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時空を超えて~歴代肖像画1千年
No.0014
2008年10月01日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ヤン・ファン・アイク作 「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像画」 (ベルギー・フルーニンゲ美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者とその時代について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像画」◆◆
中世ベルギーのフランドル地方に生まれ、美術愛好家にその名を知らぬ者の ない不世出の画家ヤン・ファン・アイク。壮年期の彼が愛妻を描いた名画「マ ルガレーテ・ファン・アイクの肖像」を取り上げます。
彼は長く『油彩画の発明者』と云われてきました。その絢爛たる絵画は、 訪れる世界中の人々を魅了してやみません。
★「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像画」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p14.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: マルガレーテ・ファン・アイクの肖像
作者名: ヤン・ファン・アイク
材 質: 油彩(板)
寸 法: 32.6×25.8cm
制作年: 1439年
所在地: フルーニンゲ美術館(ベルギー・ブルージュ)
注文者: ヤン・ファン・アイク
意 味: 画家が自身のために描いた妻の肖像。額縁には画家の「己の出来得 る限り」という座右銘と、「夫ヨハンネス(ヤン)が私(マルガレーテ像)を 1439年に完成した。年齢は33歳。」という説明が描かれている。
◆◆【3】像主について◆◆
ヤン・ファン・アイクの妻マルガレーテ(1406-)の生涯についてはほとん ど伝わっていない。
二人の結婚年は、1433年で、彼女は27歳だったと推測される。新居はブルー ジュで、彼らの間には、少なくとも二人の子供があった。(マルガレーテはヤ ンの子供を10人もうけたとする資料もある。)
結婚の翌年には長男が生まれ、ヤンのパトロンだったブルゴーニュ公国フィ リップ善良公が名付け親になり、夫妻には銀製カップが贈られている。
本肖像画以外にも、マルガレーテはモデルとしてたびたび夫に協力しており 結婚の3年後に描かれた「ルカの聖母」(ドイツ・フランクフルト・シュテー デル美術館蔵)は明らかに、マルガレーテと息子がモデルになっている。
また、現在は模写しか残っていないけれども、彼女が夫のヌードモデルを務 めていたことも事実である。
1441年、ヤンは51歳で死去。当時、マルガレーテは35歳だった。フィリップ 善良公から「彼女の夫の精勤を讃え、残された妻と子供たちに哀悼の意を表し て」金一封が贈られている。
夫妻の間にはもう一人リヴィナと呼ばれる娘があった。 リヴィナは、1450年にフィリップ善良公から特賜金を受けて、マーセイクの聖 アグネス修道院に入っている。
マルガレーテの没年について語る資料はない。
ちなみに、オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク(1412-31)は、マルガレー テと六つ違いであり、隣国ではあるが同時代人である。
◆◆【4】肖像画の作者とその時代◆◆
画家の名は、ヤン・ファン・アイク(1490-1441)。ヨハンネス・ファン・ エイクとも記される。現在のオランダ・ベルギーにまたがるリンブルク(ラン ブール)地方・マースリヒト北方の小都市マーセイクに生まれた。
この地方は細密画の最高傑作「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」を描いた ランブール兄弟の父祖の地でもある。
ヤンの両親は知られていないが、ヤンの兄フーベルト、弟ランベルト、妹マ ルガレーテともいずれも高名な画家であり、おそらくランブール家とも行き来 のあった画家の家系であると考えられる。
1422年から25年にかけてヤンは、オランダ・デン・ハーグにおいてホラント 伯ヤン・ファン・バイエルンに宮廷画家として勤め、伯爵の死後は兄フーベル トのいるフランドル地方に赴いた。
当時、フーベルトはゲントの参事会員から依頼された祭壇画にかかりきりだ った。
この「ゲント(ヘント)の祭壇画」は、高さ212cm×幅350cmの巨大な三連祭 壇画で、全体は、観音開きの表裏20枚の板絵から構成される。現在は、ベルギ ー随一の至宝となっている。
フーベルトとヤンが活躍していた頃、ヨーロッパは、英仏百年戦争(1337- 1453)の真っ最中である。フランス国内には王領に含まれない公国・封建諸侯 が並び立ち、統一には程遠い状態だった。
1407年には、王太子シャルル7世を擁するフランス王家と、フィリップ善良 公率いるブルゴーニュ公国が対立する。アルマニャック・ブルギニョンの内乱 (1410-35)である。ブルゴーニュ派はイギリスと結びパリを支配下に置く。
