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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0019
2011年07月31日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像画(ティッセン・ボルネミッサ美術館蔵)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像画」◆◆
うら若い薄幸のイタリア女性を描いた、宝石のような絵画です。画家の名は ドメニコ・ギルランダイオ。ミケランジェロの師として知られる巨匠でした。
この作品は、テンペラ肖像画の傑作です。このテンペラというのは、油絵が 登場する以前に、ヨーロッパで盛んに行われていた技法で、卵黄と顔料を混ぜ て絵具にします。
油絵のような重々しさがなく、薄塗りであっさりしていますが、緻密な表現 には大変向いています。
★「ジョヴァンナ・トルナブオーニの画像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p19.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: ジョヴァンナ・デリ・アルビッツィ・トルナブオーニの肖像画
作者名: ドメニコ・ギルランダイオ
材 質: テンペラ(ポプラ材のパネル)
寸 法: 77×49cm
制作年: 1488年
所在地: ティッセン・ボルネミッサ美術館(スペイン・マドリード)
注文者: ジョヴァン二・トルナブオーニ
意 味: メディチ家全盛のフィレンツェで、1486年、17才のジョヴァンナ・ デリ・アルビッツィと19才のロレンツォ・トルナブオーニの壮麗な結婚式が催 された。
メディチ銀行ローマ支店長のジョヴァンニ・トルナブオーニは、メディチ家 当主マニフィコ・ロレンツォの薦めで、息子の嫁に、デリ・アルビッツィ家の ジョヴァンナを迎えたのである。
この結婚には対立することの多かったメディチ家とデリ・アルビッツィ家の 和解という政治的な意味があった。
しかし、妻フランチェスカ・ピッティを失ったジョヴァンニは、嫁が可愛くて 仕方がなかったようで、画家ギルランダイオにこの見事な肖像画だけでなく、 サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内の壁画「洗礼者聖ヨハネの生涯」にも彼女 を描かせている。
◆◆【3】像主ジョヴァンナ・トルナブオーニ(1468-88)について◆◆
ジョヴァンナは、1468年12月18日、マーゾ・ディ・ルカ・デリ・アルビッツ ィとカテリーナ・ソデリーニの娘としてフィレンツェに生まれた。
デリ・アルビッツィ家は古くからの名家であり、祖父ルカ(1382-1458)は、 メディチ家と同盟を結ぶことによって、財産没収を免れ、後妻にメディチ家の 支流、ニコロ・デ・メディチの娘アウレリアを迎えている。
彼はガレー船の船長としてヨーロッパ中を回遊して富を貯えた。
また父マーゾ(1426-91)はトスカーナ地方の各都市で行政長官や司法長官 大使を務めた高級官僚だった。先妻アルビエラ・デ・メディチ及び後妻カテリ ーナとの間に、一男十一女が生まれ、ジョヴァンナは八女だったらしい。
ジョヴァンナの少女時代を示す資料はないため、名家の子女にふさわしい教 育を受けたであろうことしかわからないけれど、以下の記述はその手がかりに なるかもしれない。
フィレンツェ、サンタ・トリニタ聖堂のサッセッティ礼拝堂には、銀行家フ ランチェスコ・サッセッティが画家ギルランダイオに発注した連作壁画「聖フ ランチェスコの生涯」がある。
この中には、サッセッティの友人の一人として、フィレンツェの有名な市民 マーゾ・デリ・アルビッツィが描かれていると、作家ジョルジョ・ヴァザーリ (1511-74)は記している。
