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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0028
2020年06月27日発行
★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ピカソ作「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」(プーシキン美術館蔵)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
◆◆【1】「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画」◆◆
ピカソは、ブラックと共同で開発したキュビズムという手法を用いてヴォラールという画商の上半身像を解体します。
20世紀前半の芸術は、美術評論家のピエール・フランカステルをして「肖像画は消滅した」と言わしめました。
「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画」について彼は「出来上がった作品は主題と人間そのものを消し去ることで自律性を獲得する」と述べています。
★★★ピカソ作「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p28.html
◆◆【2】肖像データファイル◆◆
作品名: アンブロワーズ・ヴォラールの肖像
作者名: パブロ・ピカソ
材 質: 油彩(キャンバス)
寸 法: 92×65cm
制作年: 1910年
所在地: プーシキン美術館(モスクワ)
注文者: アンブロワーズ・ヴォラール(筆者の推定)
意 味: 美術商だったヴォラールの肖像画は、セザンヌやボナールやルノアールなど多くの画家によって幾度も描かれている。
ピカソが特異な様式で描いたこの肖像画が完成したとき、ヴォラールは非難の言葉を口にし、容易に受け取ろうとはしなかったと伝わる。前衛芸術を専門としていた彼にもキュビズムだけは理解不能だった。このようなことから案外ヴォラールの依頼画だったのではないかと思われる。
この作品はヴォラール画廊から、ロシアの大富豪イヴァン・アレクサンドロヴィッチ・モロゾフ(1871-1921)が購入し、そのコレクションとなったが、ロシア革命により1919年ソヴィエト政府に接収された。その後、モスクワの国立西洋美術館(旧モロゾフ邸)の所蔵となり、1948年以後はプーシキン美術館に収蔵されている。
◆◆【3】像主について◆◆
アンブロワーズ・ヴォラール(1866-1939)は、セザンヌ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、ピカソを売り出したパリの有名な美術商であり、版画集や詩集などの出版活動に加えて自ら作家として執筆活動も行った。
1866年7月3日、アンブロワーズ・ヴォラールは、アフリカの東岸インド洋に浮かぶ仏領レ・ユニオン島に生まれた。この島はマダガスカル島の東800km、モーリシャス島の西175kmに位置し、南北55km・東西60kmの大きさがある。
父アレクサンドル・アンブロワーズ・ヴォラールはイル・ド・フランス出身の公証人で、母アントニン・ラピエールはレ・ユニオン島生まれだった。二人の間には7男3女が生まれた。また一家には母の姉ノエミが同居していて、生涯独身のまま、幼い甥や姪の教育に当たった。
ノエミは水彩画を描くのを好んだ。ヴォラールはその影響もあって素描や版画が大好きな少年に育つ。10才のときには新聞のドガの絵に魅了されていた。
1885年19才のとき一人でフランス本土へ渡り、南仏モンペリエの大学で2年間法律を修学。1887年21才のヴォラールはパリの大学で引き続き法律を学びながら、セーヌ川沿いの屋台で売られている書物や素描や石版画を漁って歩いた。
まもなく法律の勉強を断念したヴォラールは、美術商の見習いになるつもりでジョルジュ・プチ画廊を訪れるが、外国語が不得手だったため不採用になった。次に出会ったのがアマチュア画家アルフォンス・デューマである。
彼は金利で暮らしていたが、絵画制作の十分な資金を得るためにユニオン・アルティスティク画廊をオープンしたので、運よくヴォラールはここに勤めることとなる。1891年24才になっていた。
社長のデューマはアカデミック画が専門で、ひどい印象派嫌いだったのだが、ひとり店を切り盛りする新人は印象派がなかなかの人気だということに気づくと、アペニン街の自宅アパートでこっそりと美術ブローカーを始めた。
1893年には早くも独立して、デュラン・リュエル、ベルネーム=ジュヌ、タンプレールなどの画廊が軒を連ねるラフィット街に小さな画廊をオープンさせる。
彼の最初の成功は、常客の持ち込んだ情報からもたらされた。印象派の大画商デュラン・リュエルが欲しがるに違いない故人エドアール・マネのデッサンが、夫人の元に埋もれているというのである。
ライバルを出し抜いてこれを安値で入手したヴォラールは小展覧会を開いて若い芸術家たちに売りさばき、またこの結果、幸いにも印象派のルノワールやドガ、それにナビ派の画家たちとの面識が出来た。
マネの次はセザンヌだった。1894年2月、画材屋で画廊店主のタンギー親父が亡くなった。彼が決して手放そうとはしなかったセザンヌの絵画が、タンギー・セール(競売)に供されたのだ。
貧しいヴォラールはやっとのことで5点を落札したのだが、「まさか誰も評価しないあの下手くそな絵を!?」ということで彼は満場の拍手を浴びている。
大衆と前衛芸術家たちの、セザンヌへの態度は正反対だった。そしてセザンヌの古い友人のピサロの熱心な勧めに従って、一世一代の博打に打って出る。「セザンヌの展覧会!」を開こうというのである。
セザンヌのパリの住居を訪れたとき、あいにく画家は不在だったのだが、息子が在宅で、ヴォラールの希望を伝える旨、快諾してくれた。
まもなく南仏から、巻かれたキャンバスが150ばかり店に届く。
金のない画商は出来合いの棒で作られた安物の額に納めて展覧するしかない。そして1895年1月、史上初のセザンヌ展が開催された。画家仲間のモネがすぐに3点購入し、ドガも1、2点買ったと伝わる。やがて世論が変わり始める。
