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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0018
2011年01月10日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 「ジル・ド・レの肖像画」(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)
【2】 肖像画データファイル
【3】 青ひげ伝説について
【4】 ジル・ド・レについて
【5】 作者エロワ・フィルマン・フェロンについて
【6】 肖像画について
【7】 次号予告
【8】 編集後記
◆◆【1】「ジル・ド・レの肖像画」◆◆
さて今回は「ジャンヌ・ダルクを知るための旅」番外編です。
フランス貴族ジル・ド・レ(1404-40)は、ジャンヌ・ダルクのオルレアン 解放戦に指揮官として参加しており、元帥まで昇りつめた英雄です。武将ジャ ンヌに献身的に仕えましたが、彼女の悲惨な刑死後は未曾有の殺人鬼に変貌し ます。
そして数百の未成年者を殺害したのちに逮捕され、36才で処刑されました。 童話『青ひげ』のモデルとも言われています。
★「ジル・ド・レの画像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p18.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: ジル・ド・レの肖像画
作者名: エロワ・フィルマン・フェロン
材 質: 油彩(キャンバス)
寸 法: データなし(等身大。縦横2メートル前後あろう。)
制作年: 1835年
所在地: ヴェルサイユ宮殿美術館(フランス)
注文者: 国王ルイ・フィリップ
意 味: 7月王政の国王ルイ・フィリップの注文により、ヴェルサイユ宮殿内 の、歴史上の偉人を顕彰する『フランス王国元帥のギャラリー』に展示するた めに制作された。ジル・ド・レの死からおよそ400年後の肖像画である。
16世紀のモノクロ作品が元になっている。彼が生きていた時代の肖像画は一 切残っていない。
◆◆【3】青ひげ伝説について◆◆
ジル・ド・レはその生涯でひとりの女性も殺害していないにもかかわらず、 なぜか妻殺しで有名な「青ひげ」伝説のモデルとされている。
1.[青ひげ」伝説を初めて活字にしたのは、17世紀フランスの作家、シャ ルル・ペロー(1628-1702)である。ルイ14世の宰相コルベールに仕えた宮廷 人でペロー童話(1697年発表)として知られる11篇の中に「青ひげ」はある。
青ひげをたくわえた大富豪に嫁いだ新妻は、旅立つ夫に城の鍵を渡された。 「奥の小部屋だけは開けるな」という言いつけを破ってしまった妻は、血の海 に並んだ女の死体を目の当たりにする。
旅立ったはずの青ひげはその晩のうちに戻り、言いつけにそむいた妻を殺そ うとする。
祈りの間だけの猶予をもらった妻は、姉のアンに武人である兄たちを呼んで もらう。間一髪間に合った兄たちに青ひげは斬り殺された。
そして青ひげの財産は兄弟姉妹で分け合った・・・というハッピーエンドで終 わるこの童話は、貴族の子女向けに書かれている。
2.19世紀ドイツの学者ヤコブ・グリム(1785-1863)、ヴィルヘルム・グ リム(1786-1859)の兄弟は、国内で採集した155篇の童話を発表した。
その第1版に掲載された「青ひげ」は、ペロー版と比べて大きく異なるもの ではない。
しかしその残虐性のためか、あるいはペロー版との酷似に気づいてのことだ ろうか、第2版以後は削除されており、現在でも『グリム童話第1版』と特記 された書籍の中でしか見られない。
ペロー版もグリム版も、青ひげは初めから女性を殺害する目的で妻に娶り、 鍵を渡している。一方、読者は扉を開けずにはいられない妻の立場になるため に、好奇心を試されている気持ちになる。
3.フランス北西部のヴァンデ県には青ひげ伝説が今も語り継がれている。
実際にジル・ド・レ元帥の居城だった場所には、「ジル・ド・レ」ではなく 「青ひげ」が住んでいたのだと、土地の人々は言う。
童話では犠牲者の人数が示されていないが、この伝説の中では、青ひげの犠 牲となった女性は6人であり、7人目の花嫁が主人公となっている。
新妻が言いつけを破ったとき、青ひげは花嫁衣裳を死装束として着せた上で 殺そうとする。また、新妻は助けを求めるために、犬を兄たちのもとへ向かわ せるなどの違いがある。
