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- No.17 ジャンヌ・ダルクの肖像画2
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 「ジャンヌ・ダルクの肖像」(ヴェルサイユ宮殿博物館蔵)
【2】 肖像データファイル
【3】 ジャンヌ・ダルクについて
【4】 作者について
【5】 肖像彫刻について
【6】 参考図版について
【7】 次号予告
【8】 編集後記
◆◆【1】「ジャンヌ・ダルクの肖像2」◆◆
「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」後編です。
今回は19世紀以後のジャンヌ・ダルク像を決定付けたといわれる肖像彫刻を 紹介します。作者はアマチュア芸術家ですが、ジャンヌ・ダルクの生誕から、 ちょうど400年後に、オルレアン公の娘として生まれ、のちにフランス王女と なった女性です。
また、20世紀の肖像としては、ジャンヌ・ダルクの映画について触れてみま す。その中で、筆者お薦めの映画を紹介します。これぞ真実のジャンヌ・ダル クといえる女優は、フランス語に堪能なポーランド系アメリカ人で、撮影当時 まだ16才の少女でした。
どちらも、肖像画ではありませんが、ジャンヌ・ダルク本人を彷彿とさせる 素晴らしい作品です。
★「ジャンヌ・ダルクの画像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p17.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 祈るジャンヌ・ダルク
作者名: マリー・クリスチーヌ・ドルレアン
材 質: 大理石
寸 法: 高さ201cm 幅75cm 奥行82cm
制作年: 1836年
所在地: 国立ヴェルサイユ宮殿博物館(フランス)
注文者: 父・国王ルイ・フィリップ
意 味: アマチュア彫刻家である王女マリーのデッサンを基に彫刻家、オー ギュスト・トルショーが仕上げた合作。
ブルボン=オルレアン家の王女が、国王の注文で、王国の英雄を顕彰するために制作した。19世紀以降のジャンヌ・ダルク像を決定付けた彫刻であり、ブロンズや大理石で数多くのコピー(他人の手になる作品)が作られた。
◆◆【3】ジャンヌ・ダルク(1412-1431) について◆◆
(前号よりつづく)
3.捕縛
ジャンヌが、ポアティエで作った第1の予言、オルレアンの解放はついに成就 した。ジャンヌ・ダルクは、5月11日トゥールに程近いロッシュにて、シャルル 王太子に謁見した。
そこで、ジャンヌは王太子に対し、ランスに進軍し、正式にフランス国王と なるべく戴冠式を行うことを進言した。
1223年以降、フランスでは歴代の国王たちは、ランスのノートルダム大聖堂 で、戴冠式を挙げる慣わしとなっていたからである。
一方、王太子の側近たちは、皆ノルマンディー攻略を主張した。
ランスも途中の経路もすべてブルゴーニュ派の手にあってリスクが大きい。 今オルレアンの勝利の余勢をかって、ノルマンディー攻略のために北上すれば イギリス軍の補給地を絶つことができ、一気に敵を弱体化できるためである。
結局シャルルは、ジャンヌに押し切られランス進撃を決定した。
ジャンヌの主張には、王太子の地位に甘んじていたシャルルが正式に国王と なることで、フランス軍の勢力が盛り返し、ブルゴーニュ派の諸候も民衆も国 側に寝返って来るという読みがあった。
しかし結果からいうと、ジャンヌの期待に反して寝返りは少なく、ランス進 軍と戴冠式に使われた莫大な費用によって、フランス軍は戦費に事欠くように なってしまい、このあとシャルルはできるかぎり交戦を避けようとする態度に 変容してしまうのである。
フランス軍は6月11日ジャルジョーを攻撃する。ジャンヌはジャルジョーの 城壁にかけた梯子に上っているとき、敵兵の投げた石弾が頭を直撃し転げ落ち たが、兜をかぶっていたため無事だった。
6月12日ジャルジョーを奪回、6月15日マン奪回、6月16日ポージャンシー奪 回、6月18日パテの会戦での大勝利。シャルルの軍隊はジアンに集結した。
このジアンの地でジャンヌは敵ブルゴーニュ公フィリップ宛て、戴冠式出席 を要請する書状を口述している。