次いでゴッホの義妹ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルとコンタクトを取り、60点のゴッホ展を1895年に開催した。これは商業的には成果がなかった。
1896年5月、ラフィット街6番地に画廊を移転。大々的に口火を切ったのはゴッホ展だった。翌年にも開催するのだが、いまだ時至らず、三度失敗に終わる。結局在庫を二束三文で売り払ってしまったが、後に彼は後悔したようだ。
1896年には南仏エクス・アン・プロヴァンスのセザンヌを訪問。1898年5月9日から6月10日まで、1899年12月にもセザンヌ展を開催。画家の信頼厚いヴォラールは肖像画に描かれる栄誉に預かったが、そのポーズは115回にも及んだ。
1897年、98年はナビ派のグループ展を開催。1898年11月にはゴーギャンの個展。超大作『我々はどこから来たか、我々は誰か、我々はどこへゆくか』も陳列された。
1900年にはゴーギャンと月300フランで独占契約を結ぶ。ヴォラールはいつまでも作品が売れ残り苦労した。のちにゴーギャンは買い叩かれたと逆恨みして「最悪のサメ野郎」と罵ったが、画商は沈黙を守ったらしい。
1904年6月マチス展。1906年ボナール展。1907年ヴラマンク展。1913年ルオーと契約。ピカソに関しては、1901年、02年、09年、10年、11年と個展を開催したが、ピカソがキュビズム一辺倒になると個展を開催するのを断念している。
ヴォラール画廊と、植民地料理を振る舞う地下の食堂は、絵画愛好家や若い芸術家たちのメッカとなった。
ディエルクス、ギヨーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、マックス・ジャコブなどの詩人や、ドガ、モネ、ルノワール、ルドン、ボナール、ルーセル、ヴュイヤール、フォラン、ピカソといった画家連中が集まった。
ヴォラールは画家との独占契約を結んだり、アトリエの作品を丸ごと購入したりして大量の作品を仕入れたが、アンリ・ルソーや好みと相容れない新印象派の点描画には悩まされた。
以前は年に10回程度催された個展も、1908年以降は開催のペースが落ち始める。さらに第一次大戦が勃発すると画廊を閉鎖せざるを得なかった。大戦中はジャリが書いた有名な戯曲『ユビュ親父』の続編を執筆した。
ヴォラールは1907年に死んだジャリの人柄に強い感銘を受けていた。
今や大変な資産家となっていた彼は、大戦後の1919年画廊を再開。顧客は自宅に迎えることにして、情熱を出版活動に注いだ。1924年画廊をマルティニャック通り28番地に移転。翌1925年にはレジョン・ドヌール勲章が与えられた。
1936年には自伝を執筆。この本は同年英文で、翌年には仏文で刊行された。ヴォラールの退屈なお喋りが延々と続くのだが、世紀末フランスの文化に親しみを覚えると大変なエスプリの宝庫であることに気づかされる。
晩年にはヴェルサイユから14kmの小村トランブレ・シュール・モルドルに、広大な土地を購入し別荘を所有。ピカソにもアトリエを提供している。
1939年7月22日、73才のヴォラールは女友だちと別荘に向かう途中、自動車事故で死亡した。
死因は、運転手の急ブレーキのために、後部座席から前に放り出されて頸椎を骨折したとか、或いは、背後に積んであったシチュー鍋もしくはブロンズ彫刻が後頭部を直撃したなど、いろいろに伝わっている。
ヴォラールは生涯独身だった。莫大な遺産と美術品は、弟のリュシアンと、ド・ガレア夫人に分割相続された。彼女は大戦中に夫を亡くして以来、同郷で幼なじみのヴォラールと余暇を一緒に過ごす仲だったと伝わる。
アンブロワーズ・ヴォラールの出版者としての活動記録。
1896年『画家の版画集』
1896年『アントワーヌの誘惑』フローベール著/ルドン挿絵
1897年『ヴォラール画廊オリジナル版画集』
1899年『パリの生活』ボナール版画集
1899年『ユビュ親父の暦』ジャリ著/ボナール挿絵
1900年『パラレルモン』ヴェルレーヌ著/ボナール挿絵
1901年『ユビュ王の絵暦』ジャリ著/ボナール挿絵
1902年『ダフニスとクロエ』ロンゴス著/ボナール挿絵
1911年『エミール・ベルナール宛のファン・ゴッホの手紙』
1914年『悪の華』ボードレール著/ベルナール挿絵
1923年~『死せる魂』ゴーゴリ著/シャガール挿絵(1948年テリア―ド出版)
1924年『ダンゴ』ミルボー著/ボナール挿絵
1925年『寓話』ラ・フォンテーヌ著/シャガール挿絵
1930年~『聖書』ルオー挿絵(1952年テリア―ド出版)
1931年『知られざる傑作』バルザック著/ピカソ挿絵
1936年『ドガ・ダンス・デッサン』ヴァレリー著/ドガ原画
著作者としての活動記録
1905年『ジャン=ルイ・フォラン』
1914年『ポール・セザンヌ』
1917年『病院におけるユビュ親父』
1918年『飛行機に乗ったユビュ親父』
1918年『ピエール・オーギュスト・ルノワールの絵画・パステル・デッサン』
1919年『ピエール・オーギュスト・ルノワールの生涯と作品』
1919年『植民地におけるユビュ親父』
1920年『戦争におけるユビュ親父』ルオー挿絵
1924年『ドガ 1834-1917』
1925年『ユビュ親父の再生』
1927年『聖モニク』挿絵ボナール
1930年『ソビエト国におけるユビュ親父』
1936年『画商の思い出』
1938年『セザンヌ、ドガ、ルノワールの言葉』
◆◆【4】作者パブロ・ピカソ(1881-1973)について◆◆
ヨーロッパの現代美術に広く影響を与え、8万点という作品数により20世紀最大の画家と呼ばれている。スペインに生まれ、フランスで活動し、彫刻、版画、陶芸、文芸にも手を染めた。「青の時代」「バラ色の時代」「キュビズムの時代」「新古典主義の時代」「シュールレアリスムの時代」と作風の変遷を繰り返したが、大作『アビニョンの娘たち』を描いた1907年以降の絵画作品は、代表作『ゲルニカ』を含めて、キュビズムを鍵として概ね解釈が可能である。その桁外れな女性遍歴により愛人が変わるたび絵を変えたとも揶揄される。
1.生い立ち
