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- No.16 ジャンヌ・ダルクの肖像画
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 「ジャンヌ・ダルクの肖像画」(フランス国立図書館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 ジャンヌ・ダルクについて
【4】 画像について
【5】 参考図版について
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「ジャンヌ・ダルクの肖像画」◆◆
いよいよ「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」が佳境に 入ります。本号と次号の2回に分けてお送りします。
残念ながら名のある画家による、同時代の彼女の肖像は存在しないと思われ ます。彼女はあまりに若く、活躍期間もあまりに短く、晩年は獄中にいたため です。有名な作品は死後数百年後のものばかりです。
そのため、筆者が選んだジャンヌ・ダルクの肖像資料集という形ご紹介した いと思います。
★「ジャンヌ・ダルクの画像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p16.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 農民の衣装で武器を手にしたジャンヌ・ダルク
作者名: 不詳
材 質: 羊皮紙にテンペラ
寸 法: 不詳
制作年: 15世紀
所在地: フランス国立図書館(パリ)
注文者: 不詳
意 味: 15世紀の写本「ジャンヌ・ダルクの処刑裁判及び復権裁判」から抜 粋された細密画。故人の様子を偲ばせるために描かれた。
同時代の職業画家の手になるジャンヌの死後の作品で、ジャンヌを見知って いる訳ではない。ジャンヌの生前に描かれた『聞き書きによるスケッチ』等が 元になっている。
◆◆【3】ジャンヌ・ダルク(1412-1431) について◆◆
誰もが悲劇のヒロイン、ジャンヌ・ダルクに興味を覚える。しかし年号やそ の具体的な活動を言える人は少ないだろう。筆者は5-5-5-5という符合を見つ けたので、これに沿って章立てる。
1428年5月 出発(フランス王太子との面会を果たすべく行動開始)
1429年5月 解放(イギリス軍に囲まれたオルレアンを武力解放)
1430年5月 捕縛(イギリスと同盟したブルゴーニュ軍による捕縛)
1431年5月 処刑(宗教裁判の後、生きながらの火あぶり刑)
世界史に名を残す彼女の活動はわずか3年あまりであった。しかし、英仏百年 戦争でフランスの形勢を決定的に逆転させたジャンヌは、フランスで最も偉大 な英雄とされている。
当時の日本はといえば室町時代。1428年は足利義教(1394-1441)が第6代将 軍に就任した年である。ジャンヌの同時代人としては世阿弥(1362-1443)、 蓮如(1415-1499)、雪舟(1420-1506)がいる。
1.出発
ジャンヌ・ダルクは1412年1月6日、フランス北東部ロレーヌ地方、現在のヴ ォージュ県ドンレミ村に生まれた。父はジャック・ダルク(1431年以後死去) 母はイザベル・ロメ(-1458)。 ジャンヌには、ジャックマン、ピエール、ジャンという3人の兄と、カトリ ーヌという夭折した妹があり、家族は7人。裕福ではないが評判の良い農民一 家であり、カトリック信者だった。
名前の綴りは、当時の記録によると、Jehannne Darc(或いはTarc)であるが 彼女自身、ジャンヌ・ダルクと名乗ったことはなく、村ではジャネット (Jehanette)と呼ばれており、フランス(王領)に来てからジャンヌ、或いは ラ・ピュッセルと呼ばれるようになったと話している。
