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- No.26 ヴィクトール・ショッケの肖像画
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 セザンヌ作「ヴィクトール・ショッケの肖像画」(個人蔵)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】「ヴィクトール・ショッケの肖像画」◆◆
ポール・セザンヌはオーギュスト・ルノワールの親友で、印象派の同志であると同時に、近代絵画の父、現代美術の先駆者と呼ばれています。
“印象主義の絵画”に確固とした存在感と造形性を与えたいと考えたセザンヌは、長く不遇の人生の中で、孤独な探求の道を歩み続けました。
彼が描き続けた作品群は、ゴーギャン、ピカソ、マチス、ボナール、スーチン、ムーア、ゴーキー・・・数えきれない多くの芸術家に影響を与え、フォービズム、キュービズム、表現主義といった20世紀の前衛芸術の契機となりました。
セザンヌはコレクターであったヴィクトール・ショッケを6枚の肖像画に描いています。その中で、本作品は最初に描かれたものです。
また偶然にも、ルノワールの「ジャンヌ・サマリーの肖像画」とほぼ同じ時期に制作されました。
21世紀の私たちには、もはや異様には感じられないかもしれませんが、1877年の第3回印象派展に展示されたとき、この肖像画は会場中の笑いもの、呼び物となり、「殺人鬼」「見たら黄熱病になる」などと非難されたのでした。
★セザンヌ作「ヴィクトール・ショッケの肖像画」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p26.html
◆◆【2】肖像画データファイル ◆◆
作品名: ヴィクトール・ショッケの肖像画
作者名: ポール・セザンヌ
材 質: 油彩(キャンバス)
寸 法: 45.7×36.8cm
制作年: 1876-77年
所在地: 個人蔵(ニューヨーク)
注文者: ヴィクトール・ショッケ
意 味: パリの税関管理局の下級官吏だったショッケは、ルイ13世から16世時代の家具・骨董品を所有しており、19世紀フランスのロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワの絵画の熱心なコレクターである。
彼は晩年のドラクロワに肖像画制作を断られた経験があった。
新進画家であったルノワールやセザンヌに、ドラクロアと共通する芸術性を感じたショッケは彼らに肖像画を依頼する。ショッケにとってセザンヌはもうひとりのドラクロアとなるのである。
◆◆【3】像主 ヴィクトール・ショッケ(1821-91)について◆◆
画家と出会った当時の年齢は54。誰が見ても狂人としか思えない絵を描いて いたセザンヌの本質を、瞬時に把握した目利きの天才である。
ヴィクトール・ギヨーム・ショッケは、1821年12月19日、ベルギー国境の町 ・北フランスのリールで製糸工場を経営する資産家の家庭に生まれた。
父はアドリアン・ジョゼフ・ショッケ(1777-1851)、母はマリー・ジョゼフ ・ソフィー・ヴァントワイヤン(1785-1836)。
若きヴィクトール・ショッケは、パリに出て、税関管理局の文書係という下級 官吏の職を得る。
収入は決して多い方ではなかったが、彼には芸術を熱烈に嗜好する性癖があ った。早い時期から食事や着るものを節約しては、手ごろな価格で入手できる 一流品を探し求めた。
彼の確かな審美眼と他人に影響されない自信、パリ中の画廊や骨董店に関する 知識や、忍耐力と根気強さ。古臭いもの、新奇なものを評価しようとしない時代 の誤ちを利用して、少ない資金で見事なコレクションを築いていた。
ルイ13世、15世、16世時代の家具・骨董。陶磁器。
絵画では、ロココ様式の画家アントワーヌ・ワトー(1684-1721)に熱中した あと、同時代のロマン派の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の芸術に 魅せられた。
生き生きとした歴史画、卓越した構成力、オリエンタリズム(東方趣味)、官 展系の画家には見られない、斬新な色彩感覚。
ドラクロワはサロンとの長い闘いの末、1857年にアカデミー会員に推挙されて からも一般大衆から支持されず、価格が高騰することのなかったためか、ショッ ケにも比較的容易に入手できたのであった。
ショッケは1857年、36才のときマリー・オーギュスチーヌ・カロリーヌ・ ビュイッソン(1837-1899)という二十歳の娘をめとり、パリに新居を構えた。 新婦は北フランス、バス・ノルマンディーのノナン・ル・パンの出身であった。
彼女は自然を愛し、日曜日に夫を連れ立ってフォンテンブローの森を散策する のを好んだ。そして夫の美術品への熱情にも静かに寄り添っていた。
4年後ふたりの間には、娘が生まれている。マリー・ソフィー・ショッケと 名付けられたが、1865年父祖の地リールで夭逝。4つになったばかりだった。
ショッケの蒐集熱は悲しみの癒しとなり得ただろうか。
きらびやかに装飾された陶磁器のコレクション。年代物の家具。20点のドラク ロワ、3点のクールベに1点のコロー。若い夫婦のアパルトマンはひとつの美術館 となっていた。
ショッケは1862年42才のとき、妻の肖像画を描いてもらおうとドラクロワを 訪れ、丁重に辞退されたという経験があった。目の衰えが理由であったけれども この画家にとっては死の前年の話で致しかたのないことだった。
1874年のことである。ショッケは美術愛好家仲間の噂を耳にした。キャプシー ヌ大通りのナダールの写真館で『画家・彫刻家・版画家共同出資組合による展覧 会』が開かれるという。
ショッケの鋭い嗅覚が反応した。聞き慣れない団体名だがと友人たちに尋ねる と、異口同音に「やめておけ」という。「サロンに拒絶された素人絵描きの集ま りだろう」と。
ショッケは行くのを取り止めてしまった。“素人絵描きの集まり”は、とある 批評家によって『印象主義者』と皮肉された。
一年後、ホテル・ドゥルオで印象主義者たちの絵画の競売が行われた。偶然こ れに出くわしたショッケは、思わずのぞいてみた。悪くない。せりは紛糾してい たのだが、ひどく価格が安い。迷わずモネという画家の1点を手に入れた。
もう一人の作品がしきりと気になった。ルノワールである。そこにはドラクロ アを想起させる何かがあったけれども、これは落札せず、関係者から住所を聞い て、手紙を書くことにした。
12年前、ドラクロアで果たせなかった夢をこの画家に託してみよう。