1881年10月25日、パブロ・ルイス・イ・ピカソはスペイン南部アンダルシア地方の都市マラガに生まれた。父は絵画教師でマラガ市立美術館館長も務めたホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1841-1913)、母はマリア・ピカソ・イ・ロペス(1855-1939)。
パブロの名は、聖職者でマラガ大聖堂の参事だった伯父の故パブロ・ルイス(1832-78)からもらい受けた。母とその姉妹、祖母の他に、二人の妹が生まれたため、6人の女に囲まれた父子という女性上位の家庭に育つ。
父ホセ・ルイスは幼いパブロに英才教育を施し、8才で最初の油絵を描くと、14才のときには父が筆を折る決意を下すほどの腕前になっていた。父母と三人の子は1891年から95年までスペイン北西端のラ・コルーニャに移り住む。
父の勤める県立美術学校に通い始めた13にも満たないパブロは、クラスの女生徒を愛した。相手の両親は身分の違いを理由に娘を遠ざけたため、心が打ち砕かれ、愛というものを信じない少年となった。1895年、末の妹コンチータが8才で病死すると、神を悪魔に、運命を敵とみなした。
同年カタルーニャ地方の大都市バルセロナに引っ越すと、ラ・ロンハ美術学校に通い、ここで5才年長のマルエル・パリャレスと出会った。この頃からカフェに出入りするようになり、15才のときには売春宿に入り浸っていた。
1897年16才のときマドリード総合美術展の佳作となり、マラガでは金賞を受賞。首都にある美術の最高学府・サン・フェルナンド王立美術学校に合格したパブロだったが、数日で通うのを辞めてしまう。
彼は旧友への手紙に「教師たちは勘違いしている。この僕に絵を教えるつもりなのだ」と書いている。
1898年マドリードを後にすると、パリャレスの故郷オルタ・デ・エブロで8ヶ月を過ごす。ジプシー少年との出会いと別れ。バルセロナに戻ったパブロはなじみにしていた売春婦ロシータ・デル・オロの宿に転がり込んだ。
1899年には生涯の友人となるハイメ・サバルテスや、名家出身の画家カルレス・カサヘマスと出会う。
1900年「4匹の猫」というカフェで開いた初個展は不首尾に終わる。ピカソは「我は王なり」という自画像を描くと、父の資金協力を得て、カサヘマスと共に初めて国境を越えてパリへ向かった。
2.パリのスペイン人
パリ市内のカタルーニャ人の溜り場で、彫刻家マノロ(マヌエル・ウゲ)と知り合う。有名な売春宿にも出入りし始めたピカソは、直ぐにオデットというフランス人と親しくなり、カサヘマスはジェルメーヌ・カルガロというスペイン人モデルに恋をした。
1900年の暮れカタルーニャ人画商のペレ・マニャックがピカソの作品を毎月150フランで引き取る契約を結ぶ。同性愛者だったマニャックは保護者となり、翌年アンブロワーズ・ヴォラールに引き合わせることになる。この年以後1904年まではパリとバルセロナを往復する生活が続いた。
1901年2月17日パリでカサヘマスが死んだ。思い通りにならないジェルメーヌのためにノイローゼになり、彼女の眼前でピストル自殺を遂げたのである。マドリードで訃報を知ったピカソは、妹の死以来の衝撃を受けた。
6月にパリに戻ってから、バルセロナのパレス画廊とパリのヴォラール画廊で19才のピカソの個展が開催された。
展観された作品は印象派やロートレックに影響を受けており、モンマルトルの社交場ムーラン・ルージュやムーラン・ド・ラ・ガレットなどを題材としていた。ヴォラール画廊の個展はささやかな成功と新たな保護者となる詩人のマックス・ジャコブをもたらした。
しかし、カサヘマスが死んでからというもの、ピカソの絵は青一色となっていく。悲しみに満ちた「青の時代」の絵をマニャックは受け入れずやがて疎遠となった。この頃、ピカソは亡きカサヘマスが愛したジェルメーヌとベッドを共にしている。
1904年ピカソは、パリの洗濯船と呼ばれるアパートに居を構えた。
8月4日、ここでフェルナンド・オリビエ(1881-1966)という女性に出会い、ふたりは同棲を始めた。これをきっかけに「バラ色の時代」が到来する。しかし、彼女が唯一の女というわけでもなく、マドレーヌというモデルや、後にドランの妻となるアリス・プランセと付き合っている。
洗濯船のアトリエには多くの友人たち、彫刻家マノロ、画家ドラン、美術評論家のアンドレ・サルモン、詩人のマックス・ジャコブ、ギヨーム・アポリネール、作家でコレクターのレオ、ガートルードのスタイン兄妹が集まった。
1905年4月アポリネールの連れてきたヴォラールが、ピカソの絵30点を2000フランで購入する。ガートルード・スタインの肖像画を80日かかっても完成できず苦闘していたピカソは、1906年4月バルセロナへ旅立った。
ピレネー山麓の村ゴソルで、農民たちやフェルナンドをモデルに豊饒な作品を生み出している。秋にパリに戻ったピカソは、ガートルードを見ずに絵を一気に仕上げてガートルードを満足させ、やはりモデルを必要としない裸婦の連作に取り掛かった。
ドランやマチスなど友人たちの間では、原始芸術への関心が高まっていた。ピカソもアフリカ黒人の木彫りの小像に目を見張る。アフリカ人の彫刻にはアカデミック芸術のカノン(規律)や人体のプロポーションが存在しなかった。
トロカデロ博物館で黒人の仮面から衝撃を受けた画家は、その呪術性にひとり着目した。呪術とは究極の願いを達成するための魔法であり、呪物は敵を斃すための武器である。
彼はいつまでたっても自分を評価しないサロン芸術家や評論家や一般大衆を打倒する必要に迫られていたのである。
ヨーロッパの文学や歴史、伝統的な美意識やルネサンス時代に発展した透視図法、空気遠近法、明暗法など、自分のなかにそれまで培ってきた知識や経験は、印象派や野獣派が登場した現代に有効ではない。
ならば一切がっさい葬り去るしかない。
この過激な破壊主義精神は、仮面との出会い以前に、アルフレッド・ジャリというフランス人から一丁の拳銃と一緒に手渡されたものだった。
3.破壊主義思想
アルフレッド・ジャリ(1873-1907)とは、
北西部ブルターニュ地方に隣接する、マイエルヌ地方のラヴァル出身の劇作家・詩人である。ラテン語とギリシア語に通じ、後のノーベル賞作家ベルグソンに形而上学(メタフィジック)を学んだのち、ペタフィジックという概念を打ち立てた。