4.ベルギーのノーベル賞作家モーリス・メーテルリンク(1862-1949)は 「アリアーヌと青ひげ(無用なる解放)」という作品を発表した。
これをもとに、フランスの作曲家ポール・デュカ(1865-1935)が、7年か かってオペラ「アリアーヌと青ひげ」を完成させた。初演は1907年である。
舞台では、農民たちが、「5人の妻を殺した青ひげを殺せ」と叫んでいる。
青ひげの新妻アリアーヌは、夫にもらった7つの鍵のうち、禁じられた金の 鍵を使って暗い地下室に降りた。
しかし、5人の前妻たちは殺されてはいなかった。青ひげに長いこと幽閉さ れ逃げる気力もなくし、おびえながら生きていたのだ。
アリアーヌは5人を解放したが、大広間の外では、青ひげとその兵隊が、農 民たちと戦っていた。
そして戦いに敗れ、満身創痍となって城にかつぎ込まれた青ひげ。
ところが5人の妻たちは青ひげを介抱し始める。アリアーヌは、青ひげに別 れを告げ城を出るが、5人は誰一人として青ひげから離れようとはしない。
5.ハンガリーの作家ベラ・バラージュ(1884-1949)が1910年に書いたシ ナリオをもとに、同じくハンガリーの作曲家ベラ・バルトーク(1881-1945) が1917年にオペラ「青ひげ公の城」を完成した。初演は1918年である。
青ひげ公と共に城に到着した新妻ユディットは、愛する夫にまつわる不吉な 噂を確かめようと決心していた。夫を説き伏せ一緒に扉から扉を巡る新妻。
第1の扉の向こうは、血塗られた拷問部屋
第2の扉の向こうは、血に染まった武器庫
第3の扉の向こうは、血のついた宝物庫
第4の扉の向こうは、血に染まった美しい花園
第5の扉の向こうは、血色をした雲の下の広大な領地
第6の扉の向こうは、乳白色の涙の池 そして
第7の扉の向こうには、予想に反して、美しい3人の前妻が立っていた。
青ひげは言う。
1番目の妻を見つけたのは夜明け
2番目の妻を見つけたのは昼
3番目の妻を見つけたのは夕暮れ
そして最後にユディトに向かって、
4番目の妻を見つけたのは夜
悲痛な叫びもむなしく王冠をかぶせられたユディットは、4人目の収集品と されてしまう。
6.最後は、寺山修司(1931-1983)の戯曲「青ひげ公の城」である。
寺山はバルトークのオペラを下敷きとした劇中劇を設定しているが、ここで はもはや青ひげ公は登場しない。
主人公は青ひげ公の7人目の妻ユディットを演じることになった少女である。 「青ひげ公はどこにいるんでしょう」彼女は舞台裏をさ迷い歩く。
実は彼女は行方不明になった兄をさがすために監督を尋ねてきたのである。
いきなり舞台は展開し、少女は順ぐりに6人の妻の舞台に遭遇する。
青ひげ公はいつまでたっても登場しない。ときおり、青ひげ公の衣装を吊り 下げた衣装係が、忙しそうに舞台を横断する。
舞台の進行につれ、少女の行方不明の兄は、第2の妻の役者に舞台上で殺さ れたことが明らかになる。
衣装係
「○○さんはその男に殺されたんだよ。さんざんベッドで弄ばれて。」 「あんたの兄さんは、劇の最中に殺されて……本物の死体になった。」
第2の妻
「劇の中と外では『ほんと』の意味がさかさまになるのです。」
「ユディット、おまえの兄さんは劇の中で死にそこねた。いいえ、死を生き ることができなかった。それだけの話です。」
「死人に役者はつとまらない……あたしは莫迦正直な男が大嫌いなんだ。 いい死体の役者は百ぺん死ねる役者のことだ。だった一度だけじゃ、演技とい えない」
「たいせつな台本を、人生で汚さないでちょうだい。」
寺山修司の戯曲はレトリックの宝庫である。
1979年の初演で、第2の妻を演じたのはピーターである。2003年の舞台では 篠井英介が演じている。
同性愛者による少年殺し。
青ひげと題する作品群の中で、初めてここに歴史上の人物としてのジル・ド ・レが登場した。
◆◆【4】ジル・ド・レ(1404-1440) について ◆◆
1.生い立ち
ジル・ド・レは1404年、フランス北西部ブルターニュ地方の名門貴族のギ・ ド・モンモランシー・ラヴァル2世(-1415)と、アンジュー公爵家の最大の豪 族ジャン・ド・クラン(-1432)の娘で、ブルターニュの有力豪族レ家の相続 人であるマリー・ド・クラン(1387-1415)の間に生まれた。
両親は息子ジルに英才教育を施すが、1415年初めに母マリーが病死し、同年 9月には父のギが猪狩りで事故死してしまう。さらに、1ヵ月後、祖父ジャン・ ド・クランの跡継ぎアモリイがアザンクールの戦いで命を落とす。