翌日手紙を受け取ったルノワールは、肖像画制作を快諾。ショッケのアパルト マンを足繁く訪れ、まず夫人の、次に当人の肖像画が2点描かれた。
その内の1点の背景には、達ての希望でドラクロワの絵が描き込まれている。
肖像画の出来に大満足のショッケは、画家からさらに数点の絵を購入した。
ルノワールは、ドラクロワを崇拝するショッケ氏ならば、親友セザンヌの絵を 理解できるのではないかと考えて、タンギー爺さんの店に連れて行った。1875年 の10月のことである。
画材屋タンギーは、才能ある貧しい画家たちに、売れない絵と引き換えに画材 を支給するという気のいい親父で、今や店舗は半ば画廊ともなっていた。
ショッケはすぐにセザンヌを気に入り、「水浴する女たち」50フランを即金で 買った。「ドラクロワとクールベの間に掛けたらさぞいいだろう。」
彼は翌月も1点、12月も1点のセザンヌを、50フランで購入している。
ショッケはルノワールを通じて、今度はセザンヌをリヴォリ通りの自宅に招待 することにした。
ドア口に現れたセザンヌは、初対面のショッケに開口一番「あなたはドラクロ ワがお好きだと、ルノワールが言っておりました」と話しかけた。
ショッケとセザンヌはたちまちにうちとけて、たくさんのドラクロワの油彩画 やらデッサンやら引き出して、ふたりで仔細に検討するうちに、感嘆のあまり泣 き出してしまった。
そしてショッケは、セザンヌにも肖像画制作を依頼し、たっぷりと時間をかけ て「首像」(1876-77年作、個人蔵)と「全身坐像」(1877年作、オハイオ州コロ ンバス美術館蔵)とが描かれた。
さらにショッケのアパルトマンの居間を飾る「小舟と水浴する人々」(30cm× 125cmの横長作品、パリ・オランジェリー美術館蔵)と、これと対になる横長作品 1点を発注した。
彼はセザンヌの芸術のあらゆる意図を世界でひとり理解したのである。
ショッケは1876年にモネと初めて会ったときに、慨嘆している。 「私は友人たちのために一年間を無駄にしました。彼らの忠告さえなければもっ と早くにあなたを識ることができたはずです」と。
ショッケはかの友人たちとは絶交してしまった。
1876年の第2回印象派展の会場では、入場者たちに、展示作品の素晴らしさを 賛美し丁寧に説明するショッケの姿があった。
翌1877年4月の第3回印象派展でも、開場から閉館まで毎日、入場者たちに親切 に語り続けたのである。しかし人々は彼を気のいい狂人としか思わなかった。
この会場には本作「ヴィクトール・ショッケの肖像」が「男の頭部(習作)」 と名を付した題名で展示されていた。画家とコレクターの自信作である。
ところが、この絵は展覧会場の“一番の呼び物”となってしまうのである。
見る人見る人。曰く、「セザンヌは狂人だ」「怪物だ」と。
あげくのはてには「チョコレートで固められたビロワールだ」 (ビロワールとは、女性を切り刻んだ凶悪な殺人犯で、数日前に断頭台で処刑さ れたばかりだった。)
評論家ルロワは新聞に寄稿。
「もし妊娠している女性とこの展覧会に行くなら、セザンヌ氏の「男の頭部」の 前だけは急いでやり過ごすこと。黄色い、何とも異様な顔にショックを受けて、 彼女は生まれる子供を黄熱病にしてしまうだろう。」
セザンヌはこれ以後、沈黙を守り続けた。そして世間が正しく彼を見出すまで には、あと20を数えるほどの年月を要したのだった。
一方で、コレクターと画家の友情は、終生尽きることがなかった。
セザンヌは1886年、南フランス、エクス・アン・プロヴァンスで銀行を所有し ていた父の死によって莫大な遺産を相続。
ショッケもまた、妻カロリーヌの母親の死によって、かなりの遺産を受け取っ ている。北フランス、バス・ノルマンディーのアッタンヴィルの農場がショッケ 夫妻の所有となった。
1889年6月、アッタンヴィルに滞在していたショッケをセザンヌが訪れ、新し い肖像画(フィレンツェ、スフォルニ・コレクション)を制作している。このと きのショッケは、総白髪に白の背広で、庭木の前に足を組んだ座像であった。
この年、ショッケはアルマン・ドリア伯爵からセザンヌの「首吊りの家」(パ リ、オルセー美術館蔵)を譲り受けた。それは彼が唯一足を運ばなかった、1874 年の記念すべき第1回印象派展で、伯爵がセザンヌから購入したものであった。
1890年、ショッケはパリのモンシニィ街の3階建ての邸宅に移り住んだ。この ときにもセザンヌに装飾パネルの制作を発注している。
1891年4月7日、ヴィクトール・ショッケは、北フランス、オート・ノルマン ディーのイヴトにて死去。69才であった。700キロ離れた、エクス・アン・ プロヴァンスに住むセザンヌは葬儀に出席していない。
ショッケは他界するまでに82点のドラクロワと(その内23点が油彩)、 コロー1点、クールベ3点、セザンヌ32点、ルノワール11点、マネ5点、 シスレー1点、ピサロ1点、ベルト・モリゾ1点を所有していた。
ショッケの妻カロリーヌは独り身となっても、夫の愛したコレクションを手放 すことはなかった。
1899年、カロリーヌ死去。享年62。この年、パリのジョルジュ・プチ画廊に よって、ショッケの遺品の競売が催された。現在それらは世界中の名立たる 美術館や愛好家の所有となっている。
◆◆【4】作者ポール・セザンヌ(1839-1906)について ◆◆
後期印象主義に分類されるフランスの画家。
その生涯のほとんどを、社会からの無理解と誹謗中傷に苦しみながら、19世 紀のアカデミックな、因習的芸術観に挑戦した。
そして彼の出発点となった印象主義をさらに発展させ、色と形、伝統と革新 人工と自然、写実性と抽象性が渾然一体となった独創的な芸術を生み出す。
500年以上に渡るヨーロッパ絵画の伝統における最高到達点であり、キュービ ズム、フォービズム、表現主義、抽象芸術など 20世紀の芸術家や芸術運動に 大きな影響を及ぼした。近代絵画の父と呼ばれている。
1.誕生~青年時代(1839-1862年)
ポール・セザンヌは1839年1月19日南フランスのエクス・アン・プロヴァンス に生まれた。
イタリアのセザンヌ(チェザーナ・トリネーゼ)出身の移民の子孫でブリ アンソンを経てエクスにたどり着いたのは、セザンヌから4代前のドニ・セザン ヌである。生業は貧しい仕立て屋だった。
一族で、貧困から抜け出すのに成功したのは、画家の父ルイ・オーギュスト ・セザンヌ(1798-1886)ただひとりである。彼はエクスで羊毛商の店員となり 23才になるとひとりで首都を目指した。
パリで帽子製造の仕事を覚えると、エクスに戻って帽子販売と仲買の店を開 いた。そして40才のとき、使用人の娘だった24才のエリザベート・オノリール ・オーベール(1814-1897)と結ばれた。