彼はわずかな遺産を使い果たした後、残された2丁の拳銃を持って自転車を漕いでパリにやって来た。その34年の短い生涯の中では、1896年の、前衛劇『ユビュ王』の上演によってパリの耳目を騒がせている。
フランスを代表する知識人を集めた劇場で、開口一番、主役のユビュが発したのは「糞ったれぇ!!」の一言だった。轟々たる非難と怒号の渦となり、名優だったジェミエは15分間、舞台で立往生したという。
隊長ユビュはポーランドの王位を簒奪し、貴族を皆殺しして私腹を肥やし、大国ロシアに攻め込むが直ぐに敗れて、船上の人となる。
無知で憶病で恩知らず、強欲な殺人者ユビュは、規制の道徳や美意識を破壊する新しい人間像として、不条理劇の先駆とされ、カフカやジッド、カミュに影響を与え、キュビズム、ダダイズム、シュルレアリズムの源泉となった。
ジャリは小説『日々と夜々』の中で同性愛を、『フォーストロール博士の言行録』ではパタフィジックを、『愛の訪問』では異性愛の不可能性を、『絶対の愛』では近親相姦を、『メッサリーナ』ではニンフォマニア(女性色情狂)を、『超男性』では機械と性愛の類似性を説いている。
実生活でのジャリは、酒と拳銃と自転車をこよなく愛した。セーヌで釣った魚を主食とし、仲間内でも街中でも所かまわず拳銃をぶっ放したが、黒髪で身長151cmの小男、ニッカボッカと長靴下で、博学の奇人は誰からも愛された。
作曲家のクロード・テラスや画家のボナールの仕事仲間で、自ら挿絵を描いて木版画も刻んだジャリは、絵画を見る目にも優れ、同郷のアンリ・ルソーやシャルル・フィリジェを見出し、またゴッホやゴーギャンやピカソらの前衛芸術を賞賛した。
女嫌いだったジャリの、唯一の女友だち・ラシルド夫人と娘ガブリエルによれば、彼は日常生活において意図的に無法者のユビュを演じており、自らのタガを外すためにアルコールを痛飲していたらしい。やがてまったく歯止めが利かなくなったジャリは健康を害し、極貧の内に没した。
ジャリの出身地ラヴァルは、フランス史上最悪の猟奇殺人者、ジル・ド・レ(1404-40)を生んだ土地柄であり、貴族だった彼の直轄領でもあるのだが、
その度を越えた飲酒癖、演劇への嗜好、女嫌い、放蕩癖、金銭感覚、黒髪と黒髭など、共通する点があまりに多く、ジャリがその破壊主義精神のモデルとした可能性もあると、筆者は考えている。
1905年に文芸雑誌のパーティで、8つ年下のピカソに出会ったジャリは、洗濯船やヴォラール画廊をしばしば訪れている。ジャリに魅せられたピカソは、奇矯な振る舞いや拳銃を発砲する癖を早速まねている。
ジャリの思想とアフリカの仮面を母体として生み出されたのが、1907年の大作『アビニョンの娘たち』であった。アビニョンとは、バルセロナの売春街アビニョーを指し、春をひさぐことが娘たちの仕事なのだ。
この年の暮れのこと、詩人のアポリネールの紹介で洗濯船を訪れた画家のジュルジュ・ブラックは、「ガソリンを飲んで火を吐く人間を見る思いだった」と述べているが、彼はこの絵の重要性を一目で理解した唯一の芸術家だった。
ブラックは以後ピカソの良き相棒となり、1914年に第一次大戦に出征するまで、一心同体になって「キュビズム」の創造に邁進することになる。
4.絵画の革命と女性たち
キャンバスの上では、『アビニョンの娘たち』以前から顔の単純化が始まっていた。1908年、平面的だった裸婦像に分析的な色面が出現。モチーフに静物も選ばれるようになる。翌年のオルタ・デ・エブロへの旅をきっかけに風景画も加わった。同時にフェルナンドの頭部を分析して油絵と彫刻を制作した。
1910年にはキュビズムの肖像画を3点完成。1911年から12年にかけては画面の抽象化が進み、分析的キュビズムの傑作『MA JOLIE』が描かれた。この絵には新しい愛人エヴァ・グエル(1885-1915)への愛情が表されている。
1912年ブラックは、かつてのピカソの恋人マルセル・デュプレと結婚。当時ブラックとピカソが到達した「分析的キュビズム」は、抑えられた色彩と明暗のリズムの美しさで、今もなお新鮮な輝きと造形精神を伝えてくれる。
二人はさらにキュビズムの冒険を推し進めた。余りにも画面が抽象化したためにリアリティを取り戻す必要があったのだ。こうして生まれたのが、印刷された模様を張り付けるパピエ・コレという手法で、同時に色彩も復活した。
そして分割された色面が総合され、「総合的キュビズム」の時代となる。
もはや画面上の制約が解き放たれて自由になり、それに魅せられて多くの追随者が現れた。同時に画面の緊張感は失われ、マンネリ化していき、キュビズムはやがて終焉を迎えることになる。
愛人エヴァの体は病魔に侵されていた。彼女が結核に苦しむ夜々、ピカソはエレーヌ・ドタンジャン男爵夫人といくども夜を過ごした。エヴァが入院するとガピ・レスピナースというパリジェンヌが夜の相手を務めた。
1916年12月14日エヴァが死んだ。ひどく落ち込んだピカソの慰めはガピだけだったが、年が明けるとパックレット(エミリエンヌ・ジェロー)、イレーヌ・ラグー、それにマルチニック出身の黒人美女とも関係を持った。
この年ピカソはローマを訪れ、ロシア人・ディアギレフのバレエ団の舞台美術を担当。そこで25才の踊り子オルガ・コクローヴァ(1891-1955)と恋に落ち、1918年に結婚。3年後息子ポールが生まれた。
ロシアの上流階級出身のオルガは前衛芸術を嫌ったため、1919年から24年にかけて彼女の好みのままに、ピカソの絵画には写実性が復活した。そのためにこの頃の作品は「新古典主義の時代」と命名されている。
しかし、次第にオルガへの愛情が薄れていくのに比例して、作品の写実性も失われていった。1925年、詩人アンドレ・ブルトンが創始したシュール・レアリズム展に参加。以後「シュール・レアリズムの時代」と呼ばれるようになる。
1927年1月、46才のピカソはメトロの出口で17才の美少女マリ=テレーズ・ヴァルテル(1909-77)を見初めた。半年後マリ=テレーズはなすすべもなく愛人とされ、ピカソは従順な彼女をサディズムとエロスの実験のしもべとした。
1930年にはスリルを味わうため、オルガのアパートの前にマリ=テレーズを住まわせた。1933年になると、オルガが思い通りにならぬといっては暴力をふるい、マリ=テレーズが従順すぎるといっては暴力をふるうようになった。