この一連の不幸な出来事によって、11才になろうとするジルの教育は打ち切 られた。そして、祖父ジャンの完全な放任主義と、ブルターニュからアンジュ ー地方にまたがる広大な領地の相続人たる、有り余る富の下に育つのである。
祖父ジャン・ド・クランは、粗暴な領主であり、1420年レ家の所領に隣接す る広大な領地を有するトアル家の娘カトリーヌを、16才になっていたジルの結 婚相手に決めると、娘を掠奪し、強引に床入れさせた。
さらにトアル家の武将を買収し、カトリーヌの実母を拉致。脅迫と暴行の果 てにトアル家所有のチフォージュ城とプゾージュ城を奪い取った。
同年ジャンは妻が死ぬとカトリーヌ・ド・トアルの祖母にあたる、豪族シエ 家のアンヌ・ド・シエと再婚した。こうしてシエ家の所領の一部も自らの領地 に加えていく。
1424年、20才となったジルは自己の財産の管理権を得る。そしてこれ以後、 祖父に相談することなく、勝手気ままに浪費を始めるのである。
2.オルレアンへの道
フランスは百年戦争において、侵略者であるイギリス軍に連戦連敗、国内で は王家(アルマニャック派)とブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国が反目し あうという絶望的な状況下に、救国の礎ともいうべき女性があった。
スペイン・アラゴン家から嫁いだことからその名をヨランド・ダラゴン(1381 -1442)という、アンジュー公ルイ2世(1377-1417)の后妃である。
ヨランドは娘マリ・ダンシュー(1404-63)が王太子シャルル(1403-61)の妻 であることから、夫ルイ2世の死後は長男のアンジュー公ルイ3世(1403-34) と共に王家の側近にあった。
彼女はブルゴーニュ公やブルターニュ公が王家と手を結ぶ以外に、対英戦争 を好転させる道はないと認識していた。
そこで王太子シャルルに進言して、ブルターニュ公ジャン5世の(1393-1458) の実弟アルチュール・ド・リシュモン(1393-1458)をフランス王国軍最高司令 官として登用させた。1425年のことである。
アザンクールの戦いの後、長くイギリスに捕らわれていたリッシュモン伯は 敵情に通じており、またその妻マルグリットは、ブルゴーニュ公フィリップ 3世の妹であるために、ブルゴーニュ派にも手づるがあった。
同年、王家とブルターニュ公国の同盟が成立し、アンジュー公ルイ3世とブ ルターニュ公の長女イザベル・ド・ソミュールの婚約が結ばれた。
このとき、アンジュー公の臣下にある祖父ジャン・ド・クランの側近として レ家の当主である21才のジル・ド・レも折衝役に加わった。
リッシュモン伯と相前後して、ジル・ド・レと王国の運命に影響を与える政 治家ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ(1383-1446)が宮廷に現れる。彼は以 前ブルゴーニュ公に仕えたことがあり、今も血縁者が公の顧問を勤めていた。
ラ・トレモイユは、リッシュモン伯が王太子シャルルの腐敗しきった寵臣た ちを排除すると、自分が王太子に取り入って、今度はリッシュモン伯を宮廷か ら追放し、権力を掌握してしまう。
この予定外の事態にヨランドは、ラ・トレモイユの親戚でもあるジャン・ド ・クランをアンジュー家の副司令官に据え、アランソン公ジャン2世と並ぶ王 国軍の中核とした。
老齢のジャン・ド・クランに代わって実際の戦闘の指揮に当たるのはジル・ ド・レである。ジャンは、配下のマルテイニエ侯ギイヨーム・ド・ラ・ジュメ リエールという豊富な軍事知識の持ち主を孫の指導役につけた。
潤沢な軍資金を有するジルは精強な軍隊を組織し、多数の秘密工作員をかか える有能な武将になっていた。
彼は親戚ラ・トレモイユにも引き合わされた。ラ・トレモイユはジルの資質 を見抜くと、臣従の誓いを立てさせ、腹心の部下として迎えるのである。
ジルの資質。
それは、良心など持ち合わせていないのは祖父と同様だが、戦闘においては 前へ前へと身を投げ出して、熱情の赴くまま暴虐の限りを尽くし、自分の利害 など忘れてしまう、策略・計算とは無縁の人間なのである。
老練な政治家であるラ・トレモイユにとっては誠に扱いやすい恰好の人物で あった。
ラ・トレモイユが王太子シャルルの寵臣となり権力を握ると、たちまち王家 は財政難に陥った。そんな折の1428年10月、イギリス軍がフランス王国の要・ 中部のオルレアンを包囲するという大事件が起こる。
浮き足立った王太子は早くも亡命を準備し始める。