ブルゴーニュ公国とは、フランス王家・バロア朝の支流にすぎない。しかし フランス王領と神聖ローマ帝国の中間に位置し、王家をしのぐ政治・軍事力・ 経済力と絢爛たる文化を誇っていた。
その富は、主に南部のぶどう酒産業と、植民地であるフランドル・北方領国 諸邦の毛織物工業と交易によって支えられていた。
1425年5月ヤンは、このブルゴーニュ公国フィリップ善良公の宮廷画家およ び侍従に任命される。翌1426年9月、兄フーベルトが「ゲントの祭壇画」を未 完成のまま死去すると、寄進者フェイトの依頼を受けてこれを引き継いだ。
以後のヤンは多忙を極めることとなる。
宮廷画家としてヤンは、肖像画や装飾画を描き、馬上試合・儀式・祝祭のた めの装飾品や宮廷衣装のデザインをした。さらに王侯の盾には紋章を描き、旗 には染色を施す。しかし、彼の仕事はこれだけではなかった。
ブルゴーニュ公は隠密なる目的のために、しばしばヤンを特命使節として他 国へ送リ出したのである。
同年フィリップ善良公の密命で長期旅行を敢行。1427年には使節団の随員と してスペイン旅行をする。28年には、ブルゴーニュ公とポルトガル王女の婚約 のためポルトガルを訪れた。
1429年、国王に謁見。王女「イザベル・ド・ポルトガルの肖像画」に着手。 完成作2点は輸送され、同年秋、ヤンはイザベル王女を伴って帰国する。
翌1430年1月、フィリップ善良公とイザベル・ド・ポルトガルの婚儀が盛大 に執り行われた。
同年フィリップ善良公は常備軍・金羊皮騎士団を設立。
1432年、ヤンはついに「ゲントの祭壇画」を完成した。兄の仕事を引き継い でから、すでに7年の歳月が過ぎていた。
現在、その額縁には「何人も勝る者なき画家フーベルト・ファン・アイクが 着手し、技量において彼に次ぐ弟のヤンが、ヨドクス・フェイトの要請によっ て、この任重き仕事を完成した。」という銘文がある。
この年ブリュージュに家を購入すると、市長や市の幹部の訪問を受ける。 「ティモテオスの肖像」制作。
1433年、フィリップ善良公がヤンのアトリエを訪問する。この年マルガレー テという女性と結婚。「インスホールの聖母」「ターバンをつけた男の肖像」 制作。
1434年、ヤンがフィリップ公の特命を果たし、報酬を受ける。 「アルノルフィーニ夫妻の肖像」制作。
1435年、フィリップ善良公に対して給金の支払いに対する不満を表明。宮廷 画家を辞する。「宰相ロランの聖母」「枢機卿アルベルガティの肖像」制作。
1436年「ファン・デル・パーレの聖母」「ヤン・ド・レーユウの肖像」「ル カの聖母」「受胎告知」制作。
1437年「聖バルバラ」「ドレスデン三連祭壇画」制作。
1438年「(金羊皮騎士)ボードワン・ド・ラノワの肖像」制作。
1439年「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像」「泉の聖母」「ジョバンニ ・アルノルフィーニの肖像」制作。
1441年、「ニコラス・ファン・マールベーケの祭壇画」の制作に携わる。
7月9日ブルージュにて死去。聖ドナティアヌス教会に埋葬された。
死因は、心不全・過労死ではないだろうか。嗚呼。享年51。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
画像のページには、「マルガレーテ・ファン・アイクの肖像」と「ターバン をつけた男の肖像」を並べた。男の肖像画は、古くから、ヤン・ファン・アイ クの自画像だといわれている。
「マルガレーテ」の額縁には、"ALC IXH XAN "(ALS ICH KAN)「己の出来得 る限り」という画家の座右銘と、「夫ヨハンネス(ヤン)が私(マルガレーテ 像)を1439年に完成した。年齢は33歳。」という説明が描かれている。
これに対して「ターバン」の額縁には、同じく「己の出来得る限り」という 画家の座右銘と、「ヨハンネス・デ・アイクが私(ターバン男像)を1433年10 月にに完成した。」という説明が描かれている。
年記は6年へだだっているが、サイズもほぼ等しいので、画家は一対となる ことを意図したと考えてよい。
暗褐色の背景の中に、毛皮の襟のある妻の服の赤と、夫のターバンの赤が、 響き合っている。また夫の黒い服にも妻とよく似た毛皮の襟がついている。
二人の視線の向きはほとんど同じである。長年、合い連れ添うと容貌も似て くるというが、鼻筋と口元はよく似ているようである。
マルガレーテの衣装で特徴的なのは帽子である。調べてみたところ、この被 り物はエナン(hennin)というらしい。
マルガレーテの下に掲載した「イザベルの肖像」(作者不詳)では、円錐形 のエナン(conique hennin)を被っている。
ゴシック期の服装の最高の表現はブルゴーニュの宮廷の服装にあり、中でも エナンはすらりと高いものを好むゴシックの理想をよく表現しているという。
マルガレーテのものは、髪を二つの尖った角形にまとめて、ベールで包んだ ような格好で、ダブル・エナン(double hennin)と呼ばれている。
いずれも女性の高貴さを表現するためのもので、14、15世紀には ブルゴーニュ公国とフランス王国など北ヨーロッパで用いられていた。