オルガは別居を強いられたが、1955年に亡くなるまで頑として離婚を受け入れなかった。マリ=テレーズは妊娠しながら二人の離婚を待っていた。1935年9月5日、ピカソ54才の長女マヤ(マリア・デ・ラ・コンセプシオン)が生まれたが、出生証明書に父の名は記されていない。
この頃ピカソはシュール・レアリストの集まるカフェで、詩人のポール・エリュアールから、画家で写真家のドラ・マール(1907-97)を紹介されている。
彼女は本名をアンリエット・テオドラ・マルコヴィッチといい、フランス人の母とユーゴ人建築家の父を持ち、スペイン語も解すシュール・レアリズムの美神だった。
5.ゲルニカ
1935年10月12日、友人ハイメ・サバルテスが妻子をスペインに置き去りにしてピカソの元にやって来て、秘書を務める。画家はこの頃、エッチングによる版画『ミノタウロマキア・シリーズ』手がけていた。モチーフの猛牛と生贄の美女は自分とマリ=テレーズを表していた。
シュール・レアリストのポール・エリュアールは、妻のガラが画家ダリの元へ走った後、新たに迎えた新妻ヌッシュをピカソにも分け与えた。
1936年8月、ピカソはカンヌの丘陵地帯にあるムージャンで休暇を過ごす。ドラ・マール、エリュアール夫妻、画商のポール・ローザンベール夫妻、写真家のマン・レイといった取り巻きが一緒だった。
パリに戻るときにはムージャンから美人姉妹を連れ帰った。姉のサバルテスは料理を担当、妹のイネスはピカソの終生のメイドとなる。
同年ピカソは画商のヴォラールから、ヴェルサイユに近いトランブレ・シュール・モルドルにアトリエと家を提供された。ここにマリ=テレーズとマヤを住まわせておいて、ドラ・マールとパリで深く付き合い始めた。
1937年4月26日内戦下のスペインで、大西洋岸フランスとの国境近いバスク地方の町ゲルニカが爆撃された。ピカソは抗議の怒りを込めて、3.3×7.6mの大作を制作する。ドラ・マールは1か月間張り付いて制作過程をカメラに収めた。
ある日アトリエにマリ=テレーズがやって来て、画家に対して、自分かドラ・マールかどちらが出ていくべきかを尋ねた。ピカソは自分たちで戦って決めなさいと言った。
ピカソがゲルニカを描く隣で、「二人は取っ組み合いを始めた。あんな面白いことはなかった」とピカソは述懐する。
この超大作はパリ万国博覧会のスペイン館に展示された。当時の評価は高くなかったが、1939年にアメリカに移され、ニューヨーク近代美術館に展示されるに及び戦後世界的名声を確立することとなる。
1937年夏のムージャンでは、ドラ・マールとヌッシュ・エリュアールとローズマリーという女性がピカソの相手を務めている。9月にパリに戻ると、画家はキャンバスの上のドラの顔をゆがめ始めた。こうして『泣く女』が完成した。
1943年5月、62才のピカソは彫刻家マイヨールの生徒だったジュヌヴィエーブ・アリコと、フランソワーズ・ジロー(1921-)と出会う。フランソワーズは法律の勉強を諦め、画家として自立することを目指していたが、彼女もまたピカソの魔力に屈した女の一人となった。
1944年2月、ドイツ占領下のパリで、ユダヤ人のマックス・ジャコブが逮捕され収容所送りとなった。いずれはアウシュヴィッツかダッハウに送られるだろう。手紙を受け取った友人たちは救援運動を展開した。
詩人のジャン・コクトーは、ジャコブがカトリック信者だったという嘆願書を書いて、ドイツ大使館の担当官に手渡した。友人たちの中で、唯一署名を拒んだのがピカソだった。彼は係累を忌む。友を裏切ってまでも、厄介事が自分に波及するのをひたすらに怖れた。
マックス・ジャコブの作品を愛好していた担当官はゲシュタポから釈放許可を取り付け、友人たちが救援に向かうが、その前日既に詩人は病死していた。翌月追悼式が教会で営まれたが、ピカソは出席していない。
6.フランソワーズVS.ジャクリーヌ
同年8月パリが解放されたとき、ド・ゴール将軍と、パリを脱出しなかった有名人ピカソは「時の人」となった。「私は仕事に没頭し、静かに友人たちと会い、自由の回復を待っていたのです」と画家はインタビューに答えた。
偉大な芸術家を一目見ようと連日詰め掛けた人々の中に10代の女子高生が大勢いて、関係を持った内の一人がジュヌヴィエーヴ・ラポルト(1926-2012)だった。
当時フランソワーズはピカソの言葉を信じて、ドラ・マールという愛人の存在だけに悩まされていたが、オルガやマリ=テレーズとの関係も決して終わっていた訳ではなかった。
あるときピカソはフランソワーズに自分の過去に触れさせようとした。彼女を洗濯船に連れていって当時の逸話を語ったあと、最後に小さな家を訪問する。「君に人生というものを教えてあげたい。」
病の床に横たわっていたのは、歯がすべて抜け落ちた老女ジェルメーヌだった。「若く美しかった彼女は、私の友人を苦しめ、友人は自殺した。」
ピカソは云う。「プードル犬はどれをとっても同じだ。女性だってそうなんだ」「私にとって大切な人間は一人もいない。他人は埃みたいなものだ」
ドラ・マールは崩壊の危機にあった。フランソワーズは抗った。同棲を強要されると、気持ちを整理するためにしばらくひとりになりたいと、手紙を書いたことがサディストの導火線に火を付ける。突如現れたピカソは、彼女の頬に咥えていたタバコの火を押し付けた。火傷の痕は長く残った。
ピカソは1945年からパリのムルロ工房で石版画を、1946年からは南仏のヴァロリスで陶芸を始めた。1950年からは過去の大家たちのコピー作品を作り始める。創造の泉が枯れ始めていたのだ。
フランソワーズとの間には、1947年に長男クロードが、1949年に長女パロマが生まれた。別居中のオルガが彼女たちにしつこく付きまとうこともあった。家計はピカソが管理し、フランソワーズは貧しさに喘いだ。
ヴァロリスの陶芸工房ではジャクリーヌ・ロック(1927-1986)という女性が働いていた。20代後半で離婚したばかりの彼女とピカソは関係を持った。
フランソワーズをこれを責めた。ピカソは許しを請うため、彼女のいるパリまでわざわざやって来たが、これはジュヌヴィエーヴ・ラポルトと逢引をするためでもあったのだ。
1953年、子供を連れてフランソワーズは離別し、ギリシャ人コスタス・アクセロスの元へ去っていった。ピカソは生涯で唯一の敗北を味わった。
