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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0024
2016年01月11日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ゴヤ作「マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガの肖像画」(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「チンチョン伯爵夫人の妹の肖像画」◆◆
この絵が所蔵されているイタリア・フィレンツェのウフィツイ美術館での表記 「チンチョン伯爵夫人マリア・テレサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガの 肖像画」は誤りであり、
正しくはチンチョン伯爵夫人の妹「マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バリ ャブリーガの肖像画」となります。
これらは元々ドン・ルイス親王の遺児である彼女らが所有していたスペイン・ マドリードの中心から20キロ西方にあるボアディージャ・デル・モンテの宮殿 に、ドン・ルイス親王一家の数々の肖像画と共に飾られていたものでした。
情報そのものはこの宮殿のホームページによっています。
★ゴヤ作「マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガの肖像画」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p24.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガの肖像画
作者名: フランシスコ・デ・ゴヤ
材 質: 油彩(キャンバス)
寸 法: 220×140cm
制作年: 1800年
所在地: ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
注文者: トレドとセビリアの大司教、兄ルイス・マリア・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガ
意 味: モデルの父であるドン・ルイス・アントニオ親王は、実兄である国王カルロス3世によってあらゆる特権を奪われ、地方の宮殿に隠棲させられたまま1785年に亡くなっていた。
ドン・ルイスの妻や3人の遺児たち(長男ルイス・マリア、長女マリア・テレサ、次女マリア・ルイサ)は王命でボルボン家を名乗ることも出来ず、散り散りに暮らしていた。
やがて1788年にカルロス3世が崩御し、息子のカルロス4世が即位した。
1797年国王カルロス4世と王妃の命により、17才に成長していた姉マリア・ルイサが時の宰相マヌエル・ゴドイと結婚したことで、ドン・ルイス親王の家族の運命は好転する。
一家はブルボンの家名を回復し居住や移動の制限を解かれ、手厚い年金を受けられるようになった。1800年には兄ルイス・マリアは枢機卿に任じられた。
これらの新しい門出を記念するため、23才のルイス・マリアと17才のマリア・ルイサの肖像画制作が、父のお気に入りの画家だったゴヤに依頼された。
姉マリア・テレサ20才の肖像画は、懐妊のお祝いとして夫マヌエル・ゴドイからゴヤに発注された。
◆◆【3】像主 マリア・ルイサ・フェルナンダ(1783-1846)について◆◆
この肖像画を所蔵するイタリアのウフィツィ美術館は、「La contessa di Chinchon;チンチョン伯爵夫人の肖像画」としているがこれは誤記である。
モデルはチンチョン伯爵夫人の妹のマリア・ルイサであった。
スペインのプラド美術館も「La condesa de Chinchon;チンチョン伯爵夫人 の肖像」を所蔵しているが、こちらのモデルは姉のマリア・テレサ本人であり、 正しく表記されている。
いずれもゴヤの手になるもので、元々は彼女らの父ドン・ルイス親王が建てた ボアディージャ・デル・モンテの宮殿に飾られていた。