この絵は、聖フランチェスコの奇跡によって、子供が息を吹き返した場面を 再現したもので、画面の左手には、成長した後のジョヴァンナとそっくりの年 配女性に並んで、威厳のある貴族らしい風貌の男性が立ち会っている。
彼らを父マーゾ(50代)と母カテリーナ(30代)であると想定すると、その 前に青いドレスに金のベルトを着け、こちらを向いた金髪の少女が10代前半の ジョヴァンナと考えられる。(参考図版参照)
なぜこの少女だけが正面を向いているのかは不明だが、幼くして画家の胸を 射止めるほどの、利発さと美しさを兼ね備えていたというところだろう。
短いジョヴァンナの生涯の中で最も重要なイベントが、1486年9月に執り行 われたロレンツォ・トルナブオーニ(1465-97)との結婚式だった。
ロレンツォの父ジョヴァンニ・トルナブオーニ(-1490)もまた、フィレン ツェにおける傑出した名家の出で、メディチ銀行ローマ支店長であり、ローマ 教皇シクトゥス4世の出納官、フィレンツェ大使、行政長官などを務めている。
ジョヴァンニは、ピッティ宮殿を建てた豪商ルカ・ピッティ(1398-1472) の娘フランチェスカを娶り、妹ルクレツア(1425-82)を、メディチ家の総帥 コジモ・デ・メディチ(1389-1464)の跡継ぎピエロ・デ・メディチ(1416- 69)に嫁がせることで地位を磐石のものとしている。
ルクレツアは、イル・マニフィコ(豪華王)とあだ名されるロレンツォ・デ ・メディチ(1449-92)とジュリアーノ・デ・メディチ(1453-78)の兄弟を生 んだ。
15世紀後半のフィレンツェは、メディチ家が絶頂期を迎えた時期であり、ジ ョヴァンニ・トルナブオーニの甥にあたるマニフィコ・ロレンツォはフィレン ツェの事実上の統治者となる。
この世紀の前半においては政敵同士であった、名門デリ・アルビッツィ家と トルナブオーニ家を結びつけたのはこのマニフィコ・ロレンツォであり、16才 年下のいとこ、ロレンツォ・トルナブオーニとジョヴァンナ・デリ・アルビッ ツィの婚礼は壮麗なものとなった。
結婚式場となったフィレンツェ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレへ と歩みを進めるジョヴァンナに、100人の良家の少女と15人の青年の行列が連 なり、スペインのバチカン大使の臨席する最高に贅沢な披露宴は3日間続いた。
翌年10月、若いカップルの間に男の子が生まれ、ロレンツォの父の名をとっ てジョヴァンニと名づけられた。
翌1488年、二人目の子供を身ごもったジョヴァンナは、義父ジョヴァンニの たっての頼みで、フィレンツェを代表する画家ドメニコ・ギルランダイオの前 でポーズを取った。
こうして彼女は、見事な肖像画の中に永遠の生命を得るのである。
しかしこの年の秋、第二子を産むことなく、ジョヴァンナは天国へと旅立っ てしまう。まもなく20才を迎えるはずだった彼女は、1488年10月7日サンタ・マ リア・ノヴェッラ聖堂に葬られた。
ロレンツォ・トルナブオーニと、11年前同じく出産が原因で妻フランチェス カを失った父ジョヴァンニ・トルナブオーニの嘆きは大きかった。そして、彼 女の死はトルナブオーニ家に暗い影を落とす。
2年後、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のトルナブオーニ家礼拝堂壁画の完 成した年、当主ジョヴァンニ・トルナブオーニが死んだ。その後を若くして寡 夫となった息子のロレンツォが継ぐ。
さらに2年後、メディチ家のマニフィコ・ロレンツォが死んだ。 ヨーロッパ各地に支店を持っていたメディチ銀行も破綻した。
天下のメディチ家を継いだ息子のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ は無能な若者だった。