6月30日オーセール着、7月10日トロワ入城。思えば5ヶ月前、ヴォークール ールからブルゴーニュ公領を抜けシノンに数騎でやってきたジャンヌが、フラ ンス主力軍と共に同じ道を逆行しているわけである。
さて、一行はトロワから北上し、7月12日アルシ=シュール=オーブ、13日 レットレ、14日シャロン=シュール=マルヌ、15日セッソー、そして7月16日 ランスに入城した。
この間、フランス軍は連戦連勝の快進撃だった。
7月17日の日曜日、シャルル王子はランス大聖堂に国王シャルル7世として 戴冠式を行った。こうしてジャンヌの第2の予言は成就した。
ここでもジャンヌは、ブルゴーニュ公フィリップ宛、和平を要請する書簡を 送っているが、この頃彼はパリに滞在しており、イギリス軍のベッドフォード 候により歓待を受けていた。
7月20日ランスを出発した国王は、以後1ヶ月の間にパリの東部や北東部の 諸都市(ソワソン、プロヴァン、コンピューニュ、ボーヴェ)を服従させた。
これに伴い、イギリス軍と、親イギリス派の市民たちは撤退・追放の憂き目 に合うのだが、その中の一人に、ジャンヌ処刑の主謀者となる重要人物がいた。
フランシスコ会修道士、ピェール・コーション司教(1371-1442)である。 彼はランスに生まれ、パリ大学で教会法学士号を得ると大学の総代を務め、 1409年38才のときブルゴーニュ公の側近となった。
1420年にはブルゴーニュ公フィリップが、狂王シャルル6世と王妃イサボー を抱きこんで、イギリス国王ヘンリー5世と結んだトロワ条約を起草した。こ れは、イギリス国王がフランス国王を兼務するというものである。
彼は、イギリス王の顧問官にもなり、イギリス派のペッドフォード公爵の信 頼を得るというまさにイギリス・ブルゴーニュ派である。
ランス司教ののちポーヴェ司教に任じられていた彼は、シャルルの進撃によ って教区を追われ地位と財産を失って、ルーアンに逃げ込んだ。ここは当時北 フランスにおけるイギリスの本拠地だった。
さて、破竹の勢いだったシャルル国王は、経済的に行き詰まりつつあった。 戦争は高くつく。そこで戦いの優勢なうちにと、秘密裏にブルゴーニュ派との 和平工作にのりだしていた。
8月28日に4ヶ月の休戦条約が成立する運びとなるが、一刻も早くイギリス軍 を放逐したいと焦る急進派のジャンヌは、8月23日国王の命令を待たず、パリ に向けて出発する。
8月26日パリ北方9キロのサンドニ到着。しぶしぶ腰を上げた国王だが、パリ 攻撃は許可しなかった。国王にはもはや戦う気持ちがなかったのである。
9月8日ジャンヌは、アランソン公と共に、パリのサン・トノレ城門に攻撃を 仕掛ける。しかし結果は失敗に終わり、ジャンヌも腿に矢を受けた。翌9月9日 シャルルによりパリ攻撃中止命令が出された。
9月13日にはロワールに向け撤退。9月21日ジアンで国王軍は解散した。ジャ ンヌは3週間の休暇を得た。
この間11月にはジャンヌはフランス中部のブルゴーニュ派都市、ラ・シャリ テ攻略を命ぜられたが、戦費に事欠き、補給も援軍もないまま1ヶ月後退却し た。
1429年12月末、国王シャルルによりジャンヌは、両親・兄弟と共に貴族に叙 せられた。年が変わって1430年1月6日ジャンヌは18歳の誕生日を迎えた。
この年、ブルゴーニュ軍はパリの東北部を脅かし始める。
フランス国王シャルル7世とブルゴーニュ公爵フィリップの休戦条約は3月15 日まで延長され、4月初めに改めて講和会議が開かれることになっていた。し かし、ブルゴーニュ公は会議を6月に延期する。
その一方で、ブルゴーニュ全軍を率いて4月22日フランス国王領に進撃した。 これと同時にイギリス国王にヘンリー6世は大部隊を率いてきたフランスのカ レーに上陸した。
5月になって謀られたと気づいたシャルル7世は開戦を決意する。
ジャンヌにとって運命の日は近づいていた。
ブルゴーニュ軍は、5月6日コンピエーニュの攻撃を開始。5月13日、ジャンヌ は副官ジャン・ドーロンと兄ピエール・ダルクと200人あまりの手勢を率いて、 コンピエーニュに入城した。到底国軍の司令官とはいえない陣容であった。
5月15日、ジャンヌは、ショワジ救援に向かう。翌16日には撤退。
5月23日、コンピエーニュを出てマルニ方面に展開するブルゴーニュ軍に奇襲 をかけるため作戦に打って出る。
しかし、次第に押し返されて退却を始めたジャンヌの軍は、コンピエーニュ に逃げ込もうとした。