妹は子孫を残さなかったため、姉妹の死後は2枚共、姉の娘カルロッタが相続 し、その夫の一族であるイタリアのルスポリ家の所有となって代々伝わった。
その間に取り違えがあり、両方共が直接の祖先である姉の肖像画とされてし まったらしい。
以上のようにウフィツィ美術館のゴヤ作品のモデルは、マリア・ルイサ・フ ェルナンダ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガ17才でなのであるが、いずれ にしても姉・妹ともにその一生を時系列でたどることにしようと思う。
姉妹は、父ドン・ルイス・アントニオ・デ・ブルボン・イ・ファルネシオ (1727-1785)と母マリア・テレサ・デ・バリャブリーガ・イ・ロサス (1759-1820)の長女と次女として、スペインの古都トレドで生を受けた。
1.父ドン・ルイス親王(1727-85)の一生
父ドン・ルイスは、スペイン・ボルボン家の初代国王フェリペ5世と、後妻の イタリア領パルマ公爵家令嬢イサベル・デ・ファルネシオとの間に生まれた。フ ェリペはルイ14世を祖父とする生粋のフランス人だった。
スペインの王位は、フェリペ5世の前妻の子ルイス、そしてフェルナンドが継 いだが、その死後は後妻イサベルのお気に入りだったパルマ生まれの長男が、 カルロス3世(在位1759-88)として即位した。ドン・ルイスは3男である。
ただ、フェリペが生前に、国外で生まれた者には王位継承権がないと定めて いたため、それまで弟のドン・ルイスと仲の良かったカルロスだったが、即位後 は疑心暗鬼になってしまった。
さて、ドン・ルイス親王は、父の命で聖職者になるように定められていた。し かし若くしてトレドとセビリアの大司教に就任したものの、音楽と芸術と女性 をこよなく愛する青年で、父の死後の1754年、27才のとき還俗してしまった。
そして望みどおりに自由を謳歌して、悪所通いのせいで性病にかかったりも している。また目に見える形で自らの資産を築き始めた。
1761年には、すぐ上の兄であるパルマ公ドン・フェリペからチンチョン伯爵領 を、またミラバル侯爵からはボアディージャ・デル・モンテ領を購入した。そし て友人の建築家ベントゥーラ・ロドリゲスにボアディージャ宮を建てさせた。
宮廷画家ラファエロ・メングス(1728-1779)のアドバイスもあって、それか らの15年間で宮殿には絵画、家具、書物の豊かなコレクションが形成されてい った。さまざまな芸術家が呼ばれ、祝典や祭典が催された。
作家で色事師として有名なジャコモ・カサノバ、建築家ロドリゲス、作曲家 で有名なチェリスト・ルイージ・ボッケリーニ、ヴァイオリニスト・フィリッ ポ・マンフレディ、画家ルイス・パレート・・・。
中でもボッケリーニは、ボアディージャ宮においてパトロン・ドン・ルイスの ための作曲を数多く手がけている。
1775年事件が起こった。フランス大使の報告書によれば、ドン・ルイス親王の 取り巻きが3人の娼婦を宮殿に呼び寄せ、カルロス3世一行との狩猟の合い間に 親王と娼婦をあい引きさせたというスキャンダルである。
王妃の死後も長く貞節を守っている謹厳実直な国王は激怒した。取り巻き連 中を追放し、親王本人には家庭を持つことを厳命した。
こうしてマリア・テレサ、マリア・ルイサ姉妹の母となるべき、若く美しいア ラゴン出身の娘、マリア・テレサ・デ・バリャブリーガ・イ・ロサスが選ばれた。 当時16才で年の差は31才、貴賎結婚に該当した。
貴賎結婚とは身分違いの結婚であり、一方が王族だった場合は、王位継承権 を放棄させられ、ボルボン家の家名も紋章も使えなくなる。本人を除いて家族 は首都マドリードに入ることもできない。カルロス3世が定めた法である。
1776年6月、王室からはただ一人も出席することなく、結婚式が行われた。
親王はマドリードにほど近い、ボアディージャの宮殿からの退去を言い渡さ れた。そのため以後は使用人たちがこれを預かることになった。
新婚夫婦はそれから3年後、マドリードの西方に140キロ離れたシェラ・クレ ドス山脈の懐にある、アレナス・デ・サン・ペドロに居住地を決めるまで数ヶ所を 転々とし、その間に長男ルイス・マリア(1777-1823)が生まれた。