ラ・ピュッセル(la pucelle)とは乙女、小娘、処女を意味する。これは神 の使者である証でもあるため、ジャンヌはこの呼び名を特に好み、ジャンヌ・ ラ・ピュッセル(Jehannne la pucelle)と名乗ることが多かった。
彼女は評判の働き者で、気立ての良い娘だった。畑で犂を引いたり、家畜の 番をしたり、麦の取り入れをしたり、糸紡ぎなど家事も進んでやった。教会の ミサには必ず出席し、進んで告解をし、また貧しい人に施しをした。
畑にいても教会の鐘の音が聞こえるとひざまづいて祈りを奉げた。幼なじみ たちから信心深いとひやかされるほどの熱心さだった。教会の鐘を定時に鳴ら すのを忘れた堂守のおじさんを叱ったこともあった。
少女は13才の夏のある日の正午頃、畑で神の声を聞いている。「正しくふる まいなさい」「教会へ行きなさい」と。声は教会の方からだった。怖ろしかっ た。このとき少女は、神の望まれる限り純潔を守ることを誓った。
声はしばしば聞こえた。「余はフランスの民を憐れんでいる」「おまえ自身 がフランスに行かなければならない」と。彼女は泣き出した。
そしてまた「ヴォークールールに行けばフランスにいる国王のもとへ送り届 けてくれる隊長がいる」「それを疑ってはならない」と声は言う。しかし、13 才の少女にはどうすることもできなかった。
当時のフランスは北部をイギリスに占領され、東部はフランス国王と対立す るブルゴーニュ公領だった。ドンレミ村もブルゴーニュ支配下にあり、近隣に は離れ小島のようにフランスに忠誠を誓うヴォークールールの要塞があった。
1428年少女は16才になっていた。声は週に2、3度聞こえた。家族には話せな かった。父親のジャックは、可愛い娘が兵隊たちと一緒に村を去るのではない かと心配していた。「そんなことになるぐらいなら私が川で溺れさせてやる」
同年5月のこと。もうじっとしていられなくなったジャンヌは、隣村の叔父 さんの家にお手伝いに行くといって出発した。叔父デュラン・ラクサールを説 得すると、ヴォークールールへの案内を頼んだ。
ヴォークールールを死守する守備隊長はロベール・ド・ボードリクールとい った。その面前に貧しい赤い服を着た百姓娘と、叔父と称する男が現れた。
「主が王太子に救いの手をさしのべる。私は主から使わされた者である。王 国は王太子のものでなく主のものであり、王太子が国王となって王国を管理す るよう欲している。私が王太子を即位の場所にお連れする」と娘が言う。
ボードリクールは、ラクサールに向かって「この娘に往復ビンタを食らわせ て、父親の元へ連れて帰れ」と言い渡した。
この年の夏ドンレミ村がブルゴーニュの兵隊に襲われ、一家は4、5日の間、 ヌフシャトー村に避難した。
10月になるとイギリス軍がオルレアンの包囲を開始した。フランス王国はも はや中南部を占めていたに過ぎず、中部の要であるオルレアンの城塞が陥落す れば、もはや中南部まで一気にやられることが予想された。
翌1429年2月ヴォークールールに再び赤い服が現れる。しかし今度もボード リクールは二人を容赦なく追い返した。ジャンヌの両親によれば、娘は叔父ラ クサールの家に滞在しているはずであった。
今回のジャンヌは這ってでも王太子の元へ行こうと腹を決めていた。二人は ヴォークールールに下宿し、下宿先の夫婦が協力者となっていた。彼女は誰彼 なく自分の使命を吹聴した。ふたりの準騎士が名乗り出た。
こうして旅仕度をしていたある日のこと、噂を耳にしたロレーヌの殿様が、 ナンシーまでジャンヌを招いた。ラクサールも同行した。殿様は病気を治して もらえると勘違いしたのが理由だが、彼はジャンヌに4フランを与えている。