ジャクリーヌが愛人筆頭となった。1954年ピカソは『画家とモデル』のシリーズを制作。一方、フランソワーズは学生時代の友人だったリュック・シモンと家庭を持った。
1955年ピカソはカンヌの丘に別荘ラ・カリフォルニー購入。
1957年スペインの巨匠の作品を題材に『宮廷の侍女シリーズ』を制作。
1958年南仏エクス・アン・プロヴァンスのヴォーヴナルグ城を購入。
別れたフランソワーズの子供たちが父の名を名乗れるよう、ピカソ側に求めたとき、彼はリュックとの離婚を条件に、結婚を申し出た。
1961年2月、夫との協議の末にフランソワーズは離婚したが、3月2日にピカソが再婚した相手はジャクリーヌだった。ピカソはフランソワーズへの復讐に成功したのである。
同年カンヌの北のムージャンに夫婦は「ノートル・ダム・ド・ヴィー」という別荘を購入して移り住む。
離婚や離別によって父と離れ離れになった子供たち、オルガの息子ポールと3人の孫、マリ=テレーズの娘のマヤ、フランソワーズの子のクロードとパロマには、父ピカソに会いに行くことはいつでも可能だった。
「私があの子らの年齢だったとき、ラファエロのような絵を描くことができた。だが、あの子たちのような絵が描けるようになるまで一生かかったよ」とピカソは語ったものだ。
しかし長年、ライバルたちの子供がピカソと面会を楽しむのを苦々しく思っていたジャクリーヌは、結婚を境に強権をふるい始める。彼らは実父と一切面会できなくなった。ピカソを制作に集中させるためには、彼の古い友人たちも遠ざけた。
1963年末、クロードとパロマが面会拒否されたことをきっかけに、フランソワーズは著書『ピカソとの生活』の出版に踏み切った。
この暴露本に激怒したピカソは、発禁処分を求めて三度提訴。フランソワーズはピカソの残酷な仕打ちについて、証明出来る事実しか書かなかったので、三度とも勝訴した。
ピカソと離れてほそぼそと暮らすマリ=テレーズも、ジャクリーヌの入れ知恵によって苦境に陥った。ピカソから毎月送られていた生活費が突如打ち切られたのだ。マリ=テレーズは弁護士を立て交渉の末、支払いは再開された。ピカソから30年間支払われ続けたという実績が決め手となった。
7.晩年とその遺産
ピカソの芸術への批判は、後半生に集中している。
「ピカソはだめだ。キュビズムの時期を除いては初めからまったくつぼをはずしている。しかも、そのキュビズムの時期だって、半分は誤解していたのだ」 アルベルト・ジャコメッティ
「見る者はボードビルショーのスターのなれの果てを思い出すことだろう。あちこちが軋んでいるのに、それでもまだ最上級の芸を編み出しているふりをしている。
ピカソが幸福なのは仕事をしているときだけだ。ところが彼はもはや仕事をすべき対象を自分の中に持っていない。そこでほかの画家のテーマを借りてくる。彼は他人が焼いた壺や皿に絵を描くが、それは子供の遊びに堕してしまっている」 ジョン・バーガー
1972年80才のピカソは、描き上げた最後の自画像を前に語った「昨日、絵を描いたよ。何かをつかまえたような気がする……これまでとは違ったものだ」と。
だが、それは猿を描いたとしか思えない陰惨な自画像だった。
1973年4月8日、91才のピカソはムージャンの自宅で死んだ。死因は肺水腫。
4月16日遺骸はヴォーヴナルグ城に埋葬され、ブロンズ彫刻が墓石として設置された。ジャクリーヌは知らなかったのだが、それはマリ=テレーズをモデルに制作されたものだった。
ピカソの遺産総額は2億6000万ドル。残された作品は油彩画1885点、彫刻1228点、陶器2880点、銅版画18095点、石版画6112点、リノリウム版画3181点、デッサン7089点、スケッチ4659点。
遺産継承者は6人で、その配分の割合は、妻ジャクリーヌが3割、前妻・故オルガの孫マリーナが2割、ベルナールが2割、愛人マリ=テレーズの娘マヤが1割、愛人フランソワーズの子のクロードが1割、パロマが1割だった。
夫の死に際してジャクリーヌは、愛人たちの子供にも孫にも、終生仕えたメードのイネスにも、誰一人別れの挨拶をすることを許さなかった。故国からわざわざ訪れた97才の朋友マヌエル・パリャレスも雨の中でただ佇んでいた。
オルガの息子ポールとその長男パブリートも門前払いされた。
直後にパブリートは服毒自殺を図り、3か月後に絶命。
1975年6月6日ポールは麻薬とアルコール漬けの末に病死。54才。
1977年10月20日マリ=テレーズが縊死。68才。ピカソの世話をする為に。
1986年10月16日ジャクリーヌが拳銃自殺。59才。
ピカソは生涯におそらく200人以上の女性と関係を持ったと推定される。破壊主義精神は芸術だけでなく、女性に対しても遠慮なく向けられた。
ドラ・マールはピカソの仕打ちのために精神を病んだが何とか90才まで生きた。フランソワーズは98才の今も健在である。
◆◆【5】肖像画の内容について◆◆
本作品は分析的キュビズムの傑作の一つに数えられている。肖像画とキュビズムとは相反する概念なのだが、ピカソは巧みにこれを両立させており、ピカソが描いた3点のキュビズム肖像画の中でも最も評価が高い。
20世紀初頭まだ何者でもなかったピカソは、劇作家で詩人のアルフレッド・ジャリに認められ、破壊主義思想を授けられた。「伝統的な価値観と美意識を木っ端微塵に吹き飛ばさなければ何も生まれない」
ピカソはジャリに魅了され、そのアウトローな生き様をまね始める。ピカソが破壊すべきは、アカデミズム(見えるままそっくりに描くサロンの芸術)だけではなかった。
当時は既に、印象派、新印象派、後期印象派、象徴派、野獣派といった前衛芸術が誕生しており、ピカソはそれ以上に前進しなければならない。
目に見える現象から解放されたいという願望、それをかなえる鍵が原始芸術だった。これは描写的であると同時に反自然主義的な芸術である。
思想的な裏付けは晩年のジャリから、形状はアフリカ彫刻と仮面から頂戴した。それらの特異な外見に気を取られ、誰も気にしなかったその呪術性にもピカソだけが注目した。
1907年ピカソは『アビニョンの娘たち』を完成。これがキュビズムの原初の形を表していた。
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1.キュビズムとは何か