1429年2月フランス東部のロレーヌ地方に、ラ・ピュセルと呼ばれる少女が 現れた。彼女は自ら神の使いを名乗り、王太子との面会を求めるのである。
ヨランド・ダラゴンはロレーヌ公シャルル2世とは親密な間柄だった。彼女 の次男ルネ・ダンジューはシャルル2世の娘を娶ってロレーヌを相続すること になっていたためである。
このロレーヌ公やルネからの詳細な報告を受けて、使えるという確信を得た ヨランドは、少女を王太子のいるシノンに出頭させた。
これ以後ジャンヌ・ダルクの快進撃が始まる。
3.栄光
王国軍の中核となったジル・ド・レの部隊はラ・トレモイユの命により、ジ ャンヌの監視役として4月から5月にかけてオルレアンに赴いた。
ところが、戦場でのジャンヌの打算のない、純粋無垢な姿勢に早くも感化さ れたジル・ド・レは、レ・トゥーレル城塞への攻撃において、後世語り継がれ るほどの勇猛な戦いぶりを見せていた。
彼女はわずか10日という短期間でオルレアンを解放する。
ジャンヌ・ダルクの猛将ジル・ド・レに対する信頼は厚く、半年ほど行動を 共にする中で、ここぞという戦のときにはジルを傍らに置きたがったという。
ジャンヌの次の目標は敵地にあるランスで王太子シャルルに戴冠させること である。その進路にあたるジャルジョーでは追放中のリッシュモン伯がブルト ン軍団の精鋭を引き連れて、アランソン公軍を主力とする王国軍に合流した。
マン、ボージャンシー、パテの会戦と転戦する軍の中で、並ぶものなき名将 リッシュモン伯とジャンヌ・ダルクとの間には強い連帯感が生まれていった。
しかし、武闘派の台頭が権力の失墜に直結すると考えるラ・トレモイユは、 またもや王太子シャルルを懐柔し、リッシュモン伯を弾劾。王命でやむなくリ ッシュモン伯は居館に引き上げることになる。
彼は王国最高司令官でありながら、ランスでの戴冠式に出席することも許さ れなかった。そして戴冠式で国王となったシャルル7世により、並み居る武将 の中で最高の栄誉が与えられたのは、意外にもジル・ド・レだった。
オルレアンやパテでのめざましい軍功があるとはいえ、一部隊を指揮したに すぎない弱冠24才のジルが王国陸軍元帥に任命されたのである。これはラ・ト レモイユの画策によるものだった。
アランソン公とジャンヌの次の目標はイギリス軍と結んだブルゴーニュ派の 占拠するパリである。しかし、王国の軍資金はもはや底を尽き始めていた。
宮廷にあってブルゴーニュ派と太いパイプを持つラ・トレモイユは、戦争で はなく交渉によってパリを開城させることが最良と考えており、それによって 実務派官僚の立場が強固になるはずだった。
彼の引き伸ばし工作によってパリ攻撃は遅れに遅れて9月8日となる。ジル・ ド・レも加わり、アランソン公とジャンヌが最前線に立った総攻撃だったが、 国王によって、翌日には早くも撤退命令が出されてしまう。
9月21日王国軍は解散。これらはラ・トレモイユの計略である。こうして主 戦派の武将はすべて遠ざけられ、ブルゴーニュ派との休戦協定が発効された。
翌1430年5月、協定を破ってブルゴーニュ軍が動く。そして前年の戦いで奪 還されたコンピエーニュへの攻撃が開始された。ジャンヌは無謀にも200名と 少ない手勢で救出に向かい、捕虜となる。
ジャンヌの捕縛は宮廷を震撼させたが、フランス側から身代金は支払われな かった。ラ・トレモイユは無論のこと、シャルル7世も用済みとして一顧だに しなかった。
ジャンヌはイギリス軍に売られ1430年12月からはルーアン城に幽閉された。
ルーアンから遠くないノルマンディーではアランソン公軍を主力とする王国 軍がイギリスに対して攻勢に転じつつあった。ジル・ド・レも最前線にいた。
ジルやラ・イールらオルレアンの戦友たちは、ルーアン近郊において散発的 に救出作戦を試みたが、堅固な防衛を破ることはできず、見殺しとなったジャ ンヌはイギリスを陥れる魔女として1431年5月に処刑された。
フランス王国はこの時期、かねてからイギリス寄りだったブルターニュ公国 との関係が悪化しつつあった。ラ・トレモイユはその調停にジャン・ド・クラ ンを当たらせる。これに孫のジル・ド・レも加わった。
ジャン・ド・クランの居城シャントセ城には、ブルターニュ側からリッシュ モン伯、宮廷側からはラ・トレモイユ、彼と反目していたアンジュー家のヨラ ンド・ダラゴンの三者が集まり、和平協定が結ばれた。
1432年になると、再びフランス王国とブルターニュ公国の間に同盟が結ばれ ブルゴーニュ公国との間にも長期間に渡る停戦協定が結ばれた。