1839年に息子のポール、41年に娘のマリ(54年にローズ)が生まれたがルイ ・オーギュストとエリザベートが正式に結婚したのは1844年のことだった。
ビジネスは順調で1848年にエクスで唯一の銀行が破産すると、その銀行の出 納係だったカバソルと共同経営の「セザンヌ・カバソル銀行」を開業した。彼 は88才で死ぬときに120万金フラン(2億1千万旧フラン)を遺すことになる。
(旧フランは新フランの100分の1。1新フランを20円とすると彼の遺産は 4,200万円。後に毎月200金フラン(7000円)の仕送りで妻子のいた無収入の ポールが絵を描いて暮らせたことを考えると、現在の貨幣価値で約12億円)
幼いポールの小学校の友達は石屋の息子フィリップ・ソラリ(後の彫刻家) だった。1849年10才のポールはサン・ジョゼフ小学校に移る。ここではアンリ ・ガスケというパン屋の息子と親しくなった。彼らは画家の生涯の友となる。
1852年13才のポールは良家の子女の通うブルボン中学校の寄宿生となった。 歴史とラテン語と数学が得意な少年だった。
中学校時代の一番の思い出は、後年の小説家エミール・ゾラと固い友情で結 ばれたことである。エミールはパリ育ちのよそ者で、学業ができず家は貧乏。 頭がでかくて逃れようのない、いじめられっ子だった。
悪童の群れに囲まれていたエミールについ同情心を起こしたポールは、激し い拳の雨に叩かれる。しかしこの事件が学校側に知れ渡ると、たったひとりに 対する集団暴行は厳禁となった。
翌日エミールは、リンゴの入った大きな籠を持参して、感謝の気持ちでポー ルに手渡した。セザンヌの有名な静物画の起源は、おそらくここに…。
もうひとりの友人バティスタン・バイユーと、学業優秀の3人組を結成する と、彼らは詩を口ずさみながら一年中プロヴァンスの自然を駆け巡った。 (バイユーは後年、天文学者になり理工科学校教授に就任。)
後年セザンヌのモチーフとなる、素っ裸で水浴びしたアルク川、ビベミュス の石切場、ゾラのダム、ル・トロネの埃っぽい道、サント・ヴィクトワール山 は、彼らの庭だった。ときにはガルダンヌやエスタックまで足を伸ばした。
夢のような日々が過ぎ、1858年ゾラはエクスを去る。土木技術者の父を早く に亡くした一家の貧困は、年毎に深くなり、父の知人を頼って一家はパリに移 っていった。
ポール・セザンヌは翌年エクスの大学の法科に進む。父の厳命に逆らうこと はできなかった。同年ルイ・オーギュストは、エクスの郊外にジャ・ド・ブッ ファンという広大な貴族の館を購入した。
法律を学びながらもポールは、ジョゼフ・ジベールという画家の教える無料 のデッサン塾にも連日通い続け、人体デッサンを習得する。そして退屈な大学 での2年間が過ぎたとき、法律の勉強を続ける気持ちは完全に失われていた。
1861年、ポールは猛反対の父を説得して、絵を学ぶためにパリに出る。そし て国立美術学校(エコール・ド・ボザール)に入る準備として画塾、アカデミ ー・シュイスに登録した。
アカデミー・シュイスは、シュイス翁の経営する人体デッサン教室で、指導 がない代わりにいつでもモデルを使った制作ができた。ここでは、年長のカミ ーユ・ピサロやアシール・アンプレールと友情を結んだ。
再会したゾラと一緒に観賞したフランス・アカデミーのサロン(官展)を美 術の最高峰と信じて疑わなかったセザンヌだったが、同じエクス出身の友人ア シール・アンプレール(1829-1898)は優れた水先案内人だった。
せむしで小人だった10才年上のアンプレールは、セザンヌをルーブル美術館 のヴェネチア派やスペイン・バロックの部屋に連れて行った。
ジョルジーノ、ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ティントレット、そしてエ ル・グレコ、スルバラン、ホセ・リベラ、ゴヤ…。アンプレールは火のような 言葉で巨匠たちの芸術を賞賛し、セザンヌの審美眼をはるか高く引き上げた。
しかしセザンヌは、ボザールの受験に失敗。自らの技量に完全に自身を失い 友人を振り切って帰郷。しかし、父の銀行に勤めるも続かず。年が明けて、つ いにルイ・オーギュストは、息子に絵に専念することを許すことになる。
ジャ・ド・ブッファンにアトリエを作ることを許してもらったセザンヌは、 三曲二双というべき巨大な屏風絵を描いたり、居間に『四季』と題した4人の 女性の大作を描き、中央には父を描いた肖像画を飾った。
2.修行時代(1862-1871年)
1862年11月セザンヌはパリに出ると再びアカデミー・シュイスに登録した。
もうひとりの友人カミーユ・ピサロ(1830-1903)はアンプレール以上に 優れた教師の資質を持つ画家だった。
ピサロは西インド諸島のサント・トマス島(現在のアメリカ領ヴァージン諸島)で、ポルトガルに先祖を持つフランス系ユダヤ人の家庭に生まれた。パリ近郊のパッシーで育ち、1855年25才のときパリに居を定める。
同年のパリ万国博で見たコローの絵画、次いでクールベに影響を受け、1856年エコール・ド・ボザールの画家の教室で学んだ。1859年からシュイスに通う。教室でモネを知りモネを通してシスレーやルノワールを知る。
社会主義者で無政府主義だったピサロは1870年普仏戦争が始まるとロンドンに疎開。モネと見たターナーの芸術により開眼。ここで出会った風景画家ドービニーの紹介でパリの画商デュラン・リュエルと知り合った。
サロンに対抗して印象派展を旗揚げした指導者の一人であり、第8回展まで続いた同展にすべて出品したのはピサロただひとりである。ワイン商の娘と1871年に結婚、貧乏に苦しみながら7人の子を育てた。
彼は年を追って偏屈に、人間嫌いに、厭世的に変わって行くセザンヌの才能を当初から認め、終生変わらぬ良き理解者であったし、またセザンヌもピサロを、師匠として、印象派の父として尊敬の念を抱き続けた。
セザンヌはおそらくピサロを通しバルビゾン派のコローを識り写実主義の画家で無政府主義者のクールベやロマン主義の画家ドラクロワを識る。
1863年のサロンの審査は厳格で数千の画家を落選させた。
これが大きな社会問題となると、大統領ナポレオン3世は落選絵画展を開催す る。このとき、エドアール・マネの「草上の昼食」という作品がスキャンダラ スだとして大きな非難を浴びた。
セザンヌたちは、その作品の斬新さに注目。2年後、騒ぎを恐れたサロンが入 選させたマネの「オランピア」が、再び大スキャンダルを引き起こす。保守的 な画壇の反発とは逆に、マネは若い芸術家たちの旗頭として祭り上げられた。
1867年頃にはバティニョール街の、マネの行きつけのカフェにゾラ、クラデ ル、デュランティらの文学者やドガ、ラトゥール、モネ、ピサロ、シスレーら 画家が数多く集まり、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。