ブルゴーニュ軍も追って来る。コンピエーニュの守備隊長は彼らを入れまい として城門を閉じさせた。
これにより、最後尾でしんがりをつとめていたジャンヌは兄ピエール、副官 ドーロンと共に城外に取り残されてしまう。敵兵の手により馬から引きずり落 とされたジャンヌはついに捕らわれの身となった。
彼女を捕えたのはリニー公ジャン・ド・リュクサンブールの家臣だった。そ して、コンピエーニュはあのピエール・コーションのボーヴェ司教区に属して いた。
4.処刑
7月10日ジャンヌは、ボールボアールにあるド・リュクサンブールの居城に 幽閉された。11月9日には現在のベルギー国境に程近い、ブルゴーニュ側の街ア ラスに連行されたが、この間二度の逃亡を企てている。
ド・リュクサンブールの城では、ジャンヌは比較的親切に扱われた。ジャン ヌの所有者であるド・リュクサンブールは身代金を期待していたのである。
イギリス派であるパリ大学神学部は、ジャンヌを宗教裁判に掛けるため、引 き渡し要求を行っていた。当然、フランス国王シャルル7世にはジャンヌの身 代金を払う権利があったが、彼は何一つジャンヌ奪回のための行動をおこさな かった。
ここで、大活躍を演じたのがピエール・コーションである。
ジャンヌ・ダルクの逮捕地が自分の司教区であることを理由に、パリ大学、 イギリスのベッドフォード公爵、ブルゴーニュ公フィリップ、ド・リュクサン ブールらと交渉。イギリスの金でジャンヌを買い取り、イギリス軍の占領地ル ーアンでジャンヌの裁判を取り仕切る約束を取り付けたのだった。
12月6日ジャンヌは40万金フラン(1953年の換算で8千万フラン)で、ド・ リュクサンブールからコーションに売り渡され、12月23日にはルーアンのボー ヴルイユ城に収監された。
彼女の牢獄は、塔の中にあり、2人のイギリス兵が外を固め、3人が獄内で常 時監視した。夜の間は、ベッドの脚につながれた2組の鉄鎖で両足を固定され た。
ジャンヌは獄中で19才の誕生日を迎える。そして彼女の裁判はルーアン城で 1431年2月21日から始まった。そして40人あまりの判事(神学者)の前で、12回 ほど尋問を受けることになる。
弁護人は一人もいなかった。たった一人で被告席に座り続けたジャンヌの飾 り気のない態度や立派な答弁に、感銘を受けた判事も少なくなかったという。
3月28日70項目のジャンヌの罪状が読み上げられた。その主旨は彼女の行動す べてが神を冒涜するというものであり、4月4日には12項目に要約された。
長引く裁判に苛立ったコーションは、差し入れを与えてジャンヌの毒殺を試 みたが、彼女はしばらく病に伏した後回復した。
判決のあったのは5月24日のことである。彼女を異端であるとし、イギリス側 にゆだねる旨の判決文が読み上げられた。それは即火あぶりの処刑を意味して いた。
彼女は恐ろしさにひるみ、教会の言う通りになんでもすると答えた。自らの 一切の行動を誤りであるとし、神の啓示を否認し、悔い改めた。そして改悛の 誓約書に十字の署名をした。
この有名な改悛の書状の中で、最も特異な条項は、ジャンヌが今後、男子服 を着用しないという約束であった。しかし、文盲である彼女にその内容は伝わ っていなかったに違いない。明らかな罠である。
改悛後再びなされた判決は、パンと水のみによる、終身入牢であった。
同日、教会の牢ではなくもとの牢獄に戻された。彼女は異端審問官の命令に 従って婦人服を着用した。
しかし、5月27日の朝、ジャンヌは再び男子服を着用していた。ピエール・コ ーションは5月28日自ら牢に出向いてその事実を確認すると、5月29日、裁判官 と39名の判事を招集した。
そして満場一致でジャンヌを「異端戻り」と宣告し、イギリス兵の手に引き 渡すことにした。
5月30日、マルタン・ラドヴニュ修道士とジャン・トゥームイエ修道士の2名 はジャンヌの牢に派遣された。判事たちの最終判決を聞かせるためである。
死を告げられたジャンヌは、苦しげに叫び、体をひきつらせ髪の毛を掻きむ して言った。「ああ、何とと言う恐ろしくむごい扱いでしょう。こんなように 焼き殺されるより七度首をはねられたほうがましですもの」
そして牢番たちによって加えられたいじめや暴力について嘆き訴えた。
マルタン・ラドヴニュの証言が残っている。
「誰かが夜の間にひそかに近づいたかどうかの件について、私はジャンヌの口 から、あるイギリスの高官がジャンヌの牢獄に入ってきて、暴力で彼女をもの にしようとしたのだと聞いています。