ヨランド・ダラゴンはこの機会に再度シャルル7世を説得してリッシュモン 伯を王国軍に復帰させた。伯の妻はブルゴーニュ公の妹であるため、ブルゴー ニュ公及びブルターニュ公とフランス国王の関係はより強固なものとなった。
リッシュモン伯の指揮下、フランス軍はイギリスに対して総攻撃を開始。パ リにほど近い軍事拠点ラニ・シュル・マルヌの戦いでイギリスを駆逐した。ジ ル・ド・レはこの戦闘でもめざましい武功をあげ、名声を確立する。
一方で、リッシュモン伯の復帰は、ラ・トレモイユの権力のかげりを意味し ていた。彼は陰で傭兵隊を操って、リッシュモン伯のブルトン軍団を敗戦に追 い込もうと企てる。
しかし、このような露骨な妨害工作が明らかになると、貴族たちはもはや黙 っていなかった。
1433年6月ラ・トレモイユの暗殺が計画され、彼は失脚する。国王シャルル は黙認した。これにより国王の寵愛は義弟のメーヌ伯シャルル・ダンジュー (1414-72)に移り、その母ヨランド・ダラゴンが宮廷の主導権を握った。
その結果、ヨランドとシャルル・ダンジューの敬愛するリッシュモン伯の立 場は磐石となり、対英戦争の歯車は完全な勝利へと回り始める。
4.その犯罪と死
遡って1432年11月、ジル・ド・レの祖父ジャン・ド・クランが死去した。こ のため祖父の管理していた領地はすべて28才のジルのものとなり、もはや一族 に彼の行動を制限する人物はいなくなった。
この頃から、彼の領地マシュクール、シャントセ、チフォージュ、プゾージ ュ、ポルトニック、サン・テチエンヌ・ド・メルモルトでは少年の失踪が相次 ぐことになる。
作家ジョルジュ・バタイユは『ジル・ド・レ論』の中でジルの少年殺害を祖 父の死の年から始まったとしている。筆者もジャンヌの不条理な死(1431年) によって宗教に絶望したことが彼を悪魔のような所業に走らせたと考えた。
しかし、そのような甘い筋書きではなかった。おそらく彼はジャンヌに出会 う3年前、22才の頃から少年殺害を手がけている。
ジルの男色とサディズム行為によって血を見ることの快感は、戦場において は偶然、満たされるものだったが、それへの嗜好は、長い孤独と贅沢三昧の暮 らしの内に既に必然のものとなっていた。
そしてジルのもう一つの欲望が壮大なる自己顕示欲だった。
幼い頃から彼に金銭感覚や善悪の判断をしつける家族はいなかったのだから この欲望は途方もない消費を生んだ。
建築装飾、骨董・美術品、衣装、美食、饗宴、観劇。戦場においては自軍を きらびやかに飾り立てる。自前の合唱隊や聖職者を持ち、礼拝堂を建立する。 これらを市価の2~3倍の値段や高給で手に入れた。
初めてブレゾン城を売却したときに祖父は激怒したものだったが、もはや誰 も彼を制する者はなく、濫費と引き換えに、城・財産の売却は加速していく。
オルレアン市では、現在にいたるまで毎年ジャンヌ・ダルク祭が開かれてい るのだが、ジルの参加した1435年5月のジャンヌ・ダルク祭は前代未聞だった。
彼は、自分の負担で何種類もの演劇を上演させ、その度新しい衣裳を調達さ せた。オルレアン包囲戦の秘蹟劇は500人の役者を要した。もちろん英雄ジル ・ド・レ元帥も、ジャンヌ役の女装した少年とともに出演した。
その結果、オルレアン滞在の費用は1959年の金で計算すると10億フラン (700億円ぐらいだろうか)にのぼったという。この滞在をきっかけにジル・ ド・レの財産状態は著しく悪化した。
ジョルジュ・バタイユの言葉を借りれば、この大貴族にしてフランス王国元 帥は、子供の精神のまま成長した「ただのうすのろ」だったのである。
7月にはジル・ド・レの弟のルネ・ド・ラ・シュズと一族のアンドレ・ド・ ラヴァル・ロエアクがシャルル7世に訴え、彼を禁治産とする公書を得た。王 国内では何者もジルと契約することはできないという公布である。
しかし、ブルターニュ公国内の城・財産はまだ彼の自由になった。
この少なくなった財産を増やすため、今度は錬金術(安い金属を純金に変え る)と降魔術(悪魔に望みを実現してもらう)にのめり込んだ。そして錬金術 師や降魔術師を名乗るペテン師たちにあくことなくだまされ続けるのである。
狂宴と少年殺害のとりことなったジルには戦場で汗を流すことがうとましく なっていた。宮廷に居場所がなくなっていたことも事実である。
この後、リッシュモン伯の軍に加わったり、宮廷復帰を画策するラ・トレモ イユの要請に応えることがあったあったとしても、彼の興味は、騎馬戦士軍団 を飾り立て注目されることにしか向かなかった。
そして直接の軍事行動は弟のルネにゆだねられた。
