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- No.13 貴婦人の肖像画(イタリア・マルケ州美術館)
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時空を超えて~歴代肖像画1千年
No.0013
2008年03月30日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ラファエロ作「貴婦人の肖像画」(イタリア・マルケ州美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】貴婦人の肖像画(イタリア・マルケ州美術館)◆◆
イタリア盛期ルネサンスに活躍した夭折の天才画家ラファエロの作品を取り 上げます。モナリザの影響を受けて描かれた「貴婦人の肖像」もしくは「沈黙 する女」と呼ばれる世界最高傑作のひとつです。
★貴婦人の肖像画(イタリア・マルケ州美術館)はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p13.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 貴婦人の肖像(沈黙する女)
作者名: ラファエロ・サンツィオ
材 質: 油彩(板)
寸 法: 64×48cm
制作年: 1507年頃<br>
所在地: 国立マルケ州美術館(イタリア・ウルビーノ)
注文者: 不詳
意 味: イタリア語では、Ritratto di gentildonna (La muta):貴婦人の 肖像(沈黙する女)と表記されている。 La Mutaとは、口の利けない人のこ とをいうが、寡黙な人という意味にとれる。
ラファエロの生前は、「○○夫人の肖像」と呼ばれていたに違いないが、所 有者が変わるうちにモデル名が失われ、現在の謎めいた画題が冠せられること になった。
◆◆【3】像主について◆◆
モデルの名前やいわれなどは伝わっていない。
絵の来歴で確かなのは、ウルビーノの国立マルケ州美術館に収蔵される前は フィレンツェのウフィツィ美術館で数百年の間、保管されていたこと。それに 本作品がラファエロの手に帰せられたのは遠い昔ではないこと、だけである。
長くフィレンツェに絵があったということ、制作年1507年がラファエロのフ ィレンツェ時代にあたること、モデルが貴金属を多く身にまとっていることか ら、フィレンツェの裕福な家庭(商家或いは貴族)の夫人であったろうことは 推測できる。
また、理知的で落ち着いた容貌、改まった衣装などから、正式な依頼画であ ったことは間違いない。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
画家の名は、ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(1483-1520)。著 名な建築家ブラマンテ(1444-1515)を友人に持つ父・ジョバンニもまた、同 じく画家であった。
ジョバンニはあえて乳母を雇わず、実母の母乳でこの一人息子を育てたこと が、記録に残る。両親の愛情と躾に育まれたラファエロは、礼儀正しく、誰か らも愛される優しい性格の青年となる。
ラファエロは、早くから、父の英才教育を受け、ウルビーノ公国内での父の 仕事を手伝った。ほどなく自分をしのいだと感じたジョバンニは、息子を当代 随一の画家といわれたペルージャのピエトロ・ペルジーノ(1446-1523)に弟 子入りさせた。1494年、11歳のときである。
ペルジーノは、当地ペルージャでピエロ・デラ・フランチェスカに遠近を学 び、フィレンツェでは、ヴェロッキオに師事した。レオナルド・ダ・ヴィンチ とは兄弟子に当たる。バチカンにもフレスコ壁画を残した巨匠である。
ペルジーノはラファエロの見事な立ち居振る舞いと、デッサンを見て、即座 にものになると判断したらしい。実際、ラファエロは模倣の天才で、師ペルジ ーノの様式を学ぶと、師の作品と区別がつかないほどに習熟した。
1504年、年季奉公を終えた画家は、芸術の都フェレンツェに移る。 この地で、「ルネサンスの始祖」と呼ばれるマサッチオ(1401-1420)の古 い作品を研究した。
ドメニコ会・サン・マルコ寺院の修道僧画家フラ・バルトロメオと親しくな ると、ラファエロは彼から彩色法について教わり、代わりに師直伝の遠近法を 伝えた。