セザンヌは初めてマネに紹介されたときに静物画を「しっかり描けている」 と褒められたことを生涯忘れない。
女性とあい対することが苦手なセザンヌは、20代から30代にかけて、ゾラの 影響による文学への嗜好とか、赤裸々な性欲をそのままキャンバスにぶつけた ような、暗くエロチックな絵を描き続けていた。
「囚われの悪魔」「殺人」「掠奪」「聖アントワーヌの誘惑」「検死体」 「マグダラのマリア」「饗宴」これらの絵画は、ドラクロワやクールベ、もっ と直接的には、ゴヤの“盗賊や戦時下の残虐行為”を描いた作品を思わせる。
静物画や風景画も描いたが、色数が抑えられ、乱暴で暗く、写実性に乏しい セザンヌの作品がサロンに受け入られることは決してなかった。サロンに展示 されない画家は大衆から見向きもされない。収入の道は完全に閉ざされた。
パリで芸術上の刺激を受け、ルーブルで自分の道を確かめ、サロンに応募し てひどくはね付けられ、傷つき果ててはエクスに帰る。これが年中行事のよう に毎年繰り返された。
1868年のサロンは審査員ドービニーの意向が通り、前衛画家たちが一斉に入 選する。マネ、ピサロ、ソラリ、ルノワール、モネ、シスレー。ただひとりセ ザンヌを除いて。ここにおいては親友ゾラもセザンヌの才能を見限った。
1870年初め、セザンヌはマリー・オルタンス・フィケ(1850-1922)という モデルを描いた。
オルタンスは銀行員の娘で母は無く、製本屋の女工をしながらモデルをする ことで収入の足しとしていた。
彼女には忍耐そして従順という美徳があった。すなわち変人セザンヌのモデ ルが務まる唯一の女性だったのだ。従順さは彼の欲望をも満たした。オルタン ス19才、セザンヌは31才だった。
夏になってナポレオン3世がビスマルクに宣戦布告。普仏戦争が始まると、72 才になっていたルイ・オーギュスト・セザンヌはカバソルと合意の上、銀行を 閉鎖した。鷹のような俊敏さである。
鳶のような息子ポールは、母の勧めで、兵役を避けマルセイユに近いエスタ ックに逃れた。ここでオルタンスと同棲しながら静かに絵を描き続ける。
年が明けて戦争はフランスの惨敗に終わった。セザンヌとオルタンスはパリ に戻る。
3.印象主義の時代(1872-1882年)
1872年ふたりの間に息子のポールが誕生した。
騒々しい界隈に借りたアパートでは落ち着いて制作ができなくなった。かと いって、故郷の父にはオルタンスのことさえ隠していたので、帰郷するわけに もいかない。加えて自分の進むべき道にも行き詰まった感があった。
そんなときカミーユ・ピサロがセザンヌを誘った。ピサロの以前の家は戦争 中プロシア軍によってめちゃめちゃにされていたので、先輩画家ドービニーの 住むポントワーズに来ていたのである。パリの北西にある美しい町だった。
「絵のことでもお役に立てるだろうから。」感激したセザンヌは妻子を連れ て宿を取る。不肖の画家は父の仕送りだけで暮らしながら33才になっていた。
ピサロは戸外での制作の支持者である。9つも年上で、生まれながらに謙虚で 気立てが良く、思いやりのあるピサロの言葉をセザンヌは自然に受け入れる。
セザンヌが描き続けてきたロマンチック(文学的)な絵画には技巧が決定的 に欠けていた。情熱と野望に技術が追いついていなかった。彼はこれまでのモ チーフを一旦棚上げして、ピサロと画架を並べて風景画を描き始める。
ピサロは「どんなに明るく描いても明るすぎることはない」というドービニ ーの言葉を伝え、あまりに暗かったセザンヌのパレットを明るくした。「3原色 と、そこから直接出てくる色だけで描いてみなさい。」
アカデミックなやり方を好まないピサロは、パレットから黒とビチューム (アスファルト絵具)と褐色とを排除していた。そしてセザンヌのような塗り つぶす描き方でなく、分割されたタッチで画面にリズミカルに置いていく。
「絵は、小さな部分から細切れに描くのではなく、全体を同時に描き進めな ければいけない。」「形態は線だけでなく色でも表現できる。」
そして、主観的な自己から逃れ、自然の忠実な観察者であるように勧めた。 「表現を空振りで終わらせないためには、暗い内なる心を制御しなければなら ない。真の力とは規律に従った力にほかならないのだ。」
いつしかセザンヌはピサロを心の師と仰ぐようになった。
「われわれはいつも一緒にいたが、ふたりとも本当に重要なもの、つまり自 分の感覚については決して譲らなかった」とピサロはのちに回想している。
1873年セザンヌはピサロの家で医師で絵画愛好家のガシェと知り合った。ガ シェはポントワーズに程近い小村オーヴェール・シュル・オワーズに小さな家 を借りることを勧めた。
オーヴェールにしばらく居を定めたセザンヌはここで「首吊りの家」という 印象派の様式で描かれた最初の傑作を完成する。その画面は明るい色彩に満た され自然が構成された風景画であった。
1874年ピサロ、ドガ、モネの発案で『画家・彫刻家・版画家共同出資組合に よる展覧会』が開催されることになった。これはのちに『第1回印象派展』と呼 ばれることになる。セザンヌはピサロの助言に従って3点の油彩画を出品した。
サロン以外の場所で展覧会を開くことは、サロンに対する挑戦状に等しい。 それは画壇や批評家たちの憎悪の的となり、またその見慣れない下手糞な作品 は大衆から轟々たる非難を呼んだ。
セザンヌに対する嘲りは飛び抜けていたが、アルマン・ドリア伯爵という大 収集家が「首吊りの家」の前に足を止めた。彼は迷わずこれを購入する。しか しセザンヌは展覧会が終わるが否や逃げるようにエクスに向けて旅立った。
1875年コレクターのショッケと知り合う。セザンヌは翌年のサロンに落選。 第2回印象派展にも不参加だった。
1877年38才のセザンヌは第3回印象派展に油彩画14点水彩画3点を出品。また も会場は非難と嘲笑の渦に包まれた。セザンヌがショッケを描いた「男の頭部 (習作)」は「殺人者ビロワール」とあだ名され、呼び物となった。
展覧会によって、完全に打ちのめされたセザンヌは「自分の名を胸を張って 名乗れるようになるまで黙って仕事をしなければならない」と誓うのだった。
悪いことが続く。1878年、ショッケからの手紙を開封したルイ・オーギュス トは、息子に妻子がいることを初めて知って激怒。そして生活費の仕送りを100 金フランに半減させた。独身者なら100フランで十分というわけだった。
このきつい仕打ちは数ヶ月の間続き、セザンヌは、小説『居酒屋』で成功を 掴んだエミール・ゾラに金を借りるよりほかなかった。