1435年9月、フランス王国とブルゴーニュ公国との和平交渉が実り、アラス で和約が結ばれた頃、ジル・ド・レは所領に引き籠っていた。有能な軍事顧問 だったギョーム・ド・ラ・ジュメリエールが去ったのもこの頃であった。
1437年ジルが売却してしまうことを怖れた弟のルネと一族のアンドレ・ド・ ラヴァル・ロエアクはシャントセ城を、続いてマシュクール城を占拠する。こ のとき城内で少年の骸骨2体が発見され、不吉な噂が広まり始める。
1439年11月、リッシュモン伯は国王シャルル7世の下、強力なる王国常備軍 を創設した。封建諸侯の寄せ集め軍隊からの近代化を図ったのである。
これに対して、翌1440年、王太子ルイと、ジャンヌ・ダルクのかつての同僚 たち、アランソン公、ジャン・デュノワ、ラ・イール、さらにはブルボン公、 アルマニャック伯、ラ・トレモイユらが反乱を起こした。
プラグリーの乱と呼ばれるこの反乱は、一時は優勢だったが、リッシュモン 伯がブルトン軍団を率いて乗り出すと短期間で鎮圧された。ジル・ド・レ元帥 はといえば、もはや忘れられた存在であり、いずれの側にも加わっていない。
ジルは1440年5月、事件を引き起こす。以前彼が売却したヴァンデのサン・ テチエンヌ・ド・メルモルト城を、60名の軍人を率いて武力強奪し、管理者で ある聖職者を監禁したのだ。窮乏と泥酔の果ての愚行というほかない。
ブルターニュ公とナント司教は直ちに動く。そして4ヶ月をかけてジル・ド ・レの所業を徹底的に調べ上げた。ブルターニュ公ジャン5世はジル・ド・レ の広大な所領に以前から目を付けていたのである。
9月15日、ジルは逮捕され、ナントの宗教裁判所で公判が開始された。彼が 問われたのは、第一に少年殺害の罪、第二に異端(降魔術、錬金術)の罪、 第三に聖職者の不可侵性に対する侵犯の罪である。
起訴状では、少年殺害の犠牲者は140人に達しており、過度の飲酒と美食に 生来の男色傾向が刺激されたことが殺害原因であると指摘された。
しかしこの数字はブルターニュ公国内で判明した件数でありこれに見落とさ れた死者と王国内の犠牲者を合わせると、4~500名に上ることが想像される。
逃れられないことを悟ったジル・ド・レは、10月22日の大審問において、深 い悔悟の情を示した。次いで、彼らしい長大かつ詳細な告白を行った。
具体的な殺戮方法が詳らかにされると、傍聴人席から叫び声が上がり、卒倒 した女性が運び出された。聖職者は青ざめキリスト像には覆いがかけられた。
翌日、死刑が確定。ジル・ド・レが待ち焦がれた悪魔は決して現れず、彼は 10月26日に処刑された。ジャンヌ・ダルクと同じ火刑ではあったが、貴人であ るため、絞首刑後に短時間火にさらすだけという配慮がなされた。
かくして、ジル・ド・レの所領は没収され、ブルターニュ公のかねてからの 希望通り、公領に併合された。
5.その後のレ家と王国
未亡人となったカトリーヌ・ド・トアール(-1462)は、ジャン・ド・ヴァ ンドーム2世(-1477)という貴族と再婚しジャン3世をもうけている。ジルと の間にはマリ・ド・レ(1429-57)という娘があった。
マリはレ家を相続し、1444年プリジャン・ド・コワチヴィ(1399-1450)と 結婚した。二人の間に子はなく、マリは夫の死の翌年に、一族のアンドレ・ド ・ラヴァル・ロエアクと再婚する。
アンドレとの間にも子を得ないまま、マリ・ド・レは死去。レ家はジルの弟 ルネ・ド・ラ・シュズに相続された。ルネの夫人アンヌ・ド・シャンパーニュ との間にはジャンヌ・ド・レ(-1481)という娘があった。
ジャンヌはフランソワ・ド・ショービニー(-1491)と結婚し、息子アンド レ・ド・ショービニー3世(-1503)をもうけたが、成長した息子には跡継ぎが なく、レ家はこのあたりで途絶えたらしい。
フランス王国はリッシュモン伯の下、1450年にフォルミニーの戦いでイギリ ス軍に完勝。次いで1453年のカスティヨンの戦いに勝利。
この結果、ドーバー海峡沿岸のカレーのみを残して、フランス本土からイギ リス軍を撤退させ、百年戦争は終結した。
ジャンヌ・ダルクの亡き後、フランスに勝利をもたらした救国の英雄リッシ ュモン伯は、晩年アルチュール3世としてブルターニュ公を相続し、1458年に 死去した。
その後、フランス王国はブルゴーニュ公国を1482年、ブルターニュ公国を 1532年に併合。イギリスからカレーを奪還するのは1558年であった。
◆◆【5】作者エロワ・フェロン(1802-1876)について◆◆
