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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0015
2009年03月31日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ジャン・フーケ作
「シャルル7世の肖像画」
(フランス・ルーブル美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主 シャルル7世とその時代
【4】 作者 ジャン・フーケについて
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「フランス国王・シャルル7世の肖像画」◆◆
今回はジャンヌ・ダルクの主君だった「フランス国王シャルル7世の肖像」
をお届けします。
彼は一筋縄ではいかない複雑怪奇なプライドを持ち、計算高く、状況判断に
優れた明晰な頭脳の持ち主でした。
フランス絵画史上、随一の肖像画家ジャン・フーケの筆は、まさにこの国王
シャルルの性格を描き得ています。
★「シャルル7世の肖像画」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p15.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: シャルル7世の肖像画
作者名: ジャン・フーケ
材 質: 油彩(板)
寸 法: 86×71cm
制作年: 1450年頃
所在地: ルーブル美術館(フランス・パリ)
注文者: 本人
意 味: 王自らが戦勝を記念して作らせた肖像。
フランスは、1435年、ブルゴーニュ派との内乱を終わらせ、1440年代には、イギリスに占領された国土をほぼ奪還。百年戦争も終結に向かいつつあった。
額縁の上枠には「勝利に輝けるフランス王」下枠には「シャルル・その名の7世」という銘文がある。
◆◆【3】像主・シャルル7世(1403-61)とその時代◆◆
バロワ朝フランスの第5代国王で、シャルル6世(1368-1422)とイザボー・ ド・バヴィエール(1370-1435)の子。在位は1422年~61年。 勝利王 "LE VICTORIEUX" と呼ばれている。
百年戦争(1337-1453)を終結させた極めて有能な国王であった。
人頭税の恒常化、塩など専売税の創設、教会の管轄権宣言、常備軍の改組、 高等法院の増設、官僚制の整備、経済の復興、国王親族の領土の併合などに 努め、フランス統一を促進するとともに、絶対王政の地歩を確立した。
百年戦争の原因はイギリスの領土的野心である。14世紀前半、豊かなフラン ス南西部のギュイエンヌ地方と、北東部フランドル地方の利権をめぐって英仏 は対立していた。
フランス王権がカペー朝からバロア朝に移る際、イングランド国王エドワー ド3世はフランス王位継承権を主張する。
カペー朝は跡継ぎの不在によって断絶したのであるが、エドワード3世の母 親はカペー王家の血筋であった。したがって、自分が正当な後継者であると 1337年バロア朝のフィリップ6世に対して宣戦布告したのである。
戦争は百年に渡って間歇的に続いた。フランス側では、フィリップ6世の子 ジャン2世が死んだ後、シャルル5世が継ぎ、王弟フィリップ(剛勇公)はブル ゴーニュ地方を治めることになった。
シャルル5世の子・シャルル6世は、1392年24歳のとき、プルターニュ遠征に おいてイギリス軍に敗れ、発狂、精神異常者となった。宮廷では全く政治を摂 ることができず、各地に暴動が頻発した。
シャルルの王妃イザボーは、さらに立て続けに王太子を亡くし、王弟のオル レアン伯・ルイ(ルイ・ドルレアン)と関係を持ったが、これが王の従兄弟ブ ルゴーニュ伯・ジャン無畏公(フィリップ剛勇公の子)との対立の引き起こす。
1407年ジャン無畏公はルイ・ドルレアンを暗殺。有力な支持者を失ったイザ ボーは南西部に領地を持つアルマニャック伯ベルナール7世と関係を持つ。そ して1411年遂に、アルマニャック派とブルゴーニュ派の間で内戦が勃発した。
このフランス国内の分裂に乗じて、イギリス国王ヘンリー5世は1415年ノル マンディーに上陸。アザンクールの戦いで大敗したフランスは、オルレアン公 シャルル・ドルレアン(ルイの息子)が捕虜となった。
アルマニャック派では13歳のシャルル(後の国王7世)が4人目の王太子とな ったが、実母イザボーはシャルルと不和であった。彼女は1417年ベルナール7 世によって追放されると、今度は何とブルゴーニュ派のジャンと関係を結ぶ。
1418年イギリス軍のルーアン攻囲。時を同じくしてブルゴーニュ派がパリを 占領したため、王太子シャルルはパリを脱出する。
1419年になると、ブルゴーニュ公ジャンはイギリスに対抗するため、王太子 シャルルに対して休戦を呼びかけた。しかし、王太子は和睦の途上でジャンを 暗殺。12年前の叔父ルイ・ドルレアン殺害に対する復讐であった。
父・ジャン無畏公を殺された、後継者フィリップ3世(ル・ボン=善良公) は、このため、逆にイギリスとの同盟に踏み切る。