彼女の言うところでは、これが彼女が男の服装に戻った理由です。」
直後にコーションが現れた。ジャンヌは司教を名指しして言った。
「司教、私はあなたに殺されるのです。私はあなたを神の御前に訴えます」
この後、ジャンヌは、泣きながら告解をし、聖餐を受けると、ドミニコ会修 道士であるラドヴニュとトゥームイエに伴われ、120名の兵士によってマルシ ェ広場に連行された。
彼女は数千の公衆の面前で裁判官の説教と判決を言い渡された。
高く設えられた公開処刑台に縛り付けられたジャンヌは、薪に火がつけられ ると、ラドヴニュに十字架を高く掲げ見えるようにしてくれと頼み、彼はその とおりにしてやった。
燃え盛る炎の中でジャンヌは、自分が聞いた声は神のもので、自分は声に裏 切られたとは思っていない、自分が受けたすべての啓示は神のものだと主張し た。
また、階層や身分に拘らず、味方も敵も区別なく、あらゆる人々に慎ましく 許しを求め、自分のために祈ってくれるよう求め、自分に危害が加えられたこ とを許します、と語った。 「ああルーアンよ、御前が私の死で苦しまなければならないことを恐れます」
そして息絶えるまで高い声で、「イエズス様、イエズス様」と叫び続けた。
ジャンヌの死後、遺灰はすべて近くの橋の上からセーヌ川に投げ込まれた。
ラドヴニュは死刑執行人ジョフロワ・テラージュの絶望の言葉を伝える。 「自分は地獄に落ちることを恐れている。聖女を焼き殺してしまったから」
ジャンヌの第3の予言、パリ奪回が成就したのは1436年、彼女の死の5年後の ことであり、第4の予言、シャルル・ドルレアンが解放されたのは1441年のこと だった。
そして1453年シャルル7世の治世下において、カレーのみを残してすべてのフ ランス領土をを回復した。
思うに、ジャンヌの死とは、神の意思だったのか。助けると何度もお告げを していながら、イギリス人のなすがままに放置したのは、ジャンヌが生き残る のを望まなかったからなのか。
しかし、乙女を使うだけ使っておいて、最後ははずかしめを与えるままに許 し、生きたまま火あぶりというのは悲惨すぎる。
ジャンヌの死はイエズス・キリストのそれに酷似している。 神に選ばれた者が生き延びた例はない。
神など存在しない。人間に救いの手をさしのべる神などあったためしはない と普通の日本人なら考える。
しかし、そうでなく、もしフランスあたりにいるとしたならば、どうも神は きまぐれでいじわるなフランス人に似ているようである。
〈参考文献〉
「ジャンヌ・ダルク」レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著 福本直之(東京書籍)1992年
「ジャンヌ・ダルク復権裁判」レジーヌ・ペルヌー編著 高山一彦訳(白水社)2002年
「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」高山一彦編著 (白水社)2002年
「ジャンヌ・ダルクの実像」レジーヌ・ペルヌー著 高山一彦訳(白水社)1995年
「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ著 (講談社)2001年
「ブリタニカ国際大百科事典」
「ジャンヌ・ダルク」ジュール・ミシュレ著 森井真・田代葆訳(中央公論社)1983年
◆◆【4】作者マリー・ドルレアン(1813-39)について ◆◆
国王ルイ・フィリップの王女マリー・ドルレアンは中世ゴシック文化と芸術 に情熱を捧げた才能あるアマチュア芸術家である。
彼女の作った「祈るジャンヌ・ダルク像」はフランスで最も人気のあるジャ ンヌ・ダルク像となり、数多くの彫刻家により模倣され、フランス中に設置さ れている。
マリー・ドルレアンは、ブルボン=オルレアン公ルイ・フィリップ(1773- 1850)とマリー・アメリアの次女として、1813年4月12日イタリアのパレルモ で生まれた。
この父ルイ・フィリップという名前に聞き覚えのある方がおられることだろ う。彼は1830年のフランス7月革命の項で、世界史の教科書に登場する。
ルイ・フィリップは1789年に始まったフランス革命に際し、当初革命側のジ ャコバン党に付いていたが、1793年ルイ16世の処刑が決定されると、身の危険 を感じて、スイスへ、次いでアメリカ、イギリスに亡命した。