印象派展は第4回1879年、第5回1880年、第6回1881年、第7回1882年と続けて 開催されたが、セザンヌが参加することはなかった。どんなことをしても産業 会館のサロンの壁に作品を並べる。そうすれば状況は好転するはずなのだ。
1879年頃努力と譲歩によってサロンの審査員にまで昇り詰めていた画家がい た。アカデミー・シュイス時代の友人でアントワーヌ・ギュメといった。セザ ンヌは恥をしのんでサロンでの自分への支持と同僚の説得を頼んだのである。
しかし、ギュメの援護は叶わなかった。翌年も次の年も。審査員には落選し た作品ひとつだけ「お情けで入選させる」権利がある。普通これは自らの生徒 に与えるものである。哀れなセザンヌは終にこの特権の適用を懇願した。
1882年ついにセザンヌは念願のサロン初入選を果たす。しかしこれは、彼に とって最初で最後のサロンだった。しかも彼の作品「LA氏の肖像」は最も目立 たない場所に掛けられ、何の反響も呼ばなかった。「万事休す」だった。
4.セザンヌ様式の時代~晩年(1882-1906年)
秋になって帰郷した画家はアドルフ・モンティセリ(1824-86)という老画家 と交友を重ねた。彼はゴッホにも深い影響を与えた人物である。セザンヌは戸 外で制作した際にモンティセリが絵具に絵具を重ねる独自の秘密を垣間見る。
「何という気質だ」と舌を巻く。これは、セザンヌの最上級の賛辞だった。
1883年マネが死んだ。セザンヌは遠くエクスからパリにやってきて葬儀に参 列した。彼は遺言状を書いた。そして静物画の制作に没頭するようになる。お そらく世界一遅筆であろう画家は、3年間に59枚の静物画を描き上げた。
1884年もサロンは落選だった。この年アンデパンダン展(独立展)が創設さ れる。落選展のような形式の無審査・無賞の展覧会である。翌年ジャ・ド・ブ ッファンの女中との恋愛事件を起こす。ゾラは友を冷たい目で観察し続けた。
1886年4月4日ゾラから新著『制作』受け取る。
これがセザンヌをモデルとした小説であるのは明白だった。主人公クロード ・ランチエは、最後に自分の作品に絶望して首を吊る。埋葬を見ていた小説家 のサンドーは「さあ仕事にもどろう」と別の画家に声をかけ、小説は終わる。
このときセザンヌは、ゾラが自分を「無力な破滅者」と見ていたことを初め て知った。交友は終わった。
4月28日セザンヌはオルタンスと正式に結婚。6月29日モンティセリの死。 10月23日父ルイ・オーギュストの死。
彼は3人の子供に40万金フラン(現在の貨幣価値で4億2千万円)ずつ、動産 と不動産で残した。それでセザンヌの年収は2万5千金フラン(同、2,600万円) となったが、贅沢が嫌いなセザンヌの生活は一向変わることがなかった。
セザンヌはサント・ヴィクトワールというプロヴァンスの山に取り付かれて いた。彼の描くものはもうずっと以前から、彼の時代の作品ではない。その表 現はもっと若い人たちの、『未来』に属する芸術だった。
今では印象派の友人でセザンヌと交友があるのはピサロとモネとルノワール だけだったが、エクスを訪れたときルノワールはセザンヌの絵に驚きの目を見 張った。孤独な友が恐るべき表現力に達していることが信じられなかった。
1888年に最後の印象派展が開かれ、新印象派の画家たちが登場した。
1889年セザンヌはノルマンディー地方アッタンヴィルにショッケを訪ねる。
1890年スイス旅行と糖尿病の最初の兆候。
1892年若い画家エミール・ベルナールが『セザンヌ論』発表した。少しずつ時代がセザンヌに追いつき始めたのだろうか。画家は50代になっていた。
2月6日パリでタンギー爺さんが死んだ。彼の画材屋兼画廊は、パリで唯一セ ザンヌの作品を実見できる場所だった。爺さんはセザンヌとよく馬が合った。 画材と引き換えにセザンヌは売れもしない絵を置いていったものだった。
しばらく以前からセザンヌを注目していた若い画家の一団があった。モーリ ス・ドニ、ヴュイヤール、セリュジエ。彼らはナビ派と呼ばれるようになる。
7月にタンギー・セール(競売)が行われた。若い画商志望の男アンブロワー ズ・ヴォラールという男が5点のセザンヌを落札した。
1893年ヴォラールがパリのラフィット街に画廊を開設した。この町にはデュ ラン・リュエル、ベルネーム・ジュヌ、タンプレールなど大きな画廊があって 美術品売買の中心地となっていた。
ヴォラールは、ピサロ、ルノワール、ドガたちから、かつて一度も行われた ことのないセザンヌの展覧会をやってみるようにと勧められた。
ヴォラールは一か八かの展覧会を試みる気になって、パリのセザンヌの家を 紹介してもらい、訪ねたのである。画商の申し出に対し、大人に成長していた 息子のポールは父に手紙を書くことを約束してくれた。
日を置かず、エクスから木枠に張っていない巻かれたキャンバスが150枚、 ヴォラールの店に届けられた。
1895年ヴォラールの画廊でセザンヌの初個展が開かれた。150点の作品が替 わる替わる並べられた。セザンヌを知るものは初日からやって来て、そして一 人残らずその作品の質の高さに驚嘆した。パリの芸術界も騒ぎ始めた。
第1回印象派展から20年が過ぎ、印象主義絵画に慣れた教養ある人々はセザ ンヌを受け入れるだけの度量を持ち始めていた。ヴォラールは有頂天である。
1898年ヴォラールの画廊でセザンヌの2回目個展。作品数60点。
1899年アヌシー旅行と母の死
1899年アンデパンダン展出品。ヴォラールの画廊で3回目個展。作品数40点。
1900年パリ万博3点出品。
1901年アンデパンダン展出品。ブリュッセル自由美術展出品。
セザンヌはエクスのシュマン・デ・ローブに土地を買い、アトリエを新築。
1902年ゾラの死。セザンヌの糖尿病が悪化。
1903年ピサロの死。
F・ジュールダンをリーダーとし、マチス、マルケ、ルオー、ビュイヤールらがサロン・ドートンヌ(秋季展)創設。
1904年サロン・ドートンヌにセザンヌ室が設置され42点を展示。
1905年アンデパンダン展に10点出品。ヴォラール画廊でセザンヌ水彩画展。
1906年サロン・ドートンヌ10点出品。
9月21日エミール・ベルナールに宛て「私は年老いて病気です。老人を脅かす あの忌むべき耄碌に陥る前に絵を描きながら死のうと誓いました」と書く。
10月15日午後、晴れ間を縫ってサント・ヴィクトワールの風景画を制作。夕 立の中でも夢中で制作を続けたが、冷え切った画家は帰途に倒れ込む。洗濯屋 の馬車に拾われ、気を失ったまま帰宅。
目覚めたセザンヌは、少しも医者の命に従おうとしなかった。翌日またシュ マン・デ・ローブのアトリエに向かった。しかし気分が悪くなり帰宅。そのま ま起きられなくなった。衰弱した体と持病の糖尿病に肺炎を併発していた。
10月22日家政婦のブレモン夫人に看取られながら永眠。パリのオルタンスと ポールは間に合わず。67才の生涯だった。