1420年、イザボーもまた夫・狂王シャルル6世を説きつけて、イギリス、ブ ルゴーニュとの三者同盟・トロワ条約を結んだ。
その内容は、娘の王女カトリーヌをヘンリー5世の王妃とし、シャルル6世の 死後は、ヘンリー5世がフランス王位を相続する。結果、実子のシャルル王太 子は王位継承権を失うというものだった。
1422年、ヘンリー5世が急死。狂王シャルル6世も死去したため、1歳にも満 たないヘンリー6世が英仏両王として即位。
同時にシャルル王太子も「フランス国王」を称したが、ブルゴーニュ派が占 拠するパリを離れブールジュにあったため、「ブールジュの王」と呼ばれた。
1424年より、シャルルは対英戦争を試みるが、いずれも連戦連敗。北西部は イギリスの手にあり、北東部はブルゴーニュ領。奪われ縮小し続ける王領は フランス中南部のみ、国土の3分の1にも満たなかった。
1428年、イギリスはオルレアン包囲を開始した。イギリスにとっては、アル マニャック派の拠点中部オルレアンを落とせば、一気に南部まで侵攻できる はずであった。
このとき現れたのが、弱冠17歳の少女、ジャンヌ・ダルクである。1429年4月 29日、イギリス軍の目をかいくぐって入城すると、わずか10日目にはオルレア ンを解放。さらに2ヵ月後にはランスを制覇。
ジャンヌの奇跡的な活躍により、王太子シャルルは古式にのっとったランス での戴冠式を挙行する。こうして正式にフランス国王シャルル7世であること を宣言したことには、中立諸侯に対して大きな意味を持った。
同時にシャルル7世はこのときから智謀を縦横に発揮し始める。
パリを一気に攻めよ、というジャンヌの進言を、のらりくらりとかわしなが ら、兵を取り上げ、彼女に与えたのは貴族の称号だけだった。その裏で、ブル ゴーニュとの休戦交渉を進めていたのである。
ジャンヌは少ない兵でパリ攻撃を敢行。1430年5月、コンピエーニュの戦い でブルゴーニュ軍の捕虜となってしまった。
この時点においてシャルル7世がブルゴーニュ公に対して身代金を払えば、 ジャンヌを取り戻せたのだが、彼はただ沈黙した。
オルレアンを奪回した今、進めるべきは外交である。貯えは枯渇しつつある から兵は動かせない。シャルルには、主戦派のジャンヌに金を費やす必要性が なかった。
ジャンヌは、ブルゴーニュ軍からイギリス軍に売り渡され、異端審問の末、 1431年5月火刑に処された。
ブルゴーニュ派との和解の気運は高まりつつあった。
同年アラスの休戦成る。そして1435年のアラスの講和により、フランス王シ ャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ3世との間に和睦が成立した。
フィリップの父ジャン無畏公を殺したシャルルとの和睦。1435年の時点では ブルゴーニュ派にとっての経済的メリットは大きかったが、この和睦の代償が イギリス・ブルゴーニュ同盟の崩壊であった。
フィリップ3世は、自らが王国の君主となるチャンスを永遠に放棄すると同 時に、次代のブルゴーニュ公国滅亡の遠因を作ってしまった。善良公(ル・ボ ン=おひとよし)と称される由縁である。
機は完全に熟した。ここからシャルル7世の攻勢が始まる。
1442年 ギュイエンヌへの攻勢。
1444年 トゥール休戦条約。
1448年 ル・マン占領。
1449年 トゥール休戦の破棄と戦争再開。ノルマンディーへの攻勢と奪回。
1451年 ギュイエンヌへの攻勢。
1453年 カスティヨンの戦い。ボルドーの占領。イギリス軍の降伏。
その結果、カレーのみを残して、すべてのフランス領土を回復した。
このように「勝利に輝けるフランス王」であったシャルル7世だが、家庭に おいては、最後まで大きな問題を解消できなかった。王太子ルイ(1423-1483 ;後のルイ11世)がことあるごとに敵対したのである。
それは1443年、40歳のシャルルが美貌の愛妾、21歳のアニェス・ソレル(14 22-1450)を置いたことに端を発するのだろうか。彼女はフランス初の公式寵 妃といわれている。このときルイは20歳。実母・王妃マリーは健在だった。
アニェスは、片胸を露出した斬新なファッションで王を魅惑する一方で、政 策に関して相談相手を務めるほど才色兼備の女性だったが、1450年28歳のとき 非業の死を遂げた。ルイによって毒殺されたともいわれている。
ルイが相次いで企てた封建反乱は鎮圧されるのだが、シャルル7世の晩年は王 太子との絶えざる紛争の中に過ごされ、精神も錯乱した。そして毒殺を恐れて 摂食障害となり、ついには餓死に至った。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
画家の名は、ジャン・フーケ(1420-1481)。フランドルに源を発するフラ ンス・ゴシック・リアリズムと、イタリア・ルネサンス様式を融合させて新し いスタイルを確立した、15世紀フランス最大の画家・写本装飾家である。
フーケは、フランス中部ロレーヌ地方のトゥールに、聖職者の私生児として 生まれる。写本装飾家の教育を受けるためパリに出て、細密画を学び、フラン ドルのランブール兄弟の作品に親しんだ。