1809年にはイタリアシチリア島のナポリ王家に赴き、ナポリ王の娘マリー・ アメリアと結婚した。
フランスは1799年ナポレオン帝政となったが、1815年の百日天下の結果ナポ レオン・ボナパルトは完全に失脚する。ルイ・フィリップは帰国するとオルレ アン家の旧領地を回復した。
二度の王政復古のあと、1830年はフランス7月革命の年である。このときブ ルボン家の直系は廃されて、ルイ14世の弟の流れを汲むルイ・フィリップ(王 位1830-48)が、フランス人の王として即位。
17才になっていた娘のマリー・ドルレアンも王女となった。
ルイ・フィリップの子供たちは、自由主義的で、基礎のしっかりした多方面 の教育を受けており、父を継いでオルレアン公となった兄は、芸術の庇護者で あり、貪欲なコレクターであった。
若いマリーはその短い一生のうちでも、銀細工師シャルル・ワグナー、建築 家テオドール・シャルパンティエ、画家アリー・シェフェールら多くの芸術家 たちとの親交を深めた。
中でも、アリー・シェフェールは王家の芸術教育係であったが、マリー・ド ルレアンのメンターとして、教師として、読みものの選択から、芸術の相談相 手まで務めた。彼は、美しいマリーの肖像画も描いている。
1832年に姉ルイーズがベルギー国王レオポルド1世と結婚し、マリーの許を 去った。このことが、彼女の心の内に、大きなフラストレーションを生じさせ た。
以後姉とはたくさんの手紙のやりとりを続けているが、もはや貴族の社交上 の行事に興味が持てなくなったマリーは、自室で素描を行うことに慰めや情熱 を見出すようになる。
彼女の数少ない作品は、宗教的な主題、あるいは歴史的、文学的な主題に発 想を得たものであった。しかし、いつしか自身の絵画的才能に失望を覚え、師 シェフェールの奨めもあって1834年になると彫刻に転向した。
1835年建築家テオドール・シャルパンティエは、マリーからチュイルリー宮 にあった彼女のアトリエをサロンとして改装するよう依頼を受けた。中世のゴ シック様式に通じたシャルパンティエは、ネオ・ゴシック様式でサロンを飾っ た。
彼女自身も、この建築家のほかに彫刻家、装飾デザイナー、家具デザイナー を動員してネオ・ゴシックの家具やアンティークでサロンの空間を埋め尽くし た。
芸術家マリーにとっては、歴史上のヒロイン、ジャンヌ・ダルクはずっとお 気に入りの主題であったが、この豪華なサロンが、マリーの理想の背景となっ たわけである。
そして、父王ルイ・フィリップの注文で、ヴェルサイユ宮殿の歴史博物館の ためにジャンヌ・ダルク立像の制作することになった。
この作品「祈るジャンヌ・ダルク」は1836年に完成。
1837年、マリーはアレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルクとヴェルサイ ユ宮殿で結ばれ、翌年には男子フィリップが生まれた。
しかし、ばら色の日々は短かった。しつこい咳に悩まされ始めたマリーは、 温暖なイタリアのピサに療養先を求めたが、結核により翌1839年1月6日この地 で死去した。まだ25才の若さだった。
◆◆【5】肖像彫刻について◆◆
アマチュア彫刻家といわれるマリー・ドルレアンの構想を基に彫刻家・オー ギュスト・トルショーが仕上げた合作といえる大理石像である。
ロダンの下彫り工を務めた巨匠デスピオやブールデルと同様に、代作者の名 が前面に出ることはないが、その彫像技術は卓越したものである。
おそらくは、このような姿に着飾ったモデルを用意し、デッサンと彫刻を仕 上げたはずである。
この彫刻作品は、フランス人に最も好まれたジャンヌ・ダルク像であり、19 世紀半ばになると「祈るジャンヌ・ダルク」は、さまざまにサイズや材料を変 えて、教会、博物館、広場、個人のコレクション等のためにあちこちでコピー が作られた。
サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワの剣を両手で胸に抱く、鎧を着たお かっぱ頭の少女。下半身にはスカートをまとい、ややうつむきかげんに物思い にふける様子でたたずんでいる。
その容貌は、意思の強さと信仰の深さを感じさせる。背後の木の株の上に兜 と、小手と言ってよいだろうか、防御用の手袋が置かれている。
素材は大理石である。大理石の色は白・乳白色・ピンク色・黒・赤味がかっ たもの、紫がかったものなど多様である。本作品は少女の肖像にふさわしい清 楚な色である。