アレナスにはロドリゲスの設計で美しいモスケラ宮殿が建てられた。また沢 山の使用人と、芸術家や音楽家に囲まれた生活が復活した。けれども、華やか なマドリードの宮廷を夢見ていた若い妻には不満だらけの田舎暮らしだった。
1780年に長女が誕生、マリア・テレサ・ホセファと名付けられた。1783年6月6 日には妹マリア・ルイサ・フェルナンダが生まれた。
次女の誕生からまもなくして画家ゴヤが呼ばれた。ゴヤはたちまちにして親 王のお気に入りとなり、4週間滞在して家族それぞれの肖像画を描く。翌年も呼 ばれた。巨大な集団肖像画を含めて、二夏で18点の肖像画が仕上がった。
翌1785年も呼ばれるはずだったが、これはかなわなかった。
4月にマドリードで挙行されたカルロス3世の孫娘の結婚式に出席したドン・ル イス親王は、急な病いを得て8月7日に逝去してしまう。57才の早すぎる死であ った。
筆者は兄カルロス3世の指示で砒素でももられたのではないかと疑っている。 不自然な親王の死をきっかけに一家の運命が突如暗転するためである。
2.マリア・ルイサ・フェルナンダの生涯
1ヵ月後の9月18日、王命で、3人の子供たちは母親のマリア・テレサから無理 やり引き離された。8才の長男はトレドの大司教の元へ。5才と2才の娘ふたりは 同じくトレドのサン・クレメンテ修道院へ送られた。
カルロス3世の元にはずっと以前から、義妹マリア・テレサと使用人との不倫 が報告されていたようである。彼女はサラゴサに帰ることも許されない。そし て情事に夢中になった挙句、スキャンダルが発覚。愛人をも取り上げられた。
1788年カルロス3世が死去。息子のカルロス4世が即位した。マリア・テレサは 彼に宛てて、必死に自らの窮状を書き送った。
新国王は政治に無関心で、狩と音楽にしか興味がない男だったが、慈悲深さ と寛大さはもっており、彼女に移動の自由を与え年金を確保してやった。
マリア・テレサはトレドに行って娘2人を引き取るとサラゴサに帰り、サポ ルタ宮に落ち着いた。そして夫の大切な美術品159点をアレナスより運ばせた。
5年後再び国王から良い知らせが届けられた。
17才に成長していた長女マリア・テレサ・ホセファの縁談である。相手はフロ リダブランカ伯爵が失脚した後に就任したマヌエル・ゴドイという若い宰相だっ た。婚礼は1797年10月に行われ、ボルボンの家名も王家の特権も回復された。
吉報が続く。チンチョン伯爵という称号を回復していた長男のルイス・マリア が今度はトレドとセビリアの大司教に任じられ、続いて1800年枢機卿に選出さ れた。ゴヤに3兄妹の肖像画が依頼されたのはこのときのことである。
このとき描かれた肖像画の中で、妊婦である長女マリア・テレサ20才の表情 が異常に暗い。実は結婚直後から彼女は不幸であった。ゴドイは愛人ペピータ を同居させ、食卓に2人を並ばせていたという。夫婦仲は冷め切っていたのだ。
元来結婚自体が政略によるものだ。王妃マリア・ルイサ・デ・パルマは近衛仕官 ゴドイを男妾にし後に宰相に据えた。そして身分の低い愛人の箔付けのために ボルボンの家名を回復させたばかりのマリア・テレサと結婚させたのである。
生まれてきた娘はゴドイそっくりで母は顔を見るのが辛かったという。妹思 いのルイス・マリアは物心両面で支え1803年にチンチョン伯領を与えている。
一方の妹マリア・ルイサ・フェルナンダ17才は輝くばかりの美しさで描かれて いる。彼女は母親とサラゴサで暮らしていた。
王妃マリア・ルイサ・デ・パルマはこの娘にも目を付けた。1806年フェルナンド 王太子の妻マリア・アントニアが22才で死去すると、後妻として白羽の矢を立 てたのである。
しかし、息子のフェルナンド自身がどうしても首を縦に振らなかった。マリ ア・ルイサ・フェルナンダは憎きゴドイの義理の妹に当たる。彼は母の男妾と縁 続きになることに我慢がならなかった。そのためこの話は立ち消えた。
隣国フランスでは本家ブルボン家の王が1793年に処刑されたあと、権力を握 ったナポレオンが絶頂期を迎えていた。スペインの宰相ゴドイはナポレオンに 戦いを挑んで破れ、イギリスとの海戦ではスペイン艦隊を失ってしまった。
国内の物価ははね上がり、国民の不満は爆発する。