ナンシーから戻ると、町はラ・ピュッセルの噂で持ちきりだった。
2月12日の3度目の会見で、ボードリクールはついにジャンヌの出立を承知し た。そして、王太子宛の伝言を用意し、ラクサールや協力者たちが用意してい た馬や男物の衣服その他の準備にかかった金を払ってくれた。
6人の護衛も組織された。先に名乗り出た準騎士2名とその家士2名、王の伝 令使1名、弓兵1名である。出立は2月22日。
ボードリクールは、ジャンヌを安全・確実に案内するよう護衛たちに誓いを 立てさせ、見送った。「行け、どんなことが起ころうとも」
王太子のいるシノンまで、全工程450キロ、敵陣突破の11日間の旅である。 一行は、ブルゴーニュ兵とイギリス兵を避けながら、時には夜間に移動した。
23日クレルヴォー、24日ポティエール、25日オーセール。
準騎士が道々尋ねる、本当に実行するつもりなのかどうか。ジャンヌは答え る。「私は恐れていません。命令を受けているのです。主がフランス王国を救 う戦いに出かけるように命じてから4、5年たっているのです」
26日メジル、27日ヴィグラン、28日ラ・フェルテ。
毎夜ジャンヌは準騎士の傍らで寝た。外套をかけて靴を履いたまま。長い上 着とズボンはつなぎ合わせてきちんと身につけていた。男たちは若かったが、 誰も欲望を覚えなかった。全員が彼女に畏敬の念を感じていた。
3月1日サン=テニャン、2日サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワ。ジャ ンヌはブルゴーニュ領を抜けてから、2度教会に立ち寄ってミサに預かり、告 解をした。3日リル=ブーシャール。そして4日、ついにシノンに到着した。
到着から2日後に王太子シャルルに面会するまで、ジャンヌは何度も何度も 尋問を受けた。詰まるところ、ヴォークールールの隊長ボードリクールの書簡 がシャルルの元に届いていなければ、面会はかなわなかったはずである。
面会の日、猜疑心の強いシャルルは、同じように着飾った王侯貴族の間に隠 れていた。
面識のないジャンヌはすぐさま彼を探し当てると、「気高い王太子殿下。あ なた様と王国をお救い申し上げるべく、天上の主より遣わされてやってまいり ました」と挨拶した。
そしてシャルルと長いこと話し込んだが、このとき彼しか知りえない秘密を ジャンヌは語った。そして数日城に滞在することを許された。この間に婦人た ちによりジャンヌの純潔の検査が行われた。
そしてさらなる審問のため、ポワティエに送られたジャンヌは、神学教授に 向かって、適当な数の兵士を与えてオルレアンに行かせてくれるように願い、 4つの予言をした。 第1は、イギリスの包囲からオルレアンが解放されること。第2は王太子がラ ンスで戴冠式を挙げること。第3は、パリの町が国王の支配下に戻ってくるこ と。第4は、オルレアン公がイギリスから釈放されること、である。
3週間に渡り生活態度・素行まで調べられた後、悪しきものは見つからなか った。王国の将来に希望が持てぬ現状下でのオルレアンの危急性に鑑み、王太 子が彼女の願いを聞き入れても問題はないと、意見が一致した。
ポワティエからもどったジャンヌは武官として認められ、ジャンヌの親衛隊 が組織された。ジャン・ドーロンという武将は、以後ジャンヌの副官として付 き従い、のちの捕虜生活までも共にする。さらに小姓2名と伝令士2名である。 かなりの数の兵士も与えられた。
剣はロベール・ド・ボードリクールが贈ったものを持っていたが、さらに一 振りを用意させた。それは、5つの十字が刻まれた錆びた剣で、途中ミサに預 かったサント=カトリーヌ=ド=フィエルボワの教会の地中に埋まっていた。
ジャンヌはそれをお告げによって知らされており、人を使って探しにやらせ た。聖職者たちは、これを納める赤いビロードの鞘を作ってやった。