父ルイ・オーギュスト享年88。母エリザベート享年83。養生すれば、画家も あと20年は生きたはずであった。
セザンヌの代表作品を挙げることは簡単ではない。
制作年代が曖昧な上に、同じモチーフをシリーズとして長期に渡って繰り返 し描き続けるために、これが代表作という区切りを付けづらいことがひとつ。
もうひとつは、後半生においては作品の質のばらつきが小さく、どの作品も 代表作といえるほどの内容と風格を湛えていることである。
したがって、図版なしではシリーズとして一抱えの作品群を言うほかはなく
「リンゴのある静物画」
「レスタックの風景画」
「セザンヌ夫人の肖像画」
「使用人たちの肖像画」
「トランプをする男たち」
「サント・ヴィクトワール山」
「大水浴図(1906年)を含む水浴図」
以下はセザンヌが若い友人に語っていた『芸術論』の抜粋。
「芸術家は芸術における文学を避けるべきである。」「レオナルドのように自然の形に洗練を加えるのもやはり文学の一種です。」
「にせ者の画家は、この木、あなたの顔、あの犬をみないで、木というもの、顔というもの、犬というものを見ようとする。彼らは何も見ていない。同じものは一つとしてないのに。」
「ピサロは3原色と、3原色同士を混ぜてできる色しか使ってはいけないと言っていました。彼こそ最初の印象主義者です。印象主義とは色を視覚的に混合する方法です。私たちはこれを通過する必要がありました。」
「私は、印象主義を美術館の芸術のように堅固で持続性のあるものにしたかったのです。」「モネの『ルーアン大聖堂』にしっかりしたものを、骨組みを与えなくてはならないのです。」
「線も肉付けも存在しない。デッサンは白と黒の関係である。」「色で描くにつれて線のデッサンもしているのだ。」
「光と影は色彩の関係である。」「明るい絵も暗い絵もなく、単に色調の関係があるだけである。」
「芸術家は小鳥が歌うように自分の感動を記録するのではない、構成するのだ」「見ることは理解することであり、理解することは構成することである。」
1.構図法
F8号キャンバス(45.7×36.8cm)を縦にして、油絵具で描かれた美術愛好家 「ヴィクトール・ショッケの肖像」である。
この絵を一瞥したとき、あなたはモデルの頭部が画面の右に寄り過ぎている ように感じないだろうか。
斜め方向を向いた人物の肖像を描くとき、普通、画家はモデルが向いた側の 余白を大きく取るものである。ショッケ像の場合は、向かって右を向いている のだから右側の余白を大きめにとる。
見る者の視線は、画中人物の視線の先を追っかけようとする。言い換えれば 人物の視線の先に誘導されるので、余白によって心理的に画面が安定する。画 面の力学に沿った配置となる。
あるいは画家は、頭部をはさむ左右の余白を均等に取ろうとする。実際に図 版上で図ってみると、後頭部から左が31mm、オールバックの髪から右が21mm。 頬骨から右を図っても26mmで、やはりショッケの前方の余白は狭い。
筆者が彼を同じ角度で描くとしたら、頭上の余白や胸の納め方は変えないで もう全体を少しだけ左に寄せるだろうと思われる。
右に寄っていることが問題なのではなく、右に寄り過ぎているにもかかわら ず、画面が完璧に安定していること。つまりこの人物を左にも右にも、1mmたり とも動かすことができないように見えることが、筆者には問題だった。
白い紙を1枚用意してほしい。その紙でショッケの左の余白を、少し覆って みる。これを少しずつ、ずらしてみてここなら具合が良い、バランスが取れて いるというようなポイントがあるだろうか?
後頭部の左を半分ぐらい隠したとして、前後のバランスは取れても、絵自体 が何となく頼りなく感じられ、細長い画面は確かに息苦しくなる。
右側を広げ、F8号を正方形ぐらいまで広げた場合は少し左に寄せたくなるか もしれない。つまるところ、この画面のままであればショッケを1mmも動かすこ とはできないのである。
前方が寸詰まりにもかかわらず、構図は安定しているように感じられること が不思議だったのだが、ここまで書いて、さすがに鈍い頭にも思い当たること があった。
これは黄金分割ではないのか?
そして30年ぶりに黄金分割の本を開いてみた。
黄金分割とは自然や芸術作品の形態美を規定する比例の中で古来もっと
も理想とされ、黄金の名を冠せられた比例法である。与えられた量をこの
比率で割り付ける法という意味で分割という用語を用いる。
黄金比とは人類が最も美しいと感じる比率であり、線を二つに分割する
とき、線分全体の長さと大きな部分の長さの比が、大きな部分と小さな部
分の長さの比と等しくなるようにすることを黄金分割という。
黄金比は自然界に存在している。
アンモナイトやカタツムリの殻は黄金比でできている。
1:1.618の比率を黄金比という。
短辺1に対して、長編1.618の長方形を、φ矩形(黄金矩形)という。
キャンバスのM型(マリーン;海景用)は黄金矩形で作られている。
黄金矩形は内部に、短辺を一辺とする正方形を左右から1個ずつ取るこ
とを定石とする。
矩形の対角線と正方形の対角線の交点から垂直か水平に線を延ばす。
こうして出来た矩形の中にまたあらたに正方形を得る。この作業を繰り
返す中で構図の基準線を確定する。
キャンバスのF型(フィギュア;人物用)は黄金矩形を縦に2つ並べた
形である。
よってFを分割する際は、長辺の中央で矩形を2分の1に切り、黄金矩形
を作ることを定石とする。この中に、上記の方法で正方形作る。
このような方法によって、美しい面積の対比が生まれる。
黄金比によって美しく分割された画面を得ることができる。
筆者がこれまで理解していた黄金分割とは、
絵画用のキャンバスにはF型とP型とM型という縦横の比率が異なる3種類が あって、これらは黄金比から生み出されたものである。このキャンバスの中に 短辺を一辺とする正方形を作ると構図が安定する、ということぐらいだった。
美校で黄金分割の本を読んでいたとき教師から「黄金分割を知識として行う のではなく、ここだという場所が感覚で分かるようにならねば役に立たない」 と言われたことを思い出す。
「考えるな、感じろ」(ブルース・リー)というわけである。日本人の教育 理論にはこういうところがあって、かの教師は芸大大学院卒の画家だから、正 しく理解していたのだろうが、筆者の黄金分割はものにならずに終わった。
西洋の教育は理詰めである。
黄金分割法はエジプトの古王国時代とギリシア時代を通して用いられ、ヨー ロッパ史において失われた時代はない。ルネサンス期には大きく展開した。
セザンヌは、同国人のプッサンやスペインのエル・グレコ、イタリアのルカ ・シニョレリといったルネサンス芸術家に心酔していたが、彼らは構図法の大 家であり、セザンヌ自身もまた黄金比に関して深い学識を有していた。