マルガレーテのエナンと赤い服、ベルベットの帯そして薬指の金の指輪は、 彼女の夫・ヤンの財政上の成功を反映している。
さて、兄のフーベルト・ファン・アイクと弟のヤンは『油彩画の発明者』と 呼ばれていた。油彩画は10世紀ごろから、ほそぼそと行われていたので、これ は事実ではない。しかし、『油彩画の革命児』であったことは間違いない。
絵を見て現代人が「写真そっくり!」ということがある。二人の功績をわか りやすくいえば歴史上で初めて写真そっくりに描いた画家がファン・アイク兄 弟ということになる。
現代において、写真という技術が確立されたため、20世紀中頃、写真を超え たスーパーレアリズムと呼ばれる絵画が生まれたのである。それが、写真も何 もない中世に突如スーパーレアリズムが出現した。
マルガレーテの容貌を、それ以前の絵画と比べると、違いは歴然である。以 後の絵画と比べても、そのリアリティは断トツである。
また、ヨーロッパの美術館を訪れると、イタリアなど南欧の絵画の色がなん となく暗いことを感じる人が多いはずである。これに対しフランドルに代表さ れる北欧の絵画の色は明るい。
油絵の具には、時間がたつと黒ずむという特性があるためだ。レオナルド・ ダ・ヴィンチを含めイタリア・ルネサンス絵画は例外なく、黒ずんでいる。し かし、ひとりフランドル絵画だけはまったくそのことを感じさせない。
これはなぜか。イタリア絵画は下地の色が濃い。これに対し、フランドル絵 画は、下地の色が明るいのである。
さらに、油絵の具の上に油絵の具を重ねることで、経年変化により黒ずみは 促進される。ところが、水性絵の具の上に油絵の具を重ねると、経年変化を抑 制することができるのだ。
ファン・アイク兄弟は、絵の下地および溶き油の工夫と、薄く顔料を混ぜた 油膜の重ねる技術(グラッシ)を極めることで、いかなる画家も到達したこと のない透明感を獲得した。
絵画組成上の革命だけでない。様式においても彼らは新機軸を打ち出した。
イタリア・ルネサンスの特色のひとつは遠近法である。焦点が一点に集まる ことで画面上に立体感と距離を生み出す。しかし、建物に比例して人物が小さ くなることが難点である。
ファン・アイク兄弟は確かに遠近法を知っていた。知っていてそれをねじま げたのである。画面上に焦点をいくつも、勝手に作った。だから天井と人物の 関係は、遠近法の原理からいえば狂っている。柱は、人物に対して低すぎる。
しかし、こうすることで、リアルな室内空間を描きながら人物に小ささを感 じさせない。
マルガレーテの肖像に戻ろう。頭部と上半身のバランスがおかしくはないだ ろうか。このようなバランスの人間は小人しかいないはずである。この小さな 画面に対して、肘がこの角度ならば手は画面におさまるはずがない。
ヤンはわざとこのようにデフォルメさせている。最大限、妻の顔に見る人の 視線を集中させる構図をこの小さな画面内に作りながらも、「顔だけの絵」と いう単調さを避けるために、結婚指輪をした手を、無理やりねじこんでいる。
こうすることで見るものの視線に動きを与えるのである。
肖像画芸術において、デフォルメをこれ以上やれば、陳腐で滑稽な表現にな る。それでは顧客の満足を得られない。この限界ぎりぎりのところに、絶妙の バランスで、ファン・アイク兄弟は留まっている。
◆◆【6】次号予告◆◆
今回は「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」の序章でも あり、ブルゴーニュ公とジャンヌ・ダルクについて少し触れてみます。
アルマニャック・ブルギニョンの内乱の最中、シャルル7世側についたジャ ンヌ・ダルクは、イギリス軍からオルレアンを開放しました。
しかし、その後パリとコンピエーニュに進軍したジャンヌは、いずれも敗 れ、捕われの身となります。1430年5月のことでした。
彼女を捕らえた敵側の指揮官はド・リュクサンブールといいました。 その主君こそが、ヤン・ファン・アイクの雇い主、ブルゴーニュ公フィリップ 善良公その人でした。
ジャンヌは捕虜になる以前から、フィリップ善良公に宛てて「同じフランス 人同士が戦っている場合ではない」という主旨の手紙を数度送っていました。
そのため公も興味を感じて、わざわざ彼女を見に来ています。
筆者には、彼がこのとき、ヤン・ファン・アイクを伴っていたなら、と思わ れてなりません。ヤンならば、ジャンヌ・ダルクを何か形に残したのではない でしょうか。
さて、残念なことに、尊大なフィリップ公には、彼女が熱情に浮かされて たわ言を繰り返す田舎娘にしか見えなかったようです。
翌年1月になると、結局ジャンヌをイギリス側に売り渡してしまいました。 こうしてジャンヌの運命は破滅へと向かい始めるのです。
次回はジャンヌ・ダルクの主君だった「フランス国王シャルル7世 の肖像」をお届けします。
彼は一筋縄ではいかない複雑怪奇なプライドと、計算高く、状況判断・駆け 引きに優れた明晰な頭脳の持ち主でした。
フランス絵画史上最高の肖像画家ジャン・フーケの筆は、まさにこの国王 シャルルの性格を描き得ています。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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