筆者は画家であるが、パルテノン多摩のモザイク壁画制作に参加した際、大 理石をたがねとハンマーで割った経験がある。このとき大理石とは冷たく重く 固いという印象しかなかった。
しかし、彫刻家に言わせると、大理石とは柔らかいものだそうである。
信州の安曇野にある御影石などを削った道祖神をご存知の方もあろうが、こ れはいかにも固そうで、細かな彫りはきかぬものである。全国各地にある五百 羅漢なども同じである。
古来日本には良質の大理石が少なく、大きさも小さいものばかりで、細密な 彫刻芸術は木材や金属等に頼る他なかった。
一方ヨーロッパでは大理石がふんだんに産出される。これがどうも木のよう に刻めるものであるらしい。
今や細密彫刻がいたるところで見られるため、このジャンヌ・ダルク像を見 ても、我々はもう何も感じなくなっている。
けれども雅趣はあるが稚拙な、道祖神や五百羅漢の石造彫刻しか知らない明 治以前の日本人にとってはこうした技術は驚異的なものであったはずである。
さてそんな素材で作られるジャンヌ・ダルク像であるけれども、華奢な二本 脚で立たせることに、芸術家は躊躇せざるを得なかった。
もろい石は衝撃に弱く、折れやすい。彼女の背後に木の株がくっついている のはそんな理由からである。これで彫刻は三点支持となり、耐久性と安定性を 確保している訳なのだ。
このような例は天才ミケランジェロをはじめとして、たくさん見られるので そんな目を持って彫刻をご覧になれば、芸術家の微笑ましい石との格闘の現場 をしのぶことができるだろう。
この作品は「祈るジャンヌ・ダルク」と名付けられている。しかし、ここに は二つの矛盾が潜んでいる。レトリックといってよいかもしれない。
第一には彼女が神に祈る際に、殺傷の道具である剣を胸に抱くなど考えられ ないということ。
第二には、戦場にあって男装を通したジャンヌ・ダルクがスカートを履いた まま鎧を着けている点である。
しかし、この小さな二つのうそが、この像をジャンヌ・ダルクたらしめてい る由縁であり、観る人に共感を呼びおこすきっかけとなり得ている。
剣を大切そうに胸におし抱くこの可憐な美少女兵士こそが、彼女の普遍的イ メージである。
タイトルも説明もついていなくとも、この像を観る誰もがジャンヌ・ダルク を思い浮かべるであろう。
芸術作品とは形に込められた作者の思想である。
アマチュア芸術家マリー・ドルレアンが1836年に生み出した「祈るジャンヌ ・ダルク像」は、その後のジャンヌ・ダルクのイメージを決定づけた。
私は、このメルマガを書くために、ジャンヌ・ダルクの肖像を1年間探し続 けたが、中世以後、現代まで描かれ続ける彼女の肖像画は、どれひとつ共感す るものがなかった。彼女を取り囲む状況を克明に描くほど、うそっぽいのであ る。
有名な大芸術家ジャン・ドミニク・アングル(1780-1867)の「戴冠式のジ ャンヌ・ダルク」も同様であった。
この作品は、「祈るジャンヌ・ダルク像」と同時代の作品である。19世紀の ルイ・フィリップ王朝の清新な空気の中で生み出されたものである。
しかしその内面性の欠如は明らかである。アングルの好敵手であったウジェ ーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の「民衆を率いる自由の女神」の方がジャン ヌ・ダルク像としてはふさわしい。
筆者は「ジャンヌ・ダルクの肖像画」を探すのを諦め、彫像に目を転じた。 ここでもおびただしい数のジャンヌ像が存在した。
そして、ここに掲げる「祈るジャンヌ・ダルク像」だけが印象に残った。胸 に染み入ったというのが本当のところである。
◆◆【6】参考図版について◆◆
ジャンヌ・ダルクに関する映画は、資料によれば1898年以後22本を確認する ことができる。
その中で筆者がヒロインの映像を確認できたものをリストアップした。 ( )内は、彼女たちの公開時の年齢である。
『ジャンヌ・ダルク』(1916年米)
監督:セシル・B・デミル, 主演:ジェラルディン・ファラー(34才)
"Joan the Woman", Cecil B. DeMille, Geraldine Farrar
『裁かるゝジャンヌ』(1928年仏)
監督:カール・T・ドライヤー, 主演:ルネ・ファルコネッティ(36才)
"La passion de Jeanne D'arc", Carl T. Dreyer, Renee Falconetti