4月5日にはジャンヌはトゥールの町に移動しており、体に合わせた白い甲冑 が作られることになった。修道士ジャン・パスクレルと出会ったのもここであ る。
パスクレルは、巡礼地ピュイを訪れていたジャンヌの母イザベル・ロメに出 会い、娘に同道することを依頼されていた。彼を案内し、ジャンヌに紹介した のはあの準騎士たちで、実兄・ピエールとジャンもジャンヌに合流した。
彼女自身の注文で旗印も作られた。最後の審判のために座す主の両側に、ユ リの花を捧げる二人の天使の姿と、イエスとマリアの文字が刺繍されている。
パスクレルは「神の使者がこの旗印を掲げよと告げた」「この旗は剣の四十 倍も好き」というジャンヌの言葉を伝えている。
2.解放
パリの120キロ南、ロワール川沿いにあるオルレアンは、城壁で囲まれ、規則 正しく塔が立ち並ぶ美しい町だった。領主ルイ・ドルレアン(王太子シャルル の叔父)は、1407年ブルゴーニュのジャン無怖候によって暗殺されていた。
そのあと息子のシャルル・ドルレアンが継いだが、フランスがイギリスに歴 史的大敗を喫した1415年のアザンクールの戦いで捕虜となり、長くイギリスに 留められた。ジャンヌの第4の予言にあるオルレアン公とは彼のことである。
領主のない町オルレアンは、1428年10月からイギリス軍によって三方を厳重 に包囲されていた。
北にパリ砦、北西にルーアン砦、ロンドン砦。
西にクロワ・ポワゼ砦とサン=ローラン砦。
南は川幅400メートルのロワール川、これを横切るオルレアン橋は寸断され その先にレ・トゥーレル要塞とオーギュスタン砦。
東南にサン=ジャン=ル=ブラン砦。東にはサン=ルー砦。
サン=ルー砦は少し離れていたため、オルレアンの東門(ブルゴーニュ門) だけが唯一出入りが可能であった。
オルレアン守備隊からイギリス軍への反撃も繰り返されたが、翌年2月の鰊 の戦いで大打撃を被ったあとは、援軍のおもだった将軍たちは皆、町を離れて しまい、絶望的な雰囲気が町を支配していた。 残ったのは、オルレアン公の腹違いの弟で、バタール(私生児)・ドルレア ンと呼ばれたジャン・デュノワひとりといえる状況であった。翌月デュノワは シノンの不思議な少女のことを耳にしており、確認の使者を送っている。
4月21日、ジャンヌは国王補佐官やオルレアンの代官ラウル・ゴークールらと 共にブロワに到着した。この町はオルレアンの南西(ロワール川の下流)50キ ロに位置している。
ブロワに集結したフランス軍にはジル・ド・ラヴァル(青髭公のモデル)、 ジャン・ド・ラ・ブロス、ルイ・ド・キュラン、アンブロワーズ・ド・ロレ などの領主貴族とラ・イール(野武士の隊長)がおり、オルレアンに送る糧秣 も用意されていた。
4月27日、ジャンヌはラ・イールの補給部隊を伴って本隊より先に出発。こ の先遣隊は前方のイギリス軍を大きく迂回してオルレアンの上流までまわり、 2日後の29日、迎えに来たオルレアンの防衛責任者デュノワと出会った。
デュノワは補給部隊の兵力が十分でないことを知っており、大きく迂回させ てイギリス軍をやりすごし、オルレアンの数キロ先でロワール川を渡る舟を用 意していた。しかし逆風のため、舟は動きそうになかった。
戦闘を待ちきれず、最短路でイギリス軍を強襲するつもりだったジャンヌに 大迂回のことは知らされていなかった。そこで彼女は迎えに来た武将デュノワ を出会いがしらに叱りつけた。
「あなたですか、この迂回作戦を指揮したのは。とんでもないことです。私 をだしぬいたつもりでしょうが、過ちを犯したのはあなたの方です。我が主の 命令は遥かに賢く確実なのです。私は主の援助をもたらしているのです。主は 聖王ルイと聖シャルルマーニュ皇帝の祈願に応えて、オルレアンを救おうとし ているのです。」