1808年3月アランフェスの暴動によって、成り上がり者ゴドイは失脚。これに 乗じたナポレオンはスペイン侵略に踏み切った。次いでカルロス4世一家をフラ ンス側に連れ去り退位させると、自分の兄をスペイン国王として即位させた。
これに対して各地で愛国者たちが立ち上がり、独立を求めた戦いは1814年ま で続いた。夫に取り残されたマリア・テレサ・ホセファはトレドの兄と合流し、 スペイン南部アンダルシアのカディスで騒乱をしのいだ。
妹のマリア・ルイサ・フェルナンダは母と共に地中海のマヨルカ島に避難し、 独立戦争が終わるとサラゴサに戻った。
1812年に王太子フェルナンドがフランスから帰国。戦後は絶対君主フェルナ ンド7世としてスペインを統治した。
1817年34才になっていたマリア・ルイサはようやくと結婚することになった。
相手は亡きドン・ルイス親王の執事の子ホアキン・ホセ・デ・メルガレホ・イ ・ソーリンという。彼はフェルナンド7世の閣僚であり、サン・フェルナンド・ デ・キロガ公爵の称号を受けていた。
1820年フェルナンド7世の圧制に耐えかねた自由主義者たちがクーデターを起 こす。サン・フェルナンド公は臨時政府の内務大臣に、マリア・ルイサの兄ルイ ス・マリア枢機卿は国民会議の議長を務めることになった。
しかし、1823年王政復古したフランスのルイ18世が、スペイン・ブルボン家の ために援軍を派遣するとフェルナンド7世が返り咲く。マリア・ルイサとホアキ ンの夫婦はパリに亡命するほかなかった。
臨時政府時代の激務に病を得ていたルイス・マリア枢機卿は圧制の再開を待た ずに46才で他界した。
一人きりになった姉マリア・テレサもまたパリに亡命せざるを得なかったが、 ここで妹夫婦と再会。彼女はマテオスという大佐と恋仲になる。しかし、男は 経済的に行き詰まり、マリア・テレサの美術品や宝飾品を換金させた。
やがて子宮がんを患ったマリア・テレサは1828年11月24日にパリで客死。マリ ア・ルイサは不幸な姉の最期を看取ってやり、スペイン大使館の牧師の手を借り て遺体を故国のボアディージャ宮殿に運ばせた。
やがてマリア・ルイサとホアキンはローマ滞在を経て帰国した。
サンフェルナンド公ホアキン・メルガレホは、1833年から死去する35年までの 2年間、フェルナンド7世の未亡人マリア・クリスチーナによる摂政政府の閣僚を 務めている。
夫婦仲の良いマリア・ルイサとホアキンの間に子はなかった。
1846年3月21日、マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリーガは63才 で死去。一家の中で最も長生きしたのが彼女であった。
彼女の亡がらは、ボアディージャ・デル・モンテ宮の聖具室に、夫ホアキン に寄り添って、また姉のチンチョン伯爵夫人のすぐ近くに埋葬された。
3.その後のチンチョン伯爵とボアディージャ宮
1803年長兄ルイス・マリアは全財産とチンチョン伯の称号を妹のマリア・テレ サに与えている。
1812年マヌエル・ゴドイと娘のカルロッタ・ルイサ、愛人のペピータ、それに カルロス4世一家はローマに居を構えた。
1814年には、ゴドイ邸から没収されていた美術品の一部が、チンチョン伯爵 夫人マリア・テレサに返還され、ボアディージャ・デル・モンテの宮殿に収めら れることになった。
1821年、マヌエル・ゴドイとマリア・テレサの娘、20才になっていたカルロッ タ・ルイサ・デ・ボルボン・イ・ゴドイは、ローマでイタリア貴族のカミーユ・ ルスポリと結婚。
1828年、母マリア・テレサがパリで客死すると、ゴドイは晴れて愛人ペピータ と結婚。カルロッタ・ルイサは、マリア・テレサの遺産とチンチョン伯爵の称号 を相続した。
1851年、父マヌエル・ゴドイがパリで客死。
1853年、女王イザベル2世が、カルロッタ・ルイサにボアディージャ・デル・モ ンテ伯爵の称号を授与。
1886年カルロッタ・ルイサ・デ・ボルボン・イ・ゴドイが86才で死去。長男ア ドルフォ・ルスポリがボアディージャを相続。以後1936年の市民戦争までここ は、ゴヤ、ブリューゲル、レンブラント、ベラスケスのギャラリーだった。
戦時中は軍のバラックや病院として使われ、損壊。人手に渡ったが、1973年 元の所有者の一族、ドン・カルロス・ルスポリに戻された。