一言でいえば、「物と対峙しつつ、目に見える形状を再現せずに、対象を再構成する方法である」
「キュビズム」Cubisme という言葉は、角砂糖あるいは立方体を表すcubeから生まれた。ルービック・キューブのそれである。
そのネーミングは、1908年にジョルジュ・ブラックがカーンワイラー画廊で行った個展に由来する。
立方体が積み上げられたような風景画を見た画家のアンリ・マチスが「角砂糖のようだ」とつぶやいたのを受けて、
評論家のルイ・ヴォークセルが、新聞『ジル・プラス』に「ブラックは形態を軽視して、風景、人物、家などの一切をキューブに還元している」と書いたことで、翌朝大衆はキュビズムの誕生を知ることとなった。
キュビズムの展開は3つの時期に区分され、
1907-09年を「初期キュビズムの時代」
1909-12年を「分析的キュビスムの時代」
1912-14年を「総合的キュビスムの時代」
と呼ぶ。主要な参加メンバーはピカソとブラックに限られる。
「初期キュビスム」は「セザンヌ風キュビズム」とか「アフリカ彫刻風キュビズム」とも呼ばれ、画面は平面化されているが、対象と背景はまだ互いに独立していて、頭部にアフリカの仮面の面影を残す。切り刻まれた空間表現(切子面)の芽生えも見られる。
「分析的キュビズム」では、画面上の要素の均質化と平面化が促進され、対象のリアルな形状は失われ、全体が分割された幾何学形状(切子面)の集合体に見えるようになる。色彩は数色に制限され、明暗は立体感の描写よりも、形の前後関係と画面のリズムを表すために用いられた。
「総合的キュビズム」になると、分割・抽象化され過ぎた対象に、本来の色彩や質感が復活し、まとまりが現れる。抽象から出発した芸術が、対象の再現に一歩踏み出したのである。それと共に形や明暗のリズムや緊張感が薄れ、また多色化によって画面は散漫な印象となった。
別名マニエリスム(マンネリ)化したキュビスムとも言われ、多くの追随者(キュビスト)たちを生んだのはこの時代の様式であったが、その作品はいずれも亜流の域を出なかった。
手法としては「パピエ・コレ(紙片の貼り付け)」「コラージュ(異物の貼り付け)」「アッサンブラージュ(廃品の寄せ集め)」が導入された。
8年という期間の中で展開されたキュビスムは、芸術家の意識に文字通り革命をもたらし、未来派、ピュリスム、オルフィスムを生み、エコール・ド・パリ(パリ派)、ダダイズム、シュールレアリズム、抽象画、抽象表現主義、ポップアートへとつながる20世紀の芸術運動に大きな影響を及ぼした。
『分析的キュビスムの五原則』
その1.オールオーバー(画面の均質性)
モチーフである人物・風景・静物等の対象物と空間を、押しつぶして画面を平面化する。画面のどこであっても等価値にして、どの部分を取っても同じ緊張感をはらませること。
その2.パッサージュ(通り道/はみ出し)
対象物を輪郭線で囲わない。囲んで図形を閉じてしまうと画面に階級が生じる。対象と背景という区別が生じる。これに対して、輪郭線をぶつ切りにすると、隣り合う2つの面が境界線を越えて浸透し一体となる。
その3.多視点構図
一点透視図法のように視点を固定しないで移すこと。上下左右裏から見た形状を、正面から見た形状に描き加えること。
その4.線のリズム
対象物や空間に線を引いて分割する。分割したら対象をずらす。これを繰り返す。次に画面を支配する水平、垂直、斜めの構造線を入れ、これらが響き合うように配置する。
その5.明暗のリズム
色は3、4色程度(白・黒・褐色、或いは青か緑))に限定。明暗は立体表現・モデリングのためでなく、面の前後関係を示したり、リズムを表現するために使用する。引いた線は、画面の都合に応じて片ぼかししたり、線のまま残したりしてバランスを取る。
2.キュビズム肖像画について
さて、標題作「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」に戻ろう。
予備知識を持たない鑑賞者には、割れた黒いガラスが画面を埋め尽くしているように見えるはずである。薩摩のガラス切子をイメージされた方もあった。
板ガラスの裏面から油絵具で絵を描き、表からガラス越しに鑑賞する絵画を『ガラス絵』と呼ぶが、ちょうどガラスに描かれた男の像に向かってピストルをぶっ放した印象と言おうか。
「ピカソ?あの変な絵を描く画家でしょ」で言われても仕方がないが、ピカソにしてみれば大真面目だった訳で、1906年から寝ても覚めても一つの命題に取り組み、4年後やっとこの様式に到達したのだった。
この絵の中で一番に目に飛び込んで来るのはヴォラールの頭部であり、分析化が抑えられているため、それとわかりやすい。閉じた両目と鼻と口と、灰色のひげが、ほぼ定位置にあるため、誰の眼にも顔と認識される。
額から頭頂部にかけては上方に引き伸ばされている。日本の戦国武将の面構えをした男が兜を被っている様にも見えるが、実は、これは多視点構図の表現であった。
正面から見たヴォラールの容貌に真上から見た頭部を合体させているのだ。
頭部全体は大きなまとまりとして輪郭線も閉じていて、顔とそれ以外の部分とが階級化されていることは、先に掲げた『キュビスムの五原則』と矛盾している。
また明暗法も、頭部のヴォリュームをそのままに表現している。光が左上方から当たり、右3分の1が暗い陰となって、ただ立体をモデリングするために用いられている。ピカソが避けようとしていたアカデミックな表現を踏襲しているのだ。
キャンバスの画面からは、頭部だけが逸脱しており、オールオーバーな平面化は破綻してしまっている。
一方、頭部以外の表現に目を転じてみると、まさにこの絵は典型的な分析的キュビスムの様式で描かれている。
ヴォラールの頭の向かって左の薄明るいコーナーでは、丸テーブルに載ったワインボトルが分析(分解)されている。それらは周囲の空間を巻き込み、押しつぶされ膨張する。
頭の右に名3冊並んだ書物が背表紙を見せている。書物とワインはヴォラールの人物像にストレートに関連付けられるモチーフであった。
書物から視線を垂直に目を降ろすと、突き出た前襟の下に胸ポケットと白いハンカチーフが目に映る。襟の三角形と響き合う形で、画面下部に逆三角形が重なって描かれる。ヴォラールの左手がポケットに突っ込まれていることを暗示しているようである。