ジャンヌがこう語ったとき、風が突然追い風になった。デュノワは、急いで 糧秣を積み込ませ舟を出させた。舟はオルレアンに向け、敵の砦の前を邪魔さ れることなく通過する。デュノワの中に希望が生まれた。
彼は、夜になってからジャンヌとラ・イールと少人数で東のブルゴーニュ門 からオルレアン城に入ることを請うた。この地で部隊を渡すには時間がかかり すぎるからであり、ジャンヌは承諾しなかったが、残りの兵士たちはブロワに 戻された。
「夜8時、甲冑に身を固め白馬にまたがって乙女は町に入ってきた。先兵に純
白の旗印を持たせ、左にバタール・ドルレアン、後ろに気高い騎士、従者、隊
長、兵士。町からは大勢の兵士や市民が、おびただしいたいまつを掲げ出迎え
た。あたかも神が降り立ったようだった。」(オルレアン籠城日誌)
翌4月30日、5月1日、2日、3日と、ジャンヌは動けなかった。デュノワは国 軍本隊が到着するまではいかなる戦闘も許さず、ブロワに向けて自らがふたた び出迎えに出て行った。
ジャンヌは城内の視察や、イギリス軍に撤退を促す書状を送ったりして、待 つしかなかった。また自分だけが出し抜かれるのではないかと考えているよう だった。
4日本隊が到着し、ジャンヌは副官のドーロンと共に出迎えに出た。その日 の午後、フランス軍側からサン=ルー砦に攻撃をかけた。ジャンヌにはまたも 知らされておらず、寝台に横たわっていたが、大きな物音に飛び起きた。
武装して旗印を手に馬を駆り、ブルゴーニュ門に到着したとき、負傷兵が担 ぎこまれるところだった。流れる血を見て、ジャンヌは髪が逆立つような衝撃 を受けながらもサン=ルー砦に向かった。
ジャンヌを見ると味方の兵士たちは歓声を上げた。勢いを取り戻したフラン ス兵はサン=ルー砦を奪取した。最初の勝利であった。ジャンヌは町に戻ると 夜は宿舎でいつものように女性たちと一緒に寝た。
5日は昇天祭という教会の祝日で戦闘はない。晩になって翌日のための作戦 会議が開かれた。指揮官のラウル・ゴークールは町の諸門を閉ざし固く守る作 戦を主張し、攻撃を主張するジャンヌとの間に激論が交わされた。
ジャンヌはこの日、イギリス軍に宛てた3度目の書簡を口述した。撤退を促 す最後通告で、伝令を捕虜にする非道も訴えた。これを矢に結び付けると敵陣 に射込ませ、「読みなさい、新しい知らせです」と叫んだ。
イギリス軍指揮官グラスデール(仏読み:グラシダ)は「アルマニャックの 売女の手紙だ」と大声で叫んだ。ジャンヌはため息をついて涙を流した。神に 祈って気を取り直したように見えた、とパスクレルは伝えている。
6日、ジャンヌは士気の高い隊長と部下を引率して、ブルゴーニュ門を出る と川向こうのサン=ジャン=ル=ブラン砦に向かった。舟橋を作り、渡りかけ ると川の中州に作られた敵の堡塁は破壊されていた。
サン=ジャン=ル=ブラン砦ももぬけの空で、イギリス兵は既に防備の確か なオーギュスタン砦に撤収していた。これを攻める用意のないフランス兵は撤 退を始めた。
と、そのとき、敵兵は引き上げに付けこんで攻めかかってきた。
前線にいたジャンヌとラ・イールは直ちに反撃に移った。全兵士が反転して 敵に襲い掛かる。見る間に劣勢になった敵兵はオーギュスタン砦に逃げた。勢 いのままに四方から囲んだ砦をフランス軍はわずかな時間で奪取に成功した。
逃げ延びたものはオルレアン橋のたもとのレ・トゥーレル城塞にたてこもっ た。包囲の当初から占領されていたオーギュスタン砦の奪回は、フランス側の 念願だった。ジャンヌとラ・イールら諸将はここで野営することにした。
ラ・イールについては逸話がある。
ジャンヌは神を冒涜するような言葉が大嫌いだった。神(Dieu)を含む
「くそっ、ちくしょう」のような呪い言葉であろう。戦場では誰もが用いる
言葉であり、野盗あがりの片足が不自由で勇猛な隊長ラ・イールは、これが