ピエロは亡き父の側近を遠ざけ、従来の政策をひっくり返したため、外交を 誤り、ミラノ公とフランスのシャルル8世を敵に回してしまう。
フランス軍がいよいよ郊外に現れたときには、シャルルにフィレンツェの領 土を割譲する約束をして、市民の怒りを買い、暴動が起こったため、国外へ逃 亡。メディチ家はフィレンツェ追放処分となった。
この後、ドミニコ会修道士のサボナローラ(1452-98)が登場し、1494年から 98年までフィレンツェは神権政治の時代となる。
彼はメディチ家を否定し、信仰と清貧の生活を説いて市民の圧倒的支持を得 ると、さらに教会の腐敗を弾劾。繁栄を咲き誇ったメディチ家時代とは打って 変わって、質素倹約が励行された。
やがて、火のようなサボナローラの説教は日に日にエスカレート。市民から 書物や家具調度類、美術品を没収し、シニョリーア広場に山積みにすると一気 に火をかけるという愚行を犯す。
1497年6月、メディチ家のフィレンツェ復帰を画策する反サボナローラ派の 一般市民5名が捕えられた。
3年前に自らが作った法律を無視し、サボナローラとフィレンツェ行政長官 のヴァローリは、この5名を即刻斬首刑に処した。
この5名の中に、今は亡きジョヴァンナの最愛の夫だった、あのロレンツォ・ トルナブオーニが含まれていたのである。フィレンツェ市民は悲嘆に暮れた。
サボナローラへの不満・憎悪はいや増し、ついには教皇庁に告発されること となった。6月18日教皇アレッサンドロ6世により破門。翌1498年ヴァローリは 惨殺され、サボナローラも火あぶりとなった。
この後、十余年を経て、メディチ家はフィレンツェに復帰した。
ロレンツォ、享年32、ジョヴァンニ、享年19。
フィレンツェによって祝福されたカップル。ドメニコ・ギルランダイオや、 サンドロ・ボッティチェッリによって壁画に描かれ、ニコロ・フィオレンティ ーノによってメダルに刻まれた二人は、このように若くして逝ってしまった。
二人の遺児・ジョヴァンニは、成長してローマ大使を務めたりした後、1530 年以降まで生き延びた。
また、ロレンツォと後妻の間には、レオナルド(-1540)とジョヴァンナと いう一男一女があり、彼らはトルナブオーニ家の子孫を次代へとつなげた。
◆◆【4】作者ドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)について◆◆
フィレンツェ、シエナ、ピサ、アレッツォ、リボルノの位置するイタリア・ トスカーナ地方は、紀元前8世紀から4世紀にかけてエトルリア文明の栄えた土 地である。
インド・ヨーロッパ語族に属さない独自のエトルリア語を話したエトルリア 人たちは優れた芸術的素質を持っており、建築、青銅器、貴金属、テラコッタ フレスコ壁画などに精巧を極めた独特の作品をのこした。
その後、エトルリアはローマ文明に吸収されたが、芸術的風土は受け継がれ 13世紀にはトスカナ派という絵画の流派も生まれている。その中でもシエナ派 とフィレンツェ派は双璧で、イタリア・ルネサンスのさきがけとなった。
1449年、この地に生まれたドメニコ・ギルランダイオ(本名ドメニコ・ディ ・トンマーゾ・ビゴルディ)は、フィレンツェ派の最も優れたフレスコ画家の 一人であった。
若き日ドメニコは、金銀細工師の父・トンマーゾの元で修行を始めたが、身 が入らずに、出入りする人々の似顔絵ばかり描いていた。結局、アレッソ・バ ルドヴィネッティという画家に弟子入りしそこで絵画とモザイク壁画を学んだ。
後年、画家として名声を得てからも、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工 房に身を置いて、ボッティチェッリやペルジーノ(ラファエロの師)、ダ・ヴ ィンチらと共に研鑽に努めた。
実弟のダヴィッドとベネディトも画家となり、妹と結婚したサン・ジミニャ ーノの画家バスティアーノ・マイナルディと一緒に、ドメニコの助手を務めて いる。