1975年フランコ総統の死により、ボルボン家のホアン・カルロス1世がスペイ ン王として即位。ボアディージャ宮は国家指定史跡に認定。
1998年、ドン・ルイス親王の直系の子孫ドン・エンリケ・ルスポリより、宮殿 がボアディージャ・デル・モンテ市に譲渡された。
◆◆【4】作者フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)について ◆◆
スペイン美術史上最も重要な画家である。宗教画、神話画、風俗画、肖像画 静物画、裸体画、歴史画、風刺画、幻想画、戯画(カリカチュア)等幅広い分 野の絵画を制作。
その用いた技法は、油絵、フレスコ壁画、油彩壁画、デッサン、ミニアチュ ール、銅版画(エッチング、エングレーヴィング、アクワチント)、石版画 (リトグラフ)に及ぶ。
卓越した肖像画家として現在360点の肖像画を残すと同時に透徹した目を持っ た歴史の記録者でもあった。
独立戦争の悲劇を描いた「1808年5月2日」「1808年5月3日」、版画シリーズ 「戦争の惨禍」、不条理な現実を暗示する「黒い絵」の連作。さらに、
スペイン史上最初の裸婦像である「裸のマハ」、王室の姿をありのままに描 いた「カルロス4世一家の肖像」、独創的な版画シリーズ「ロス・カプリチョス (気まぐれ)」「妄(でたらめ)」など後世に影響を与えた作品は多い。
フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、1743年アラゴン地方の州都 サラゴサの南35キロにある寒村フェンテトードスに、鍍金師(メッキ職人)の 子として生まれた。母は古い貴族の末裔だった。
10才から14才までバロックの画家ホセ・ルサーンの工房で修行。16才で画家 としての活動を始める。マドリード及びイタリア滞在中に受けたアカデミーの 試験にはいずれも失敗しているから、早熟の画家ではなかったようである。
帰国後サラゴサのピラール大聖堂の壁画が実質的な画家デビューとなった。 1773年にはルサーン門下の大先輩で宮廷画家であるフランシスコ・バイユーの 妹ホセファーと結婚しマドリードに移住した。
1775年ゴヤは、宮廷及び美術アカデミーの指導者だったラファエロ・メング スにより王室タペスリー工場の図案描きとなる。これは王宮の巨大な壁を覆う 壁掛けのための風俗画の下図を油絵で描くというものだった。
この仕事によりゴヤは初めて経済的に安定を得ることが出来、以降の16年間 に63枚の下絵を描いた。彼はこの仕事を通じて王室の絵画コレクションを見る ことを許され、ベラスケス、レンブラントの名品から多くを学ぶ。
1778年には重病に陥った。精力絶倫のゴヤは梅毒にかかっていたらしい。妻 ホセファは1812年に亡くなるまでに20人の子を成したというが、その内たった 一人しか育っていない。
1780年にはラファエロ・メングスばりの「十字架のキリスト像」を描いて、 アカデミー会員に選ばれた。
1783年ゴヤは、宰相であったフロリダブランカ伯爵ホセ・デ・モニーノの肖 像画を2点描いた。堀田善衛の著書『ゴヤ』によると金のない伯爵は代価を支払 う代わりに王族であるドン・ルイス親王を画家に紹介したらしい。
ドン・ルイス親王の妻マリア・テレサはサラゴサ出身だった。彼女の使用人が ゴヤの知人であったことや、ゴヤの知人であった建築家ベンチュラ・ロドリゲ スが親王の宮殿を設計したということも幸いした。
画家は親王の信頼を得て、夏の4週間の間にドン・ルイス、妻マリア・テレサの 肖像を数点、乗馬姿のマリア・テレサ、長男ルイス・マリア6才、長女マリア・テ レサ・ホセファ3才の肖像画を描いた。
1784年の夏もゴヤは妻帯同で宮殿に招待され、巨大な油絵「ドン・ルイス親王 一家の肖像」(2.5×3.5m)を完成させた。親王は大いに気に入り、マドリード の大貴族たちに画家を推薦した。
ドン・ルイスは翌年不慮の死を遂げるが、その後のゴヤはオスーナ公爵家、ア ルバ公爵家、ポンテーホス侯爵家、さらにはサン・カルロス銀行の有力者たち、 そしてついには、王家の肖像を描く光栄を得ることになった。
1792年ゴヤは大病を患い生死の境をさまよう。宿痾(しゅくあ)である梅毒 が節目節目で彼を苦しめるのだ。生還したときには聴力を失っていた。