口癖だった。
「ああ、あなたはよくも我が主を罵れるものです。取り消なさい。」彼はジ
ャンヌの剣幕に驚いて謝罪した。そして促されるままに、修道士のところで
懺悔をした。
さらに彼女は「これ以後は神を呪わぬよう、神を呪いたくなったら自分の杖
を呪いなさい」と命じた。これ以後ラ・イールはジャンヌの前では杖を罵っ
た。皆、彼女に叱られるのを怖がった。
ジャンヌは怒りを抑えて応えている。「あなたはあなたの意見を述べました が、私にも私の意見があります。しかし我が主の意見こそが果たされ、私たち の意見は消え去るでしょう。」
5月7日の土曜日の早朝、ジャンヌの望みどおり、最重要拠点、レ・トゥーレ ル要塞への攻撃が開始された。
要塞の外側に陣を構えた敵兵に対して攻撃をしかけていたとき、ジャンヌの 乳房の上部に敵の矢が突き刺さった。彼女は泣き出した。味方が乱戦の外に運 び出し、矢を引き抜くと、誰かが呪術で用いる塗り薬を進めた。
ジャンヌは「神の意思に背くぐらいなら死んだ方がましです」とそれを拒否 した。そこで修道士パスクレルが、傷口にオリーブ油と豚の血を塗ってやり包 帯を巻いた。手当てが終わるとその場で涙を流しながら告解した。
そして直ぐに戦闘に戻っていった。ジャンヌは前線に立ち続け、兵士を励ま し続けた。
敵の要塞は夕方になっても落ちなかった。兵士たちは疲れ切り、士気も落ち 込んでいたので、デュノワは全軍を退却させようとした。ジャンヌは少し待つ ように要求し、暫時の休息と食事を提案した。そして皆からかなり離れた葡萄 畑の中に一人たたずみ、10分ほどお祈りをしていた。
ジャンヌの副官ドーロンは、ジャンヌの旗印を最前線になびかせようと考え た。ル・バスクという勇敢な男に旗を持たせると、二人で要塞の前の濠の中へ 入った。投石を防ぐべく盾に身を隠しながら、城壁の足元まで達した。
ジャンヌは軍旗を奪われたと思って飛びかかって行った。ル・バスクから旗 印を奪い取ると「おお私の旗印、私の旗印」と叫びながら振り回した。ル・バ スクは彼女から再び旗を奪い取ると、ドーロンのそばで立ちはだかった。
この騒ぎを何か合図と思った兵士たちは、再び激しい勢いで要塞に攻め込ん だ。ジャンヌと旗印を間近に見たイギリス兵は震え上がった。
ジャンヌは叫んだ。「グラシダ、グラシダ、降伏せよ、降伏せよ、お前は私 を淫売婦と呼んだ。私はお前と部下の魂を憐れむ」
フランス軍は、大きな抵抗もなく城によじ登り、ついに要塞を占領した。逃 げ場のない敵兵は捕虜になるか討ち死するほかなかった。グラスデールは大混 乱の中、甲冑のまま川に落ちて溺れ死んだ。
奇跡のような大勝利だった。フランス軍は初めて橋を通って町に戻った。
翌日の5月8日日曜日の早朝、イギリス全軍は戦列を整えた。負け戦に慣れて いたフランス軍だったが、この日ばかりは戦意に満ち、すさまじい勢いで戦陣 を組み、これと対峙した。
イギリス軍はしばらくすると整然と立ち去っていった。軽い鎖帷子だけを身 に付けていたジャンヌは、当初から安息日の攻撃を禁じており、追撃を許さな かった。
こうしてオルレアンは解放された。半年以上に渡ったイギリス軍の包囲は、 ジャンヌ到着からわずか10日で消滅した。
翌5月9日、ジャンヌは休むことなく、デュノワと共に王太子のいる町に向け 出発した。
シノンでは王太子が、オルレアンからの第一報(食料到着とサン=ルー砦の 奪取)を知らせる、国内向の書簡を口述していた。しばらくすると第二報(オ ーギュスタン砦占領)が入ったため、追伸を書き足した。さらに第三報(オル レアン解放)が入り、さらに追伸が加えられた。
全フランスで、イタリアで、フランドルで、ドイツで熱狂的な称賛が起こっ た。パリの詩人クリスティーヌ・ド・ピザンは「時は1429年、太陽は再び輝き 始めた」と記した。イギリスでは妖術使いに逆転されたと考えていた。