また、先輩のレオナルドやミケランジェロの作品にも多く学び、多くの聖母 子像を制作している。こうしてフィレンツエに来てからのラファエロの作風は ペルージャ時代とは一変した。
彼は、優れた芸術を絶えず摂取し、それらを綜合して自らの様式としている が、その空間は、破綻することなく見事に調和が取れている。
従って独創性は他の巨匠に譲るものの、彼の絵は常に進化し続けた。「初期 の絵を見ると別人のものと思われる」とはよく評される言葉である。
1508年当時、建築家ブラマンテは、ヴァチカン宮殿とサン・ピエトロ大聖堂 改築の総監督に任命されていた。遠縁にもあたる彼の紹介で、ラファエロはロ ーマに出、法王ユリウス2世に仕えることになった。
その優雅な容姿・立ち居振る舞い、才能を示す作品からユリウス2世の寵愛 を受けたラファエロは、教皇の“ローマ復興”という理念の下にヴァチカン宮 殿でフレスコ壁画を描き続けた。 芸術家としての名声も上がり、壁画と併行 して貴族の肖像画も多く描いた。
一連の代表作の中に「アテネの学堂」という作品がある。肖像画芸術の集大 成といってもよい作品で、ギリシャの哲人が一同に会する図である。ここには マサッチオの「三位一体」の透視図法と、レオナルドの「最後の晩餐」の人物 構成の綜合が、明らかに見て取れる。
この頃ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂に12×40mという大天井壁画 「天地創造」を描いていた。ミケランジェロは、制作中に人を中に入れないこ とで有名だった。
法王ユリウス2世が巨大な足場の下から制作風景を覗き見たとき、法王とは 気づかず、足場の上から絵の具つぼを投げつけたという逸話がある。
あるときミケランジェロが法王と衝突して制作が中断し、不在だったことが あった。建築主任のブラマンテは、鍵を持っていたので、ラファエロを手引き して制作途中の「天地創造」を見せ、先輩の仕事を理解できるよう便宜を図っ た。
このことによって、ラファエロはミケランジェロの力強い絵画構成・荘厳さ をも手に入れたのだが、のちに、ラファエロの作品を見たミケランジェロが、 「ブラマンテめ、自分の裏をかいてラファエロに手引きしたな」と思ったとい う話を、ミケランジェロの弟子のジョルジョ・ヴァザーリが書き残している。
ラファエロは、次の法王レオ10世の信認も厚く、その名声は国境を越えてフ ランドルやフランスまで広まっていく。また、ドイツ・ルネサンスの巨匠アル ブレヒト・デューラーとの親交は有名である。
1514年ブラマンテの死後は、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任や、古代ロー マ遺跡の発掘の監督を務めるなど多面的な活動をした。
そして1520年4月6日、復活祭の聖金曜日にその死が突然訪れる。
およそラファエロという画家は、他人の機嫌を損ねることができない人だっ たらしい。知らない画家が援助を頼み込むと、仕事をほっぽらかしてでもその 画家を助けたという。
自分の下で多くの助手を働かせたが、彼らをわが子に対するように導いたと も伝わる。法王庁に行くときには、50人の弟子を引き連れていた。
また法王ユリウス2世やレオ10世をも動かす力があった。法王たちは、信頼 厚いラファエロと打ち解けた仲になり、ために彼に対してはありとあらゆる便 宜を与えたという。
そしてラファエロは大変な女好きで、惚れやすい性格だった。女に夢中にな ると仕事が手につかなくなることも度々で、業を煮やしたパトロンが仕事場に 女との同棲のスペースをあつらえたほどである。
この度を越した女遊びが、彼の死を招いてしまった。
その日、女のために不節制が過ぎ、帰宅するやいなや高熱を発した。呼ばれ た医師たちは、ラファエロが放蕩については何も語らなかったため、熱にあて られたものと勘違いした。
そこで、必要な強壮剤を与える代わりに、瀉血(血を抜く)してしまったの である。ラファエロは急激に衰弱し、生涯を閉じた。
ラファエロ・サンツィオ、享年37。その日は彼の誕生日だった。
彼の死をいたんで涙を流さないような画家はいなかった。 全法王庁をも深い悲しみに陥れ、ローマ法王も落涙したという。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