1798年マドリードのサン・アントニオ・デラ・フロリダ教会にフレスコで天 井壁画を制作。アラゴン男の強靭な体力が戻っていた。1799年「ロス・カプリチ ョス」の版画シリーズを出版。同年カルロス4世の宮廷画家に任じられている。
1800年知己を得た宰相のマヌエル・ゴドイから愛人ペピータ(ホセファ・トゥ ドー)の全裸像の制作を依頼された。淫らな絵の制作は異端審問により破門・ 罰金・流刑に科せられることとなっていたからゴヤとしても冒険だったろう。
完成した「裸のマハ」と「着衣のマハ」はゴドイ邸に飾られた。裏表に掛け られた2枚の壁には、手動で瞬時に入れ替えられるような、大掛かりなしかけ が施されていたらしい。
同じ年に、大作「カルロス4世一家の肖像」、「ルイス・マリア枢機卿の肖 像」「チンチョン伯爵夫人の肖像」「マリア・ルイサ・デ・ボルボン・イ・バ リャブリーガの肖像」が制作されている。
1804年フランスでは皇帝ナポレオンが即位。1807年になるとフランス軍がス ペインに駐留。1808年カルロス4世は退位させられ、ナポレオンの兄がホセ1世 として即位した。ゴヤはホセ1世のために制作し、宮廷画家の信任を得ている。
しかし、スペイン全土で反政府ゲリラが蜂起し、独立戦争が勃発した。
ゴヤはサラゴサに逃れ、戦時下で目撃した悲惨な現実を、版画シリーズ「戦 争の惨禍」に刻み付けた。イギリス軍の協力で反政府勢力が優勢になると、ゴ ヤは「ウェリントン将軍の肖像」を制作している。
1814年ナポレオンの敗北によりフェルナンド7世が即位。ゴヤは新国王に願い 出て、油絵の大作「マドリード1808年5月2日」「マドリード1808年5月3日」を 完成させた。
敵国であろうが、同盟国であろうが、自由主義者だろうが、反動保守の新国 王だろうが構わぬ。無節操に機会を得ては、第一線で絵を描く。狂瀾怒涛の時 代を描き続けるゴヤがあった。
1819年73才のゴヤはマドリード近郊に邸宅を購入。ここは『キンタ・デル・ ソルド(つんぼの家)』と呼ばれることになる。半年後3度目の重病に倒れる が、回復すると翌年から22年にかけ「黒い絵」を自宅の漆喰壁に制作した。
1階の食堂には「わが子を食らうサトゥルヌス」「魔女の祝宴」など6点、2階 のサロンには「砂に埋もれた犬」、足が固定された二人の男による「棍棒の殴 り合い」「二人の女と(手淫している)男」など8点が描かれた。
「わが子を食らうサトゥルヌス」は問題作の多い「黒い絵」シリーズの中で も図抜けて恐ろしい作品である。
全裸でざんばら髪の大男サトゥルヌスが、息子を食らう生々しい図。後世の 手によって(或いは画家自身によって)下腹部は黒く塗りつぶされているが、 そこには勃起した男根が描かれていた。
これはゴヤの自画像にほかならなかった。妻に20人の子を生ませながら次々 を死なせたのは、ゴヤの強烈な性欲が引き起こした病(梅毒)のためである。 その自責の念が赤裸々に表現されている。
これらは絵画の形を取った老いたゴヤの遺言であった。現在プラド美術館で 見ることが可能であるが、一体家族はこんな怖ろしい絵を前にして、食事が喉 を通ったものだろうかと思ってしまう。
さて、宮廷画家の地位にありながらも、フェルナンド7世の圧制に身の危険を 感じ始めたゴヤは、1824年家族と共にフランスへ亡命。国王には病の温泉治療 とだけ報告しており費用は支給されていた。
パリには亡命スペイン人のコロニーが形成されていた。
ここでゴヤは、チンチョン伯爵夫人マリア・テレサや妹のサン・フェルナンド・ デ・キロガ公爵夫人マリア・ルイサ、ゴドイの愛人ホセファ・トゥドー、ポンテ ーホス侯爵夫人、サン・カルロス公爵ら懐かしい面々と再会している。
ゴヤは1ヶ月後家族と共にボルドーに身を落ち着けた。ボルドーには劇作家の レアンドロ・モラティンやマヌエル・シルベーラなどの友人や亡命スペイン人 が住んでいた。
フランスでは昔の版画「ロス・カプリチョス」だけが大きな評価を得ていたが 異国の地で画業によって生計を立てることはできなかったようである。
この後も、数度にわたって故国の国王に湯治の延長許可を申し出ている。