(次号に続く)
◆◆【4】画像について◆◆
ジャンヌ・ダルク(1412-31)は、巨匠ヤン・ファン・アイク(1391-1441)
と同時代人であり、彼の主君はブルゴーニュ伯フィリップ善良公だったから
公が彼女と面会したとき同行していたなら
ところが何と、生前のジャンヌ・ダルクをモデルにして肖像画を描いた人物 は存在したらしい。さすがヨーロッパ文明である。
レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著『ジャンヌ・ダルク』 (東京書籍)によれば、「ランス滞在時にスコットランド人がジャンヌの肖像 画を描いたが、現在は失われてしまった」という。
これは実に惜しかった。ランスやスコットランドの町屋か貴族の館に真っ黒 になったまま放置されていないかと期待したくなる。もしくは先祖の肖像画と して間違って飾られていないか、などと。
さて、今回取り上げた、「農民の衣装で武器を手にしたジャンヌ・ダルク」 (フランス国立図書館所蔵)については、細密画に馴染んだ職業画家の手にな ることしか分からない。
筆者は、この絵を実見したわけではなく、残念ながらこのページの文書の内 容も分からない。以下は、肖像画データファイルの意味の項に書いた説明の原 文である。
Jeanne d'Arc en costume de paysanne, tenant ses armes. Miniature extraite de Proces de condamnation et de rahabilitation de Jeanne d'Arc, manuscrit copie a la fin de XVe siecle a Saint-Victor (Bibliotheque national de France,Paris)
絵の具にはテンペラを用いている。テンペラというのは、天然の鉱物等を砕 いた顔料粉末に、糊を混ぜて描く技法である。
この顔料を溶く糊に、卵を用いれば卵テンペラ、膠(動物の皮を煮て作るコ ラーゲン)を用いれば膠テンペラ、アラビアゴムならゴムテンペラとなる。
日本画は膠テンペラであり、水彩画はゴムテンペラ、およそ糊の種類の違い によって絵画技法は区別される。水溶性なので厚塗りはできないが、緻密な作 業には大変向いている。これに剥落防止と虫除けのための目止めを施す。
「農民の衣装で武器を手にしたジャンヌ・ダルク」は何テンペラなのかは分 からないが、幾度も重ね塗りされて、深く濃い色味が見えている。
足元には彼女が“la pucelle”(ラ・ピュッセル)であるという説明書きが ある。
衣装は農家の婦人のもので、白い頭巾を被っている。その手には、真っ赤な ビロードの鞘に収まったサント=カトリーヌ=ド=フィエルボワの剣と三日月 斧を手にしている。
彼女はそれらを武器として使うことはなかった。戦場において敵兵士を殺害 したことはない。
もっとも、兵士の元に集まる売春婦たちを、剣で追い払うジャンヌの姿は、 文書にも絵画にも残されている事実であった。
その容姿はいかにも小娘らしく描かれている一方で、毅然とした雰囲気は感 じられる。しかし、容貌については何らの情報を与えてくれず、これを肖像画 とは呼ぶことができない。
◆◆【5】参考図版について◆◆
〈参考図1〉
「1429年5月10日、パリ高等法院書記官クレマン・ド・フォーカンベルグが執 務記録の余白に記した羽根ペンによる素描」(フランス国民議会図書館蔵)
当時のパリであるから、当然この書記官はジャンヌの敵国イギリス・ブルゴ ーニュ連合軍側に属している。「火曜日」という文字から始まるこの日の記録 の内容は、
「パリでは次の噂が語られている。去る日曜日、フランス軍はオルレアンの