ギルランダイオは20才を過ぎた頃独立し、1470年代初頭、フィレンツェ郊外 の町チェルチーナの教会で最初の仕事をした。聖ヒエロニムス、聖女バルバラ と聖アントニウスがフレスコ壁画の中に描かれている。
(以下年代順に主なフレスコ作品を紹介、地名のないものはフィレンツェ市)
1473年頃 オニサンティ聖堂ヴェスプッチ家礼拝堂「ヴェスプッチ家を守護 する慈悲の聖母」「ピエタ」
1475年頃 聖堂参事会聖堂「聖女フィーナの生涯」(サン・ジミニャーノ)
1479年頃 パッシニャーノ大修道院「最後の晩餐」
1480年 オニサンティ聖堂「書斎のヒエロニムス」「最後の晩餐」
1481年 システィーナ礼拝堂「ペテロとアンデレの召し出し」(バチカン) この中にジョヴァンニ・トルナブオーニとロレンツォ父子が描かれた。
1482年 ヴェッキオ宮 百合の間「ローマの英雄たち」
1485年 サンタ・トリニタ聖堂・サッセッティ礼拝堂「聖フランチェスコの 生涯」 ここにはメディチ家のマニフィコ・ロレンツォを筆頭に、サッセッテ ィ家、デリ・アルビッツィ家の人々が描かれている。
1488年 本作品「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像」
1490年 サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂・トルナブオーニ礼拝堂「聖母マ リアの生涯」「洗礼者聖ヨハネの生涯」 ジョバンニ・トルナブオーニ夫妻、 ロレンツォ、妹ロドヴィカ・トルナブオーニ、ジョヴァンナとその妹アルビエ ラ・デリ・アルビッツィ、ルクレツア・トルナブオーニ・デ・メディチら一族 総出で登場し、ギルランダイオ自らと師匠・アレッソ・バルドヴィネッティ、 弟ダヴィッドや弟子たちも描き込まれている。
仕事好きのドメニコ・ギルランダイオは、金銭上の問題に心を煩わせること を嫌い、ギルランダイオ工房の経営は弟のダヴィッドに任せっきりだった。そ の彼の性格と野心をうかがわせる言葉がヴァザーリによって伝えられている。
「私には仕事をさせてくれ。お前が必要なことをすればいい。今ようやくこ の芸術のやり方がわかり始めたところなのだ。フィレンツェの城壁すべてに物 語を描くような仕事が、得られなかったらとしたら、全く悲しいことだ。」
1494年1月6日、ピサとシエナで大きな仕事に取りかかろうとしていたドメニ コは高熱のために病の床に臥せった。そしてそのまま、5日目の朝に亡くなっ た。病名は黒死病として恐れられたペストであった。
その突然の死はフィレンツェ中の人々から惜しまれた。立派な葬儀が営まれ 遺骸はサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に埋葬された。
ギルランダイオは、ミケランジェロ(1475-1564)の師匠としても知られる。
ただし、13才の彼がトルナブオーニ礼拝堂にかかりきりの師の下にいたのは 一年弱であり、すぐにマニフィコ・ロレンツォの創設した彫刻アカデミーに移 っていった。
そのため絵画の修行は十分とはいえず、後年とんでもないフレスコ画の大作 を手がけたことを除けば、師の影響も大きくはない。
類いまれな肖像画家だったギルランダイオに比べ、ミケランジェロの写実性 はそれ程強くない。
後年彼が、サン・ロレンツォ教会に、マニフィコ・ロレンツォの息子ジュリ アーノの墓碑彫刻を造ったときのことである。
作品を見た人から、ジュリアーノに全く似ていないことを指摘されたミケラ ンジェロは「500年もたてば、似ているとか似ていないとか問題にならなくなる のだ」と答えている。
ギルランダイオにしてみれば、不肖の弟子といったところであろう。
◆◆【5】肖像画の内容について ◆◆
本作品は、肖像画を生涯追及し続けたギルランダイオ芸術の集大成といえる 作品である。
彼の傑作を生み出したという自負は、ジョヴァンナの背後の壁に浮かんだ紙 片にラテン語で記された文章の中に表れている。
“ARS UTINAM MORES