『ジャン・ダーク』(1935年独)
監督:グスタフ・ウツィツキ, 主演:アンゲラ・ザローカー(22才)
"Das Madchen Johanna", Gustav Ucicky, Angela Salloker
『ジャンヌ・ダーク』(1948年米)
監督:ヴィクター・フレミング, 主演:イングリッド・バーグマン(33才)
"Joan of Arc", Victor Fleming, Ingrid Bergman
『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1954年伊・仏)
監督:ロベルト・ロッセリーニ, 主演:イングリッド・バーグマン(39才)
"Jeanne au Bucher", Roberto Rossellini, Ingrid Bergman
『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962年仏)
監督:ロベール・ブレッソン, 出演:フロランス・カレ(21才)
"Proces de Jeanne d'Arc", Robert Bresson, Florence Carrez
『ジャンヌ/愛と自由の天使』『ジャンヌ/薔薇の十字架』
監督:ジャック・リヴェット, 主演:サンドリーヌ・ボネール(27才)
"Jeanne la Pucelle, Les Batailles","Jeanne la Pucelle, Les Prisons",
Jacques Rivette, Sandrine Bonnaire
『ジャンヌ・ダルク』(1999年米)
監督:リュック・ベッソン, 主演:ミラ・ジョボヴィッチ(24才)
"The Messenger: The Story of Joan of Arc",Luc Besson, Milla Jovovich
『ジャンヌ・ダルクの真実』 (1999年加)
監督:クリスチャン・デュゲイ,主演:リーリー・ソビエスキ(16才)
"Joan of Arc", Christian Duguay, Leelee Sobieski
筆者のお薦めは参考図版2・3・5の写真『ジャンヌ・ダルクの真実』である。 カナダ制作のTVシリーズで、たしか2000年の正月、NHKで2度に分けて放送され ている。
これは、20世紀の最後の年に作られたジャンヌ・ダルク像だった。
クリスチャン・デュゲイ監督は、史実を重視して余分な脚色が少ないので、 ジャンヌを知るには好都合である。
他の映画ではヒロインの年齢が高く、まるで大人の女性ばかりであるが、最年 少のリーリー・ソビエスキはラ・ピュッセルを好演している。
彼女は、ポーランド系アメリカ人で、ニューヨーク出身。フランス語にも堪 能という話だった。
当時の年齢・体格共に最もジャンヌにふさわしい女優であり、少なくともジ ャンヌの実像はこうであってほしいというイメージにぴたりあてはまる。
この映画『ジャンヌ・ダルクの真実』について欠点をあげるとすれば、使わ れている言語が英語!ということに尽きるだろう。
◆◆【7】次号予告◆◆
ジャンヌ・ダルクを辿る旅も随分と長いものになりました。
フランスの歴史家ミシュレは書いています。
フランス人たちよ、つねに想起しよう。祖国はひとりの女の心から、彼女
のやさしさとその涙から、彼女が我々に流した血から、我々のうちに生ま
れたのだということを。
さて、次号は「オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクを知るための旅」の番外編と して「ジル・ド・レの肖像」を紹介します。
フランス貴族ジル・ド・レ(1404-40)は、ジャンヌ・ダルクのオルレアン 解放に指揮官として参加しており、元帥まで昇りつめた英雄です。武将ジャン ヌに献身的に仕えましたが、彼女の悲惨な刑死後は未曾有の殺人鬼に変貌しま す。
そして数百の未成年者を殺害したのちに逮捕され、36才で処刑されました。 のちに彼は童話『青髭公の城』や『ドラキュラ譚』のモデルとされています。
次回「ジル・ド・レの肖像」を何卒ご購読のほどよろしくお願いたします。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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