何としても金をひねり出さなければならぬ。1826年には老体に鞭打ってスペ インに帰国すると、引退をフェルナンド7世に申し出て許可を得た。
このとき国王は宮廷画家ビンセンテ・ロペスにゴヤの肖像を描かせている。
ゴヤは王家から年金を取り付けるとボルドーに戻った。
1827年、ゴヤはまだ絵を描き続ける。「おれはまだ学ぶぞ。」スケッチや油 絵だけでなく、当時の版画の新技術であるリトグラフまでも制作している。
1828年4月16日後妻のアルカディア、娘のロサリオ・ウェイスに看取られて、 永眠。82年の見事な生涯だった。
◆◆【5】肖像画の内容について◆◆
ゴヤの肖像画の特徴は、それまでの伝統である客観的表現から主観的表現に 一歩踏み出したところにあった。
そこでは画家がモデルに対して抱いている心情が画面に率直に反映されてし まうという美点と危険が同時に内包されている。
モデルが親しい友人、あるいは旧知の人物・共感できる人物であれば幸いで ある。彼は画家によって誠心誠意観察され、その人格までもキャンバスの画面 に描き尽されるだろう。
画料を少しでも負けてもらいたい吝嗇な発注者だったらどうだろう。彼の手 首は、ナポレオンのように上着のボタンの間に突っ込まれてしまい、手の指ま で描いてもらえる光栄にあずかることはないはずである。
ゴヤがもしモデルをよく知らず、またほとんど興味のない種類の人間だった としたら。出来上がった絵は、モデルの熱望した姿形からほど遠い、退屈で、 陳腐で、生気のない、つまらない人物にされてしまうことは必定である。
このようにしてゴヤの肖像画は出来不出来、当たりはずれが生じるという訳 であった。
ここには中世やルネサンスの時代には決して見られない、画家の強い個性の 萌芽が感じられる。
例えば、イギリス国王ヘンリー8世を前にして気を抜く、あるいは手を抜くな どということはあってはならない、ありえないことだったろう。
しかし、スペイン国王カルロス4世や妃マリア・ルイサ・デ・パルマを11人の 家族と共に巨大画面に描いたときのゴヤはどうだったか。
もし彼らの着ている豪華な衣装と背景を隠してしまったなら、「国王カルロ ス4世一家の肖像」は“マドリード近郊の百姓一家の勢揃い”にしか見えないで あろう。王妃など、まるでやり手婆ではないか。
このときのゴヤは実際そのように認識していた節がある。それでいてこの大 肖像画が、ゴヤの代表作たりうる気品と圧倒的な迫力を有しているところが、 ゴヤの大物たるゆえんであろう。
(国王は狩猟だけが主な関心事だった。王妃マリア・ルイサ・デ・パルマが生ん だ子供のうちの二人は、愛人マヌエル・ゴドイの種だといわれている。)
さて、もう一人のマリア・ルイサの肖像を見ていこう。
彼女の全身が二等辺三角形の構図を形作り、その頂点に美しい瓜ざね顔が浮 かび上がる。
このように単純極まる三角形構図でも視線を誘導するべく計算している。ま ず下から上へ。そして顔から白い髪飾りを経て二の腕に、さらに指先へ。
右腕を伝って胸のふくらみに目が留まる。黒い二本線の帯は腰の影部をすべ り落ちて、ドレス足元の二本線へ。ドレスの縦ひだは縦方向の力、右へ伸びる ドレスの裾は横方向の力。これを受けるのはひざの左にうっすら浮かぶもや。
細部を見ていくと、左手首には母の横顔がはめ込まれた太いブレスレット、 おそらく右手首には父の横顔があるはずである。
しなやかな右手の下に隠れた左手は小さな棒状の物をつまんでいる。ゴヤの 女性像をいくつか見ていくとモデルが持っているのはほとんどが畳まれた扇で ある。従って筆者は左後方のもやに向けられた扇ではないかと解釈している。
一通り全体を観察したあと、視線はたっぷりとしたドレスに着地する。
ここでマリア・ルイサの下に掲げたマリア・テレサの坐像を見てほしい。
ドレスの下に覆われたひざの位置は一目瞭然であるけれど、その下の両のす ねから足の甲までの流れがはっきりと見て取れる。するとテレサの全身はSの 字を描いていることが感じられる。
次にルイサの立像に目を転ずると、ひざの位置が確認できないだろうか。そ うなると彼女は片足を一歩踏み出す現代のモデル立ちをしているように思われ てくる。では、もう片方の足位置は・・・。
ゴヤはそこまで観察し、感知したままに実体をさわやかに暗示している。