貴婦人と呼ぶにふさわしい装いと容姿を備えた美しい女性である。
つい絵を語らずに、モデルを語ってしまいたくなる。
写真を超えたリアリズムがここにはある。彼女は確かに、そこに居る。
明らかにダ・ヴィンチの「モナリザ」の向こうを張った作品である。モデル の向き、交差する両手。「モナリザ」と並べてみたが、モナリザが絵に見えて しまうのは、筆者だけだろうか。
1507年の制作とすればラファエロは24歳である。当時ダ・ヴィンチは55歳。 同時期、少し以前にほとんどモナリザは仕上がっていた。顔は現在のものより 若い女性のそれだった。これをラファエロはスケッチしていたから、その影響 は間違いない。
しかし、現在のモナリザと比べ、若きラファエロの人間を見る目の確かさ。 制作後500年たっても、経年変化を微塵も感じさせないその腕前の確かさ。
彼女は3つの指輪をしている。ひとつはルビーで、繁栄を暗示する。もうひ とつはサファイア、純潔を連想させる。最後はエナメルで、北ヨーロッパの様 式を表しているという。
金のネックレスは一番最後に描かれたもののひとつであり、それが生じさせ る影のカーブは、鎖骨の場所を示している。してみると、痩せ型ではあるが肉 付きはそれほど悪くないから、モデルの若さを表しているといえようか。
おそらく彼女は20代半ばから後半で、ラファエロよりは年上であろう。
背景は闇に沈んでいるが、光は柔らかな自然光を用いている。
画家が、絵の焦点を定めて見る人の視線を意識的に誘導しているようには見 えない。彼は、細部にいたるまで公平に、精緻に描き出す。
モデルが画家の恋人であるとは思えないが、画家の視線がまさにモデルの全 身をいとおしんでいるような印象を与える作品である。
最後に La muta(英語名:The Mute Woman)という通称について記したい。
いったい彼女は聾唖者だったのだろうか。しかし、名前さえ失われているの にそのような女性の障害だけが語り伝えられてきたとは思えない。
では物静かな女という意味だろうか。いや、筆者のおよそ50年近い人生経験 に照らしても、物静かな女が居るとは信じられない。一見おしとやかな女性は いるが、すべての女はしゃべることに生き甲斐を感じているといえるだろう。
「沈黙する女」というのも変である。肖像画に描かれるモデルは通常は口を 閉じているからである。物静かに見えて当たり前である。当たり前のことがな ぜタイトルに採用されるのか。
筆者のいいたいことはこうである。
その息も通っているかと見間違うばかりの肖像画。
後世、この絵を La muta と呼んだのは、画家に対する賞賛であり、エス プリだったのだ。
「彼女は完璧です。ただしゃべらないことを除いては。」
◆◆【6】次号予告◆◆
ベルギー・ゲントのシントバーフ大聖堂には、防弾ガラスに守られた世界最 高の絵画「神秘の子羊」の祭壇画があります。
世界最高というと語弊があるかもしれませんが、その絵画技術を見ると決し て大げさに思えません。
画家の名はファン・アイク。次回は「油絵の発明者」と呼ばれる彼の作品 「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像」を取り上げます。
15世紀のベルギーはフランドルと呼ばれ、フランス東部と併せて当時最も繁 栄した強国・ブルゴーニュ公領の中にありました。ファン・アイクは、ブルゴ ーニュの宮廷画家であり、親善大使も務めていました。
おおざっぱにいって、ヨーロッパの芸術は、アルプスを挟んで北と南で傾向 が異なります。
現実を直視し自然を神聖なものとして崇め、神の創造物を徹底的に模倣する のが北方の芸術家たちの傾向です。
これに対して、南方の芸術家たちは、理想を表現することを芸術の目的とし 自然の精緻な模倣は、枝葉末節であり、不要と考える傾向がありました。
ラファエロら、イタリアの芸術家たちは、北方の画家の影響を受けて、細緻 な表現に挑みました。その広義に北方ルネサンスと呼ばれる芸術の代表選手が ファン・アイクといえます。
そして彼は、中世フランスで最も有名な女性・ジャンヌ・ダルクの同時代人 でもあります。さて、私たちは時空を超えて、彼女たちを知るための旅に出か けましょう。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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