ANIMUM QUE EFFINGERE
POSSES PULCHRIOR IN TERRIS
NULLA TABELLA FORET”
文末にやや小さく記された“MCCCCLXXXVIII”は、肖像画のでき上がった年、 1488を示している。
暗い背景と対称的に、全身に光を浴びた、若く美しいジョヴァンナが前面に 浮き出てくる。
彼女は当時の流行だった髪形をしている。当時の女性は、前髪を少し剃るこ とで顔を細長く見せたのだそうだ。
衣裳は大変に贅沢な、金糸銀糸に彩られた錦の織物からできている。お腹の 膨らみから、伝えられるとおり、制作当時、子を宿していることが見て取れる。
彼女の美しいうなじにかかる黒い紐は、胸の真珠とルビーのペンダントを吊 り下げている。後ろの壁龕(へきがん;壁に作られたくぼみ)にも同様の金の 竜の彫刻があるブローチが置かれている。
竜の翼が右上の赤珊瑚(サンゴ)の数珠へと視線を導き、垂直に下がったビ ーズの先は、祈祷書を指し示している。画面に点在するこまごまとしたモチー フが、見る者の視線を静かに誘導し、飽きさせない。
同時にこれらの小物が、モデルの女性の内面の信仰、敬虔さ、洗練、豊かさ といった美徳を象徴する、この時代に典型的な手法が用いられている。
肖像画の構図として奇妙なのは、ジョヴァンナの指先と、肘が不自然に断ち 切られていることである。
また、上下左右が、枠状に暗褐色に塗りつぶされている。
これらは、ギルランダイオの意図したものではない。
ウェブで見つけたこの絵のX線写真を見ると、下枠部分までジョヴァンナの 体が描かれていることが確認できた。現在の絵では肘の下部は切れているが、 これも肘全体が入るように描かれていた。
左枠部分では、やはりジョヴァンナの指先まで描かれていたようである。う っすらと影がそれを示している。
おそらくは、長年部屋に掛けたり、人々の手から手へ渡っていくうちに、何 らかの不測の事態(故障)が生じたため、ずっと後の時代の画家の手により、 塗りつぶされたものと思われる。
しかし、どのような事故が起ころうとも、壊れようとも、真の芸術作品は、 芸術であることをやめないのである。
この作品を前に説明など不要なのかもしれない。
一説によれば、ギルランダイオは、彼をさかのぼる数十年前に、フランドル のファン・アイク兄弟によって確立されたといわれる、油絵技法による作品を 1枚も残さなかった。
彼が好んだ技法は、古くから用いられてきたフレスコ壁画であり、テンペラ 板絵であった。
フレスコ画とテンペラ画は、画面に色材料を定着させる技術としては似てい ないが、絵画表現の深みを出すために、筆の細かいタッチ・細い線を幾層にも 積み重ねて、色面を形成するハッチング描法が求められる点が共通している。
また、どちらとも油絵と大きく異なるのは、ベタ塗り・厚塗りに不向きな点 であり、塗膜の重ねによって深みを得ようとする、空気遠近法(レオナルド・ ダ・ヴィンチの発明といわれる)が困難な点である。
新技法である油絵を手がけなかったこと、これは創作家としては保守的な態 度である。彼は、ライバル・ボッティチェッリに比べ創造的でないと批判され ることも多かった。
同時代の画家・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、ギルランダイオ の3才年下で、万能の天才と謳われた革新者であり、有名な発明家である。
彼はかび臭いテンペラ画や激しい肉体労働(左官作業)を伴うフレスコ画を 忌避したことでも、ちょうどギルランダイオとは対称的な画家だった。
天才を自負する彼は、新技法油絵を駆使し、改良を加え創造的な作品を生み 出した。一方ギルランダイオは、歴史、つまり時間の経過によって証明された 古来からの確かな技法にこだわった。
傑出した画家である彼らを『物作り』として見たとき、その優劣は、500年後 の「ジョヴァンナ」と「モナリザ」を比べれば明らかである。