ここでよく批評家が言うところのゴヤ作品の特徴を紹介しよう。
それは、ひとつの肖像画の中の「緻密に仕上げられた部分」と「意図的に中 断された部分」の併置である。
マリア・ルイサの肖像では、左腕から上が前者で、下が後者に該当するのであ るが、以上のように、意図的に中断された部分の描写にも見る楽しみが描き込 まれている。
今度は彼女の容貌を拡大図で見る。柔らかにカールした前髪が額に垂れ、青 い瞳がゆったりと視線を返す。
頬紅と口紅は顔に生気を与えているけれど、表情が少し硬いままなのは描き 手のゴヤとの心理的な距離感を表しているのだろう。
絵に描かれるのは二度目だが、前回は1才だったから、ゴヤどころかあの懐か しいモスケラ宮でさえ記憶になくて当然である。初対面と変わらない。
今回画家は耳が聞こえない。会話が弾むことはまずなかったと思われ、逆に ゴヤは制作にだけ集中できたはずである。
マリア・ルイサは退屈には違いないが、その面影には、2才から9才まで母親か ら引き剥がされ、単調極まりない修道院で生きてきた少女の、静かな境地がに じみ出ている。
さて、このように観察してみると、ゴヤは彼女の父、ドン・ルイス親王への恩 を決して忘れていないことが感じられる。
ドン・ルイスは、無名のゴヤに18点もの肖像画を描かせ、十分すぎる手当てを 与えたばかりでなく、オスーナ公爵やアルバ公爵に代表されるマドリードの一 流貴族に推薦してくれた。おかげでいまや王家の宮廷画家。
あれから15年がたち、成長した子供たち三人を再び描く機会が巡ってきた。 ゴヤは大きな感慨に満たされたに違いない。この間の自分の進歩をドン・ルイス に見ていただく心積もりだったろう。
読者には、どうか一度ウフィツィへ出かけて、彼女に会ってみてほしい。
イタリア美術の至宝が綺羅星のごとく立ち並ぶ美術館の片隅にスペイン美術 を集めた部屋があり、その一角にゴヤが精魂込めた作品が唐突に立っている。
異国でひとりたたずむ17才のマリア・ルイサの肖像を目にして、きっと立ち 去りがたい気持になること、うけあいである。
〈参考文献〉
「ゴヤ*スペイン・光と影」堀田善衛著(新潮社)1974年
「ゴヤ**マドリード・砂漠と緑」堀田善衛著(新潮社)1975年
「ゴヤ***巨人の影に」堀田善衛著(新潮社)1976年
「ゴヤ****運命・黒い絵」堀田善衛著(新潮社)1977年
「現代世界美術全集23 ゴヤ」(集英社)1973年
「アサヒグラフ別冊美術特集 西洋編3 ゴヤ」(朝日新聞社)
「人物画論」フランカステル著 天羽均訳(白水社)1987年
「サンパウロ美術館展 日本語版カタログ」エットーレ・カメザスカ著 神吉敬三監修(朝日新聞社文化企画局)1990年
「巨匠ゴヤの名作[四大版画集]」(東京富士美術館)
「Goya,THE PORTRAITS」Xavier bray著 (National Gallery Company, London) 2015年
「世界大百科事典」(平凡社)
「ブリタニカ国際大百科事典」
"The New Encyclopedia Britanica"
WEBサイト "Asociacion de Amigos del Palacio de Boadilla del Monte"
◆◆【6】次号予告◆◆
ファン・アイク、ジャン・フーケ、ギルランダイオ、ボッティチェリ、ダ・ヴ ィンチ、ラファエロ、ブロンズィーノ、ホルバイン、ゴヤと第一級の画家を紹 介してきました。
時空を超えて~歴代肖像画1千年は次号より現代に飛びます。
伝統的な肖像画の枠を超えたゴヤのあと、ドラクロア、クールベ、そして印 象派が登場します。これ以後の画家たちは、ひたすら自分自身の表現に向かっ て絵画を展開していくことになります。
こうした一連の大変動はカメラの出現がきっかけでした。カメラが写実的な 絵画の重要性を払拭してしまったのです。
次回紹介するのは、印象主義の画家ルノワールが描いた肖像画です。彼の作 品はこれまで取り上げたいかなる肖像画とも異なります。画面がぐっと明るく なり空間の奥行き表現は劇的に変化します。
次回、ルノワール作「ジャンヌ・サマリーの肖像」をどうぞご期待ください。
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