美術評論家の柳亮によれば、セザンヌの構図法を論じるだけでゆうに1冊の書 物が出来上がるという。
ショッケの頭の位置は、セザンヌにとって必然の、決定的構図だったわけで へぼ絵描きが動かせるような代物ではなかった。
柳は近代の画家としては、スーラ、ピカソ、モンドリアンらの名前を挙げて いた。今更に慄然とするものがある。
2.地塗りと配色
セザンヌが地塗りをしていたとは聞いたことがない。
「セザンヌの塗り残し」という言葉がある位で、塗り残したキャンバス地の そのままの白色が見えている作品が多いことから、セザンヌという画家は、地 塗り(色を用いた薄い地塗り;有色地塗り)をしない人かと思っていた。
しかしヴィクトール・ショッケの顔、首、ジャケット、髪の中にも、背景に も厚塗りのタッチの隙間から、鮮やかなビリジャンらしき緑色が垣間見える。
ビリジャンという新しい顔料は、セザンヌの時代にあったか? と調べてみ ると、セザンヌの誕生の直後1840年ごろに生み出され、59年に特許登録、65年 から製造されていることが分かった。これは堅牢で安定した絵具である。
セザンヌのパレット(使用した絵具の一覧)も伝わっていて、出所は晩年の 彼の元に親しく通った若手画家、エミール・ベルナールであった。
英語読みで列記すると
ブリリアント・イエロー
ネープルス・イエロー
クロム・イエロー
イエロー・オーカー
ロー・シェンナー
ヴァーミリオン
レッド・オーカー
バーント・シェンナー
ローズ・マダー
カーマイン・レッド
バーント・レーキ
エメラルド・グリーン
ビリジャン
アース・グリーン
コバルト・ブルー
ウルトラマリン・ブルー
プルッシャン・ブルー
ピーチ・ブラック
シルバーホワイト
計19色
緑という色でキャンバス地に地塗りすることは昨今、流行らないが、ルネサ ンス時代には当たり前に行われており、もちろんビリジャンなどという化学顔 料は存在しないから、天然緑土が用いられた。
緑の地塗りの上に肌色を塗ると、白肌の下に透けて見える緑が血管を連想さ せるのであって、実に合理的な描画方法なのである。
しかし、この緑地はセザンヌの他の肖像画には見られないため、よほどこの 肖像画に力を入れていたと考えられる。あるいは画家の、唯一のコレクターに 対する敬意が込められた、学究的な態度であろうか。
また、キャンバス地が強い吸収地の場合は油が地に吸収されて、褪せたよう なマットな発色となるが、この緑の地塗りのせいもあってか、絵具に含まれる 乾性油がほとんど失われておらず、油絵具本来の輝きを保っている。
この肖像画の色彩は大変に美しいものである。彼は常時19色をパレットに並 べることで、混色なしにそれぞれの色のグラデーション(色調、段階色)を揃 えていた。黄色5段階、赤6段階、緑色3段階、青色3段階、というわけである。
絵具は混色するほど色が濁り、彩度が低下するので、できるだけ生のまま使 ったほうが発色が良い。
混色を最小限にして異なる色の小さいタッチを並べ、絵から離れてみたとき に初めて眼球に混色を感じさせるというのが印象派の(厳密にはスーラやシニ ャックら新印象派の)視覚混合の原理であった。
しかし、セザンヌは視覚混合の原理を用いてはいない。
背景の淡い複雑な緑と、そこここに点在する鮮明なビリジャン、これが容貌 に塗り込められたヴァーミリオン、レッドオーカー、イエローオーカー、カー マイン・レッドと響き合う絶妙な補色対比を形作る。
それらが中年男の、実に生き生きとした血色を生み出している。
ふたつの襟の白は、濃い灰色の中の白髪と呼応する。後頭部の背景にも白が 塗り込まれている。
逆立つような髪の灰色は後頭部、頭頂部から右背景の影をぐるりと伝ってジ ャケットのブルー・グレーへと渦巻きを描いているようである。
19色のパレットを駆使したことは、セザンヌが色を濁らせないために独自に 生み出した技法だったのであろう。セザンヌの師匠といわれるカミーユ・ピサ ロのパレットもこれほど多くはなかった。
3.等質性の問題
セザンヌは画面のどの部分をとっても、同じ比重、同じ重要性を持つ
ように感じられる必要があると考えていた。
このような画面のあらゆる部分での等質性はセザンヌの絵の顕著な
特徴である。(リチャード・W・マーフィー)
これこそがセザンヌが長年の苦闘の末に生み出した、いわばセザンヌ様式と いえるものであり、であるがために、奥さんのオルタンスの顔を描くときにも 背景の壁や、静物のリンゴと同じように描いたのである。
少しでも身動きしようものなら「リンゴが動くか!」と叱りつけた。
当然初期の作品にはまだこのような特徴は見られないし、
そして例外的にと云いたいのだが、ショッケを初めて描いた本作品にも、等 質性が感じられないのである。(一方でこの作品の後に描かれたそのほかの5点 にはすべての部分で等質性が明らかであった。) 本作品は発表当時『殺人鬼ビロワール』と仇名されたほどの肖像画であるが 表情は実に穏やかで、セザンヌの筆はショッケの顔を丹念にたどっている。
「私は自分の感覚をすぐには表現できないから何度も色を塗るし、できるかぎり塗り続けるのだ」
しかし決してそれらは等質ではない。明らかに容貌の密度は他の部分に勝っ ていて、セザンヌ様式といえるものは見られない。
そこに見える一筆一筆が、セザンヌの執念の探求の痕跡なのである。やっき になってショッケに喰らいつくセザンヌの姿が読み取れる。
セザンヌ作品では常套の画面上の力学に従ってなされるデフォルメ(変形) もここでは最小限に抑えられている。
「万物は球体と円錐と円柱という単純な形に基づいて描かれるべきである」 というセザンヌの言葉をそのままあてはめたような後頭部、あご、首の形。遠 近法を無視した両目と口元の関係性。
これらはデフォルメというより、自然な描画と考えるべきだろう。ジャケッ トの襟に飛び込んでしまった背景の絵具も、等質性の暗示というより、セザン ヌの、没我の制作の傷跡にすぎない。
さらに、印象主義はアカデミックな黒褐色による明暗法を否定したが、この 絵にはそんなことを気にするそぶりも感じられない。白黒写真で見ると一目瞭 然だが、そこにはきっちりとした明暗法が現れている。
この作品はセザンヌが描いた中でも、珍しい部類の、どちらかといえばアカ デミックな方法で描かれた、特筆して美しい肖像画である。
4.詩情とリアリズム
初期の修行時代を除いて、セザンヌは質感(texture)というものを描こう としたことのない画家だった。
彼は布らしさとか、素肌らしさとか、リアルなリンゴらしさを追求したこと は一度もない。
一度としてリンゴを食べられる物として描かなかったし、そのことはつまり 絵具をリンゴと「等価のもの」に変えようとしなかったといえる。