https://www.shouzou.com/mag/p12.html
「モナリザ」の頬を染めていたピンク色は消し飛び、肌色は油膜によって黄 変して、画面全体もどんよりと暗転してしまっている。
これに対して「ジョヴァンナ」は、たった今描かれたような、お風呂上りの 少女と見間違えるような、みずみずしさをたたえている。
〈参考文献〉
「ドメニコ・ギルランダイオ」エンマ・ミケレッティ著(東京書籍)1994年
『ルネサンス画人伝』ジョルジョ・ヴァザーリ著(白水社)1982年
『続 ルネサンス画人伝』ジョルジョ・ヴァザーリ著(白水社)1995年
「ブリタニカ国際大百科事典」
〈参考サイト〉
https://www.genmarenostrum.com/pagine-lettere/letteraa/degli%20Albizzi/albizzi8.htm
https://www.genmarenostrum.com/pagine-lettere/letterat/TornaBUONI.html https://www.museothyssen.org/en/thyssen/ficha_obra/365
https://casasantapia.com/art/ghirlandaio/giovannatornabuoni.htm https://www.mediterranee-antique.info/Galerie/Leon_X/Leon_09.htm
◆◆【6】次号予告◆◆
ジョヴァンナ・トルナブオーニが生きていた時代。 日本史でいえば、室町後期。応仁の乱の終結したのが1477年。
ジョヴァンナの死んだ翌年、足利義政が銀閣寺を完成。 日野富子、北条早雲、蓮如、雪舟が駆け抜けていった時代。
京都の町衆、御用商人の娘の誰々が、嫁ぎ先で肖像画を描いてもらって、彼 女はこういう人で、お産が原因で亡くなって、夫は誰で、どのようなことをし て、死罪になって、二人の遺児の名は何で、後妻の間にできたの子の名は何で
……ありえないですよね。
けれども、500年前のこうした記録が残っている。これがヨーロッパ文明の 凄さです。
ギルランダイオの工房はモザイク壁画も残しています。
モザイクの材料は、天然石の他に、ちょっと聞きなれない名前ですが、ズマ ルトと呼ばれる人工石を用います。
筆者は学生時代、モザイクの師匠の下で学んだことがあるのですが、師匠の こんな話を思い出します。
「ズマルトは不透明な色ガラスのモザイクだ。透明だと下地のモルタルが透 けてしまい汚くて使えないため、不透明にしている。」
「歴史はビザンチンよりもさかのぼる。」
「西洋には4,500色のズマルトがある。バチカンの引き出しには 45,000色あるのだ。……これが西洋の恐ろしさだ。」
次号では、「美しきシモネッタ」と呼ばれている肖像画を紹介します。
ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-74)はその有名な著書の中で、ピッティ宮 殿の「コジモ公(1519-74)の衣裳部屋には非常に美しい女性の横顔の肖像画 が二つある」と書きました。
この記述(作者名・モデル名に誤記を含みますが)が指し示す作品の一つは 今回紹介した「ジョヴァンナ・デリ・アルビッツィ・トルナブオーニの肖像」 であると思われます。
そしてもう一つが、マニフィコ・ロレンツォの弟ジュリアーノの愛人の横顔 であり、現在も「美しきシモネッタ」としてピッティ宮に展示されています。
作者名はサンドロ・ボッティチェッリ。モデルは当時絶世の美女と謳われた シモネッタ・ヴェスプッチと云われています。
この作品も「ジョヴァンナ」と同じくテンペラ肖像画の名品です。そして彼 女もまた、若き面影のみを絵画の中に留めています。
次回「美しきシモネッタ」を何卒ご購読のほどよろしくお願いたします。
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