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- No.12 モナリザの肖像画(ルーブル美術館)
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 モナリザの肖像画(ルーブル美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】モナリザの肖像画(ルーブル美術館)◆◆
これまで日本の戦国時代(室町後期~安土桃山)の肖像画を取り上げてきま した。今回からはしばらく、西洋の肖像画を取り上げたいと思います。
巻頭を飾るのは世界で最も有名な肖像画・レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナリザ」です。時代は少しさかのぼって、西暦1500年前後の盛期ルネサン ス、日本でいえば室町中期にあたります。
★モナリザの肖像画(ルーブル美術館)はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p12.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: モナリザ(Monna Liza:リザ夫人の意)
作者名: レオナルド・ダ・ヴィンチ
材 質: 油彩(ポプラ板)
寸 法: 77×53cm
制作年: 1500~1510年頃
所在地: ルーブル美術館(フランス・パリ)
注文者: 多くの芸術家のパトロンだったイザベラ・デステ本人。
意 味: 筆者はこの肖像画を《マントヴァ侯爵フランチェスコ・ゴンザーガ の妻イザベラ・デステの肖像》と考えるが、現在、イザベラ・デステ説は、定 説とされていない。
※ルーブル美術館では、《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ ゲラルディーニの肖像》としている。
◆◆【3】像主について◆◆
まず、《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニ の肖像》 説は、主に有名な「美術家列伝」を書いたジョルジョ・ヴァザーリ (1511-74)の記録に拠っている。
リーザ・ゲラルディーニは、1479年に生まれ、1495年にフィレンツェの裕福 な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した。近年ジョコンド家の歴 史はかなり明らかになっている。
しかし、レオナルドとジョコンド家の交流や作画に関わる契約書・書簡類は 残っていない。「美術家列伝」も他の記録が書かれたのも、レオナルドの死後 40年近く経っている。
ただレオナルドの弟子サライが、師がフランスで客死した後、一度モナリザ をイタリアに持ちかえっているが、そのとき作品のことを「ラ・ジョコンダ」 と書き残している事実はある。
イザベラ・デステ(1474-1539)は、1474年5月フェラーラの公爵家に生まれ た。父は、エルコレ1世・デステ。母はナポリ王フェルディナンド1世の娘エレ オノーラである。 翌1475年6月には、妹ベアトリーチェが生まれている。
幼い頃から高貴な教育を受け、芸術家に囲まれて育った。6才で婚約し、 1490年16才で、ミラノの隣接するマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ侯 爵に嫁いだ。芸術通の彼女は、そこで有名な芸術家のサロンを形成している。
妹ベアトリーチェは、ミラノのスフォルツァ家の当主ルドヴィーコ・スフォ ルツァ(通称イル・モーロ1452-1508)に嫁いだ。夫ルドヴィーコは、数多く の愛妾をもち、その一人チェチーリア・ガッレラーニの美しい肖像画を、1485 ~90年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチに描かせている。
この名高い肖像画のことを妹のベアトリーチェから伝え聞いたイザベラは、 強い関心を持ち、絵を借りたいと手紙に書いている。
レオナルド本人とも連絡を取り、1500年彼がミラノからフィレンツェに帰る 途中、マントヴァに立寄ってもらい、肖像画の画稿を描かせている。その中の 譲り受けた作品がルーブルに伝わるイザベラ・デステの肖像デッサンである。
レオナルドがフィレンツェに持ちかえった画稿から油絵を描き起こす約束で あった。しかし、多忙で遅筆の画家は容易に仕上げることがなかった。期日は 過ぎ、幾度もイザベラは肖像画を要求する手紙を書き送っている。
これらの手紙と経緯は残っているが、油絵がイザベラの手に渡ることはつい になかったのである。またその画稿が「モナリザ」と酷似しているため、古く からその油絵は、イザベラ・デステの肖像と考えられていた。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)。イタリア・ルネサンスを代表する 万能芸術家。
フィレンツェ近郊のダ・ヴィンチ村に生まれ、画家・彫刻家のヴェロッキオ に師事したが、次第に師の画技をしのぎ、それがためにヴェロッキオは絵筆を 折ったと伝わる。
画家・彫刻家・建築家・機械技術者・科学者・音楽家・演出家であり、地質 、水力、天文、植物、解剖学を研究し、当時最高の水準に達した。
絵画では、「モナリザ」「岩窟の生母」「最後の晩餐」が名高い。「聖アン ナと聖母子」「三王礼拝」「アンギアリの闘い」「スフォルツァの騎馬像」な ど、造形芸術家としては未完成に終わった作品が多いのも彼の特徴である。
フィレンツェのメディチ家とミラノのスフォルツァ家のために多くの仕事を し、晩年はフランス王フランソワ1世に招かれ、アンボアーズのクルー城に没 した。享年67。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
筆者は先述したように、「モナリザ」が、ジョコンド夫人像ではなく、イザ ベラ・デステの肖像画と考えている。
レオナルドは駄作が少ない。それは、描いていくらの注文画であっても、常 にそれまでの自分を凌駕する作品を作るよう心掛けていたからである。
また彼は実に色気の多い人間であったから、常に多忙で寡作である。絵筆は 非常に遅い。「モナリザ」には力も入っていたが、期間が空き過ぎて、像主の 精神も容貌も、変貌せざるを得なかった。
イザベラ・デステの画稿と油絵本画を比べると、画稿では20代前半の初々し さが見えるが、「モナリザ」ではそれが消え、成熟性が際立つ。
何年もモデルを見ないでいるうち、「モナリザ」は肖像画ではなく、理想の 女性像に昇華されていった。それは、男色家のレオナルドにとっての理想の女 性、つまり生母の姿が重ねられていると考えてよいだろう。