視線を左に転ずれば、ワイシャツの右腕の袖口とピンクのカフスボタンのような物が見える。そのすぐ脇には、横から見た逆三角形のカクテルグラスに、上からグラスを見た円の形が添えられている。
ヴォラールは退屈なポーズの合間にワインを飲んでいたかもしれない。
右肘から視線を上げると丸い肩が認められる。黒いあごひげの下に白いYシャツのカラーが強く描かれ、鼻や額の強い明部と呼応する。
画面を覆う分割された切子面の多様な形と明暗対比、限定された色彩の中の肌色とダークブルーの色相対比が美しく、さらに盛り上がった白い絵具の凹凸のリズムが、目を楽しませる。
3.キュビスムにおける情緒の問題
輪郭線というものは実は、自然界には存在しない。
西洋人は科学的にそう説明する。しかしおそらくこれはレオナルド・ダ・ヴィンチが生きていたルネサンス時代以降の話であって、それ以前の西洋の美術では輪郭線は大切に扱われている。
東洋人にとっては古来、線は実在であり、芸術の中では作品の生死を分けるものと考えられていた。それは現代でも変わらない。
西洋と東洋、いずれの世界においても、輪郭線とは、物と空間を区別するために生まれた人工的な概念であり、何もない平面に決定的な線を引くという行為には、人間の意志の最高度の強さが示される。
この線によって人間の顔を分断することは、制作を呪術的行為と考えるピカソにとっても容易なことではなかったらしく、制作に当たっては情緒的な選択が行われた。彼がモデルにした3人は、いずれも男性であった。
ヴィルヘルム・ウーデ、アンブロワーズ・ヴォラール、そしてヘンリー・カーンワイラーは、画家にとって協力者であると同時に略奪者でもある美術商なのだ。
画家は当時最も身近にいた愛人のエヴァの顔を分割しようとはしなかった。
またその描き方にしても、キュビズムの原理に従うとすれば、顔が似ていなくてもまったく問題はないのである。
ピカソたちの追随者であるキュビスト、フアン・グリス、フェルナン・レジェ、ジャン・メッツァンジェ、ディエゴ・リベラらは自分の作品にキュビスムの原理を厳格に採用している。
しかしピカソは、均質な画面・完全な平面というものを損なったとしても、モデルに似せようとする態度を排除していない。これもドライなピカソらしからぬ、情緒的な態度といえる。
若い頃、キュビズム理論を深く追求した画家の野見山暁二は云う、
「キュビズムで、情緒を排除しようとして、払い除けられなかった人が、どうしても払い除けられないものがあるから、残っているんではないのか」と。
野見山の見方はどこまでも優しい。
ピカソの一生に描かれた作品を俯瞰してみるとき、キュビズムがどの絵画にとっても背骨になっていることに気づく。同時にある思いが抑えようもなく浮かんでくる。
キュビズムを通して獲得した、ピカソ絵画の表現性は優れたものであるにも関わらず、彼のどの作品を取ってみても、情感や芸術作品としての深みがまったく感じられないのである。皆、張りぼての様に表面的なのだ。
それらの中には、人生への関心とか、日々の営みの中で格闘する人間の切実な思いなどは一切刻印されていない。魂をどこかに置き忘れてきたようなものである。芸術家が子供の様に無心に絵が描けたとして、それが一体何だというのだろう。
8万点になんなんとする膨大な作品群の、その無内容さに気づいたとき、慄然とする。このピカソ芸術全体に共通する欠陥は、彼の人間性に帰するものと言わざるを得ない。
〈参考文献〉
「画商の思い出」A・ヴォラール著 小山敬三訳(美術公論社)1980年
「ピカソ 偽りの伝説」A・S・ハフィントン著 高橋早苗訳(草思社)1991年
「キュビスム」エドワード・F・フライ著 八重樫春樹訳(美術出版社)1973年
「わが生涯の芸術家たち」ブラッサイ著 岩差鉄男訳(リブロポート)1988年
「語るピカソ」ブラッサイ著 飯島耕一 大岡信共訳(みすず書房)1968年
「パリの版画工房」フェルナン・ムルロ著 益田祐作訳訳(求龍堂)1981年
「人物画論」フランカステル著 天羽均訳(白水社)1987年
「20世紀美術」ニコラ・スタンゴス編著 宝木範義訳(PARCO出版局)1985年
「祝宴の時代:ベル・エポックと『アヴァンギャルド』の誕生」ロジャー・シャタック著 木下哲夫訳 (白水社)2015年
「アルフレッド・ジャリ:『ユビュ王』から『フォーストロール博士言行録』まで」ノエル・アルノー著 (水声社)2003年
「超男性ジャリ」ラシルド夫人著 宮川明子訳(作品社)1995年
「ユビュ王」アルフレッド・ジャリ著 竹内健訳(現代思潮社)1970年
「超男性」澁澤龍彦訳(白水社)1989年
「フォーストロール博士言行録」アルフレッド・ジャリ著 相磯佳正訳(国書刊行会)1985年
「ユビュ王 comic」アルフレッド・ジャリ原作 フランツィシュカ・テマソン画 宮川明子訳(青土社)1993年
「25人の画家19ピカソ」神吉敬三編著(講談社)1980年
「アサヒグラフ別冊美術特集 西洋編1 ルソー」木島俊介解説(朝日新聞社)1987年
「巨匠の世界 ピカソ 1881-1973」レイル・ウァーテンベイカー著 東野芳明
監修(タイム ライフ ブックス)1974年
「巨匠の世界 デュシャン 1887-1968」レカルヴィン・トムキンズ著 東野芳明
監修(タイム ライフ ブックス)1969年
"PABRO PICASSO RETROSPECTIVA" THE MUSEUM OF MODERN ART,NEW YORK, WILLIAM RUBIN
"Picasso and Braque PIONEERING CUBISM" THE MUSEUM OF MODERN ART,NEW YORK, WILLIAM RUBIN
◆◆【6】次号予告◆◆
20世紀の最初の年、天才彫刻家が二人生まれています。
イタリアのマリノ・マリーニとスイスのアルベルト・ジャコメッティです。いずれも肖像彫刻の名手であった彼らを順に紹介する予定です。
次回はマリーニの肖像彫刻「イゴール・ストラヴィンスキーの肖像」です。どうぞご期待ください。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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