橋の上で、激しい攻撃を繰り返した末、イギリス国王の隊長や兵士らが守る
要塞を奪い返した。敵軍にはただ一人軍旗を手にした小娘が加わっていた」
スカートの下の太書きの文字は、Mercredi(水曜日)であり、次に書かれた項 目の日付を示しているにすぎない。
ジャンヌの背後に×或いは十字のような記号の落書きがある。これは文字を 書けなかった頃、彼女が用いた記号で、ミサの署名には十字の記号を記した。 (名前の書き方を習ってからは、口述筆記させた書簡のたどたどしい署名の 脇に十字を書くこともあった。この場合の十字の意味は、この手紙を無視せよ という暗号であった。)
書記官は敵方であったにもかかわらず、このように非常に多くの情報を耳に していた。
このわずかな素描が、今日残されている、ジャンヌ・ダルクの生前に描かれ た唯一の画像である。
〈参考図2〉
「旗印を持つジャンヌ・ダルク像 15世紀末の細密画 羊皮紙にテンペラ」 (パリ国立古文書館蔵)
もともとの写本から切り離された小さな断片になっている。裏にはオルレア ン公であり詩人でもあったシャルル・ドルレアンの詩が書かれている。
これを写本から切り取った人間は、愚かにも写本よりジャンヌの絵を所持し たいと考えたのだろう。図書館で見かける非行に同じく。
後年歴史愛好家の医師らによって博物館に寄贈された。
甲冑を着けたジャンヌは、右手に剣、左手に持った旗印の棹を肩に掛けてい る。旗の模様及び甲冑は写実的に描かれている。 顔・髪・手はこの上なく優雅に様式化されており、画家が優れた技術と見識 を有していることを感じさせる。しかし、ジャンヌの個性についての情報は皆 無であり、本人を知らない画家としては、理想化された表現で巧みに切り抜け ている。
長い髪はフォーカンベルグの素描を明らかに参考にしている。
〈参考図3〉
「ジャンヌ・ダルクと推定される15世紀の首像 テラコッタ」 (オルレアン美術館蔵)
テラコッタというのは、粘土で形を作ったあと乾燥させて、素焼きにした造 形作品のことである。埴輪もテラコッタである。
所蔵はオルレアン美術館と書いたけれども、間違っているかもしれない。 この写真は補彩されているため、ある意味美しいといえるだろう。
確実にオルレアン美術館蔵とされているものは、彩色が剥げて、もっと薄い 色をしている。印象は大変に生々しく、角度を変えて見ると生首を見ているよ うな衝撃が走る。
口の右半分は歪んでいる。あまりにおどろおどろしいもので、ここに掲載す ることがためらわれた。
15世紀のものでジャンヌ・ダルクと推定される、と説明書きにあるが、 ・・・確かにありそうな、雰囲気なので、・・・言葉を失う。
彼女は美しい女性であったという証言の記録が存在している。
◆◆【6】次号予告◆◆
ジャンヌについての説明が映画のように詳細なのには不信感を覚 えた方もおられるかもしれません。けれども、
ジャンヌの言葉と逸話は驚くほど多くの同時代の記録が残っているのです。
1431年に行われた処刑裁判と、死後20年より7年かけて行われた調査と復権 裁判の膨大な記録が保存されており、ジャンヌの生前の姿を克明に伝えている のです。
証言した人々は、ジャンヌの幼なじみ、告解を受けた教会の神父・司祭、戦 友、ジャンヌを宿泊させた夫人、処刑裁判の書記、判事、処刑に間近に立ち会 った修道士まで、百数十名にのぼります。
さて次号は、「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」の本論の2 回目として、19世紀以後のジャンヌ・ダルク像をご紹介します。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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