1443年から1447年までローマに滞在。1446年には、ローマに派遣されるフラ ンス使節団に随行していることから、20代前半にしてすでに高名であったこと が伺える。
この間、「ローマ法王エウゲニウス4世の肖像画」をキャンバスに描いたと いう記録が残る。またバチカン宮殿にあったフィレンツェ様式の巨匠、フラ・ アンジェリコのフレスコ壁画からは多くの示唆を受けたらしい。
帰国後は、シャルル7世の宮廷で活動を始めた。
最初のパトロンは王室秘書官・大蔵卿を務めたエティエンヌ・シュバリエで あり、彼のために60ページ、フルカラーの装飾写本「エティエンヌ・シュバリ エの時祷書」(1450-60;コンデ美術館蔵)を制作した。
同じくシュバリエの依頼で「ムランのノートルダム聖堂のための祭壇画」を 制作。
これは2つ折のパネルから成り、左翼が「聖エティエンヌとエティエンヌ・ シュバリエ」(1450-53;ベルリン市立美術館蔵)。聖エティエンヌとは聖ス テファノのフランス名。
右翼が「聖母子像」(1453-54;アントワープ王立美術館蔵)。「ムランの 聖母」とも呼ばれる。
聖母のモデルは明らかに故アニェス・ソレルであり、両翼合わせると、大蔵 卿シュバリエが、守護聖人と共に、アニェス・ソレルを拝む図になるが、聖母 が球状の乳房を露出させているため、スキャンダラスな印象を持つ。
肖像画としては「フランス国王シャルル7世の肖像画」「ウルサンのギヨー ム・ジュヴェナルの肖像画」「自画像」(いずれもルーブル美術館蔵)などが 有名。
1461年シャルル7世が崩御すると、宮廷から葬儀に用いるための彩色デスマ スクの制作を依頼された。後継者ルイ11世のもとでは、宮廷画家としての地位 を与えられた(1475年)。
彼は大きな工房を指揮しタブロー(絵画)や装飾写本を制作。その他にも、 ルイ11世のパリ入城を祝う奇跡劇のための足場や、ポルトガル国王アルフォン ソ5世のトゥール入城儀礼のための天蓋をデザインした。
晩年の作品では、「キリスト降下」(1470-75;ヌーアン教会)が残る。 1481年トゥールにて死去。
フーケが残した作品群は、どれもが代表作と呼べるような質の高い作品ばか りであった。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
「シャルル7世の肖像」の額縁の上段には、"LE TRES VICTORIEUX ROI DE FRANCE(勝利に輝けるフランス王)" 下枠には"CHARLES SEPTIESME DE CE NOM(シャルル・その名の7世)"という銘文が書かれている。
この勝利とは、シャルル7世が成し遂げた偉業であるトゥールの休戦(1444 年)あるいはフォルミニーの勝利(1450年4月15日)を指すという。
作者フーケは1447年にイタリアから帰国、その頃はトゥール休戦中であり、 画家自身もトゥール出身であることから、前者を記念したもの考える方が自然 であろう。
画面は、3枚の板を接いで作っている。よく見ると、目の部分に継ぎ目が来て いる。絵の具の剥落を防ぐため、普通は継ぎ目が顔に当たらないようデッサン するのであるが、幸いにも影響は少ないようである。
剥落部分に修復による補筆があるのかどうかは定かではない。しかし550年 の歳月を考えると、大変に保存状態は良くフーケの確かな技術がしのばれる。
画面構成は、ちょうど王宮の窓からカーテン越しに王が出現した形である。 細身ながらも肩幅は広い。眉を細く剃りあげ、くぼんだ小さな目に、神経質 そうな表情。おしゃれ。気まぐれ。ダイエット。疑い深く優柔不断。冷徹。明 晰。非情。といった言葉が浮かぶ。
拡大図の右に掲げたのは、前回取り上げたフランドルの画家、ファン・アイ クの主君「ブルゴーニュ公フィリップ善良公の肖像画」(ロヒール・ヴァン・ デル・ウェイデン作)である。
フィリップ3世は、シャルル7世と同じ血筋であり、終生の好敵手だったが、 並べてみると、確かにル・ボン=おひとよしに見えてしまう。苦労知らずの、 育ちの良さがにじみ出ている。
シャルルは幼くして、父が精神異常者となり、兄3人を失くす。実母イザボ ーには、父王シャルル6世の子ではないと疎まれ、王であるにもかかわらず、 流浪の半生を送った。
有能な部下たちが配下に集まったけれども、決して信用することはない。小 娘ジャンヌ・ダルクの理想など信ずるには足らないものだったろう。
画家は、辛らつな人物の性格・内面性を見事にえぐりだす。
◆◆【6】次号予告◆◆
今回は「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」の前段に当 たります。そして、次回はいよいよ「ジャンヌ・ダルクの肖像」です。
ただし、残念ながら名のある画家による、同時代の彼女の肖像は存在しませ ん。彼女はあまりに若く、活躍期間もあまりに短く、晩年は獄中にいたためで す。有名な作品は死後数百年後のものばかりです。
ですから、厳密には肖像画論といえないかもしれませんが、その姿を思い描 くには十分なものになると思います。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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