瞳の色は明るい。目じりのしわも克明 に描かれ、笑えば好々爺だったに違いない。
絵師はそれらを良く写し得ているといえるだろう。また、黒い強装束を縁取 る肥痩線の自然な美しさ。高台寺本の無味乾燥な鉄線描(太さの変らない細い 線)と比べてほしい。
日本画の本絵とは、下絵をなぞったものに過ぎず、線は死んでいることが多 い。それは職工の絵といえる。一方、本絵においても生きた線を描ける絵師。 それが本当の芸術家と呼べるだろう。
光信は決して、単なる職工ではないのだが、繰り返し豊国大明神の肖像画を 描かされたためか、晩年の狂気の秀吉をまじかに知っているためか、本絵の方 はどうも、気が乗らない印象がある。
このような例は光信の場合ほかにもあって、大阪城天守閣所蔵の秀吉像 などは一切神格化がされておらず、まさに浅黒い百姓翁が、白い直衣姿で 座っているといった趣きである。
晩年の秀吉はこんなものだったろうと思わせる面白い作品なのだ。
そして筆者が最も興味を引かれるのが、京都市左京区・光福寺蔵の羽柴秀吉 像である。
これこそが信長の下でがんがん戦っていた若き秀吉を彷彿とさせる佳品であり、 この作品の資料が見つかった際には、再び秀吉について書いてみたいと思っている。
〈参考文献〉
「絵師 ものと人間の文化史63」武者小路穣著(法政大学出版局)1990年
「戦国武将の肖像画」二木謙一・須藤茂樹著(新人物往来社)2011年
「歴史読本 特集 日本の英雄 肖像大全」(新人物往来社)2006年
「日本肖像画史」成瀬不二雄著(中央公論美術出版)2004年
「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年
「狩野永徳展図録」京都国立博物館(毎日新聞社)2007年
「ブック・オブ・ブックス 日本の美術33 肖像画」宮 次男著(小学館) 1975年
「日本美術全集10 黄金とわび」山本英男著(小学館)2013年
「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年
「日本美術全集18 近世武将の美術」宮島新一他(学研)1979年
「ジャポニカ大日本百科事典」(小学館)
「世界大百科事典」(平凡社)
「ブリタニカ国際大百科事典」(TBSブリタニカ)
◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
これまで日本の戦国時代(室町後期~安土桃山)の肖像画を取り上げてきま した。次回からはしばらく、西洋の肖像画を取り上げたいと思います。
巻頭を飾るのは世界で最も有名な肖像画・レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナリザ」です。時代は少しさかのぼって、西暦1500年前後の盛期ルネサン ス、日本でいえば室町中期にあたります。
では次回「モナリザ」をどうぞご期待ください。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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