エロワ・フィルマン・フェロンは、1802年12月1日パリに生まれ、1876年に イヴリーヌ県コンフロンで死去したフランス新古典主義の画家である。
パリのエコール・デ・ボザールの学生だったフェロンは、ナポレノン・ボナ パルト(1769-1821)のお気に入りだった画家のアントワーヌ=ジャン・グロ (1771-1835)に学んだ。
グロは、古典派を統率しながらもロマンチックな資質を持ち、ナポレオンの 戦争画制作を手がけながら、ロマン派の先駆となった画家だった。
師の薫陶を受けたフェロンは、美校時代の1826年「ダモンとピュティアス (ギリシャ神話の登場人物で、無二の親友を表す)」という作品によってロー マ賞を獲得している。
力強い技巧派であるだけでなく厳格なデッサン家でもあった彼の構図はスケ ールの大きなものであるが、初期の作品においては、色彩が現実からやや遊離 している。これは、師であるグロのロマン派的傾向の影響かもしれない。
「アルプスを越えるハンニバル」(1833年)、あるいは「ラザロの復活」 (1835年)などの作品では評価を得られなかった。
しかし、1830年の7月革命で国王になったルイ・フィリップやその子息たちに 作風が好まれ、ヴェルサイユ宮殿の歴史ギャラリーに多くの作品を残すことに なった。
その中には、
「シャルル8世(1470-1498)のナポリ入城」(1837年)、
「聖セバスチャンの殉教」(1832年)、
「海軍大将オルレアン公ルイ・フィリップのパリ市庁舎到着」(1837年)
などの大作がある。
同様に国王家の依頼を受けて、歴史上の人物の肖像画も数多く制作しており ヴェルサイユ宮殿内の「フランス王国元帥のギャラリー」に収められている。
中でも興味深いのは、今回の掲載作品「ジル・ド・ラヴァル、レ閣下、ジャ ンヌ・ダルクの同士、フランス王国元帥の肖像」(1835年)を始めとして、ジ ル・ド・レ関連の人物を描いていることである。 「王軍最高司令官ベルトラン・デュ・ゲクランの肖像」 ベルトラン(1320- 80)は、ジルの父ギ・ド・レ(ギ・ド・モンモランシー・ラヴァル2世)の義 母の兄にあたる。
「アンドレ・モンフォール・ド・ラヴァル、ロエアク領主、フランス海軍大 将の肖像」 アンドレ(1411-86)は、名門貴族ラヴァル本家の次男である。
ジル・ド・レのモンモランシー・ラヴァル家は3代前で枝分かれしたが同族 である。アンドレはジルの処刑後、娘のマリ・ド・レの二番目の夫となった。
その他の作品には
「ノアイユ公アドリアン・モーリス元帥(1678-1766)の肖像」
「モンゴメリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ元帥(1530-74)の肖像」
などがある。
◆◆【6】肖像画について◆◆
死後400年になろうとする1835年に描かれた本作品は、戦地における20代の ジル・ド・レ元帥の全身像を再現した記念写真的な形式をとっている。
背景には、川にかかる橋、足元には、石積みが見える。
24歳のジル・ド・レが武将としての名を高めた、1429年のオルレアンの城砦 の攻防戦、あるいは1432年のラニ・シュル・マルヌの合戦を背景に置きたいと ころである。しかしこのいずれかの舞台であるのかどうかは不明である。
この背景にかかる橋と鉄兜、そしてジル・ド・レの頭部の3点が安定した三 角構図を形作っている。
絵を見たとき、最初に私たちの目に映るのはジル・ド・レの容貌である。2 番目に目が行くのは、頭部と同じ色と形を持つ、橋のアーチの黒い陰影、或い は鉄兜であろう。
この左側に置かれた鉄兜から見ていきたい。
西洋の甲冑(甲は鎧、冑は兜を指す)はこの時代(15世紀)に頭からつま先 まで全身を覆う鋼鉄製のものに進化した。
ジルの兜には、上げ下げすることが可能な顔隠しが取付けられている。
この頭部は下部ののど当てによってささえられ彫刻の胸像のように一体とな っている。その色彩は黒と金の縦縞に塗り分けられ、虎をイメージさせる。
兜の脇には籠手の片方が置かれている。素手の右手が杖にしているのは両刃 のまさかりである。
腕を包む腕甲にも金の装飾が施されている。腕甲の中央部は屈伸できるよう 繰り抜かれ、間に下着である鎖帷子(くさりかたびら)がのぞいている。
両の肩は肩当てに覆われ、中央にジルの不敵な面構えがのっている。
おかっぱの髪もひげも黒い。引き締まった眉と黒い瞳、鼻筋の通った好男子 である。黒い鼻ひげとあごひげが若さに威厳を加えている。
肩当ての突出部は、剣の一撃が直接首に及ぶのを防ぐものだろうか。