ショッケを撮影した写真と比べると分かることであるが、この肖像画は余程 本人と似ていない。画家はショッケに似せることを当初から放棄していた。 リアリズムは彼の求める芸術の目指すところではなかったからである。
肖像画を像主に似せるということは、絵の中に布の質感を克明に再現しよう とする行為と同じことなのかもしれない。
しかし、似ていないものを肖像画というわけにはいかないのである。
よってこの肖像画は、セザンヌが渾身の力を振り絞って描いた、 『肖像画の概念から完全に逸脱する作品』であるといってよいだろう。
彼の目的は、対象を色と形に変えることであり、 そうすることで絵具を詩に変えたのだ。
〈参考文献〉
「巨匠の世界 マネ 1832-1883」ピエール・シュナイダー著 高階修爾 監修(タイム ライフ ブックス)1973年
「巨匠の世界 セザンヌ 1839-1906」リチャード・W・マーフィー著 高階修爾 監修(タイム ライフ ブックス)1974年
「セザンヌ」アンリ・ペリュショ著 矢内原伊作訳(みすず書房)1960年
「セザンヌ回想」P.M.ドラン編 高橋幸次/村上博哉訳(淡交社)1995年
「セザンヌの構図」アール・ローラン著 内田園生訳(美術出版社)1972年
「黄金分割 ピラミッドからル・コルビュジェまで」柳亮著 (美術出版社)1965年
「サンパウロ美術館展図録」エットーレ・カメザスカ執筆 神吉敬三 監修 (朝日新聞社文化企画局)1990年
「スコットランド国立美術館展図録」千足伸行 監修(アート・ライフ)1993年
「デトロイト美術館の至宝―印象派と近代美術の巨匠たち展図録」そごう美術 館 北九州市立美術館他 編集(ホワイトPR)2001年
「セザンヌ―パリとプロヴァンス展図録」国立新美術館 日本経済新聞社 編集 (日本経済新聞社)2012年
「アサヒグラフ別冊美術特集 セザンヌ」大峡弘通編集(朝日新聞社)1988年
「絵画材料事典」ゲッテンス・スタウト共著森田恒之訳(美術出版社)1999年
「洋画メチエー技法全科の研究」黒田重太郎・鍋井克之共著 (文啓社書房)1928年
「日本百科大事典」(小学館)
「ブリタニカ国際大百科事典」
"The New Encyclopedia Britanica"
"The Encyclopedia Americana"
"Cezanne" Francoise Cachin,Isabelle Cahn,Walter Feilchenfeldt,Henri Loyrette,Joseph J.Rishel(Harry N.Abrams,Inc.,Publishers in assocation with the Philadelphia Museum of Art)1996
◆◆【6】次号予告◆◆
セザンヌ作品の来歴(provenance)について少したどります。
1875年ヴィクトール・ショッケは、タンギー爺さんの店で初めてセザンヌ 作品を買い、セザンヌと出会った日に肖像画の制作を依頼します。
ショッケはこれらを生涯手放さず、彼の死後も妻カトリーヌが手放すこと はありませんでした。しかし二人には子供がなかったため、彼女の死後は ジョルジュ・プチ画廊でショッケ・セールが行われました。
1874年の第1回印象派展で、アルマン・ドリア伯爵を釘付けにした油絵「首 吊りの家」は、1889年に伯爵から直接、譲り受けたショッケが所有していま した。
この作品を競売でイザック・ド・カモンド伯爵が落札。クロード・モネの 薦めによるものでした。カモンド伯爵家からルーブル美術館に遺贈されたのが 1911年のことで、現在はオルセー美術館の収蔵となっています。
この1899年のショッケ・セールでは、3点のセザンヌをヴォラール画廊が落札 し、8点をベルネーム・ジュヌ画廊が落札します。
印象派の画商だったデュラン・リュエルは、ずっとセザンヌを毛嫌いしてい たものですが、このときばかりは17点を落札しました。
セザンヌの専属画商となったヴォラールは、作品を一手に取り仕切り、自ら の画廊においてセザンヌ展を開催しました。1895年の第1回展では150点、1898 年には60点、1899年には40点のセザンヌ作品を並べています。
そしてセザンヌが1906年に死去したときには、ヴォラールとベルネーム・ジ ュヌ兄弟が、妻のオルタンスと息子のポールから、遺されたほとんどの作品 (油彩画27点、水彩画187点)を買い取りました。
これらは世界中からパリにやって来るコレクターたちの手に渡り、その遺族 に相続されあるいは売りに出されたり、美術館に寄贈されることになります。
テート美術館「セザンヌ回顧展」の図録にはセザンヌの制作した全作品1150 点のうち、展示された222点の来歴が詳しく記載されて、70人の大コレクター のリストとその人物像まで紹介されています。
そこには運命に翻弄された大富豪、我が松方幸次郎の名前もありました。
そして世界のどこかでセザンヌの展覧会が行われるたびに、世界中から作品 が届けられ、美術ファンはセザンヌに会うことができます。
かつて一顧だにされなかったセザンヌの作品の数々が、作者の手を離れたあ との100年にわたる長い旅路と、それに介在した人々の情熱や駆け引き・利害。
セザンヌという巨大な軸を中心として、永遠に回り続ける大きな車輪のよう な力に、思いを馳せないではいられません。
次号ではボナールの肖像画を取り上げます。
セザンヌのあとは、彼の芸術からキュービズムを導き出したピカソを予定し ていたのですが、セザンヌの下調べで訪れた図書館で、ふと手にしたボナール の小冊子にまたも未知の素晴らしい作品が掲載されていたのです。
ボナールは肖像画を書くことが嫌いでしたし、真に肖像画といえる作品は僅 少です。従って『歴代肖像画1千年』のモチーフではありませんでした。
けれど最も敬愛する画家ボナールを語りたいという思いに駆られています。
ボナールはセザンヌと親しく交際した画商とも付き合いがありました。あの アンブロワーズ・ヴォラールとベルネーム・ジュヌです。ボナールとベルネー ム兄弟はビジネスを通した友人でした。
画家は1908年と1920年の大作の中にふたりを描いています。
これらも肖像画の一つの形であることは間違いありません。ボナールは肖像 画の様式をある程度反古にすることで自分の表現を通したともいえるのです。
次回、ボナール作「ベルネーム兄弟の肖像画」をどうぞご期待ください。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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