自分のための絵画、唯一の最高傑作。
そして、マントヴァのイザベラ・デステには、いよいよ渡せない。度重なる 引渡し要求の手紙に対しても、苦しい言い訳というか、イザベラを避け続けた だろうことは想像に固くない。
ジョコンド夫人という商家の女性を前にして、レオナルドが絵を描いた事実 はあるのかもしれない。
「イザベラ・デステ像」を、「リザ・ジョコンド夫人」つまり「モナリザ」 というように、レオナルドが意識的に混同して呼ぶことで、侯爵夫人イザベラ に奪還されることのないように気遣った、というのが筆者の推測である。
マンテーニャ、ペルジーノ、コレッジョ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティ ツィアーノ、ラファエロの弟子ジューリオ・ロマーノ、ルーベンス…。マント ヴァのゴンザーガ家に出入りした芸術家には、そうそうたる名前が連なる。
「イザベラ・デステの肖像」も、結婚前の肖像画(作者未詳)と、ジュリオ ・ロマーノが1524年頃50才前後のイザベラを描いたものがあり、これらの容貌 には、「モナリザ」と共通するものが明らかに存在する。
ベネチアの画家ティツィアーノ(1847-1577)も1534-36年頃描いているが、 若く描かれた画像は、当時60才前後のイザベラとは思えず、フランドルの画家 ルーベンス(1577-1640)の作品も残るが、もはやイザベラの実像を伝えてい るとはいえないだろう。
さて最後に、1550年出版のジョルジョ・ヴァザーリ著「ルネサンス画人伝」 (白水社)のレオナルド・ダ・ヴィンチの章(田中英道訳)から、モナリザに 関する記述を全文抜粋しよう。
ちなみに、レオナルドが遠いフランスで客死したとき、ヴァザーリは8才だ った。彼は後年、彫刻家ミケランジェロに弟子入りする。「モナリザ」を実見 したのはずっと後のことであろうし、逸話もすべて聞き書きである。
レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻モナ・
リーザの肖像を描くことになった。そして4年以上も苦心を重ねた後、未
完成のまま残した。
この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォン
テンブローにある。芸術がどれほどまで自然を模倣することが出きるかを
知りたいと思う人があれば、この肖像によって容易に理解することができ
るであろう。
なぜなら、ここには精緻きわまる筆で描きうるすべての細部が写されてい
るからである。
眼は生きているものに常に見られる、あの輝きを潤いをもっている。そし
て周囲には赤みを帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感
覚なくしては描きえないものである。
眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさ
まざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であること
は不可能である。鼻孔の美しいその鼻はばら色でやわらかく、まるで生き
ているようである。
口はその開きぐあいとい、また口唇が赤で描き出されているさまや、顔色
が真に迫っているところなど、色が着けられてのではなく、肉そのものと
思われるほどであった。咽喉のへこみを気をつけて見る人には脈が打つの
が見える。
実にかくなる方法でかかれたこの絵は、すべての作家、いかなる祭神をも
戦慄させ、恐れさせてしまうということができる。
彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼
女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ耐えず道化る者をそばにおい
て、楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱な気分を
絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。
レオナルドのこの作品には心地よい微笑があるが、そこからは人間的とい
うより神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはな
いほど見事なものである。
長々と引用したのは、500年経過した現在の状態と比べるためである。
ヴァザーリの讃美した眉毛はほとんど消えている。肉そのものに思われるほ どだった顔・鼻のばら色や、口唇の赤色は吹き飛んでしまい、下地の黄土色が 透けて、鈍い金色に見える。
脈を打っていたという咽喉はただ暗いだけ。背景以外は、「グリザイユ」と いう単色(この場合は黄土色+無彩色の白と黒)を使った精気のないモノクロ 画に変わり果ててしまった。
そしてなにより、顔、胸一面を覆う亀裂。
これらはすべて、画家が伝統的技法(メチエ)を無視したことに起因する。
色を着けるのに、グラッシと呼ばれる透明技法を徹底すれば、迫真的な表現 はできる。
しかし、乾性油をあまりに多用し、顔料が少な過ぎたため、時の経過に絶え られず、色みが消し飛び、ただの透明油に変化した。
赤みの消失は、植物性の赤を用いたことが原因である。
亀裂は、画家のこらえ性の無さを表わしている。
油絵の具は乾燥するのが遅いのが特性である。一日描き続けることは構わな いが、翌日以降は、乾いていない部分に色を塗ることは好ましくない。
絵の具は表面から乾く。絵の具層は、乾けば縮もうとする。 下地が乾いていれば、上層の縮みに耐えられるのだが、生乾きだと、下地ご と動くので、これが醜い亀裂の原因となる。
また板の表面に、あらかじめ麻や綿布を貼っておけば、板の繊維に沿って亀 裂が発生することを抑えられる。
発明の天才レオナルドは、自分で絵画技法を改造してしまった。
しかし、経年変化は、計算どおりにはいかない。経験則が最重要なのだ。こ うした約束事を、普通の画家はきっちり守っているから、絵の劣化はレオナル ドほどひどくない。
ただ幸い、下層のデッサン(明暗表現)はしっかりしており、品格が失われ ていないため、五世紀の間、称賛の声は途絶えることがなかった。
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は夭折の天才画家ラファエロの肖像画を取り上げます。モナリザの影響 を受けて描かれた「貴婦人の肖像」もしくは「沈黙する女」と呼ばれる世界最 高傑作のひとつです。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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