右胸には、槍もたせが描かれている。張り出した胴当ての下には、腰当てが 腿までガードしている。股下は、鎖帷子にカバーされている。
腿当て、膝当て、脛当てで両脚は守られ、甲靴のかかとには馬の腹を蹴る拍 車が付いている。
腰には剣を佩(は)き、全身黒と金で包まれ、実にさっそうとした武将姿で ある。
これは16世紀のモノクロ画を元に、モデルに同様の衣装を着せて描いたもの である。また、この豪華な甲冑には、王家の協力があったものと推察される。
画面は、保護ニスの黄変のためやや黄ばんでいるが、これを除去すれば、生 気ある色彩豊かな青年貴族の姿が現れるはずである。
武具の質感を的確に描き出し、そこはかとなく漂う精神の弱さ、虚栄心まで も感じさせる画家の技量は認めざるを得ない。ただし、この肖像画はどこか単 調であり深みがないため、鑑賞者はいつまでも見続けさせることができない。
画家フェロンは当時のフランス画壇の主流メンバーだったとしても、歴史に 名を残したとは言い難く、その理由はこのあたりにあるのだろう。
〈参考文献〉
「《青髭》ジル・ド・レの生涯」清水正晴著(現代書館)1996年
「ジル・ド・レ論」ジョルジュ・バタイユ著 伊東守男訳(二見書房)1969年
「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ著(講談社)2001年
「ブリタニカ国際大百科事典」
「完訳 ペロー童話集」新倉朝子訳(岩波文庫)1982年
「初版グリム童話集」吉原高志・吉原素子訳(白水社)1998年
「青ひげ公の城」寺山修司著(新書館)
◆◆【7】次号予告◆◆
ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レは神と悪魔を語る上では、一対です。
その死によって神が存在しないことを証明したのがジャンヌ・ダルクならば その死によって悪魔が存在しないことを証明したのがジル・ド・レでした。
今回は「ジル・ド・レの肖像」にまつわる、青ひげ伝説も併せて取り上げてみ ました。
私がこの物語に初めて触れたのは、渡仏することになる2003年のこと、JR の車内で山崎美貴という女優と隣り合わせ、「青ひげ公の城」という演劇のチ ラシをいただいたことがきっかけでした。
彼女は青ひげ公の第3夫人を演じるとのことでしたので、公演を見に行きま したが、舞台には、いつまでたっても「青ひげ公」が登場しないものですから 青ひげとは何?という疑問が生じ、調べてみる気になりました。
この年の暮れでしたかNHKの「芸術劇場」でこの舞台が放映されました。
さてここで、最初の疑問。
なぜ、ジル・ド・レが「青ひげ童話」に変貌し、「少年殺し」が「妻殺し」に 擦り替わったのでしょうか。
ブルターニュ地方やヴァンデ地方では、人々は昔からあの怖ろしい殺人鬼の 話をするときに、「ジル・ド・レ元帥」の名を用いずに「青ひげ」と呼んでいま した。その犯罪も「少年殺し」から「妻殺し」に変えられています。
ここには意図的な混同があります。
おそらくこれは、ジョルジュ・バタイユが「ジル・ド・レ論」の中で触れて いる通り、子供たちに“ジル・ド・レ元帥の破廉恥な話をしにくかった”とい うのが理由と思われます。
ちなみにジル・ド・レのひげの色は黒ですが、黒い人毛は光の具合で、ときに 青く見えます。
欧米では、少し後の時代に登場するイングランド王のヘンリー8世(1491 -1547)のような妻殺しを、総称して「青ひげ」と呼ぶようです。青は冷たい 色ですから、冷血鬼という感じでしょうか。
死して童話に名を残したジル・ド・レ。今もなお、青ひげ公を怖れる村々が 存在するという事実に興味をそそられます。
次号では、「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像」を紹介します。
うら若い薄幸のイタリア女性を描いた、宝石のような絵画です。画家の名は ドメニコ・ギルランダイオ。ミケランジェロの師として知られる巨匠でした。
この作品は、テンペラ肖像画の傑作です。このテンペラというのは、油絵が 登場する以前に、ヨーロッパで盛んに行われていた技法で、卵黄と顔料を混ぜ て絵具にします。
油絵のような重々しさがなく、薄塗りであっさりしていますが、緻密な表現 には大変向いています。
次回「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像」を何卒ご購読のほどよろしく お願いたします。
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