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- No.29 「イゴール・ストラヴィンスキーの肖像」
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★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 マリーニ作「ストラヴィンスキーの肖像」
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像彫刻の内容について
【6】 次号予告
◆◆【1】「イゴール・ストラヴィンスキーの肖像」◆◆
マリノ・マリーニ展は、1978年の東京国立近代美術館、1997年の東京ステーションギャラリーをメイン会場として開催されています。
また彼の作品は世界の多くの美術館に収蔵されており、日本国内でもおよそ20箇所で見ることができます。
ただ残念なことにそのほとんどが「馬と騎士」をモチーフにした彫刻及び版画作品であり、彼の見事な肖像彫刻を見られるのは、私の知る限りメナード美術館(愛知県小牧市)のみで、まとまって見られるのはミラノの近代美術館しかありません。
けれどもマリーニの肖像彫刻は、わざわざイタリアにまで足を運ぶに値する、特筆すべき様式を湛えています。
★★★マリーニ作「ストラヴィンスキーの肖像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p29.html
◆◆【2】肖像データファイル◆◆
作品名: イゴール・ストラヴィンスキーの肖像
作者名: マリノ・マリーニ
材 質: ブロンズ(彫刻)
寸 法: 23.5×17.0×20.0cm
制作年: 1950年
所在地: マリノ・マリーニ美術館(ミラノ近代美術館)
注文者: イゴール・ストラヴィンスキー
意 味: ストラヴィンスキーの依頼によってマリーニが制作したもの。
しかしながら作曲家は彫刻の制作を発注したのではなく(制作費を負担したわけではないので)、作品を所有することはなかった。
ストラヴィンスキーの望みは自分を写した彫刻が高名な彫刻家マリーニによって生み出されることであり、同時にマリーニにがこれを引き受けた理由も、作曲家に人間的興味を抱いたからに他ならない。
◆◆【3】像主について◆◆
イゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)は、ロシアに生まれアメリカに帰化した20世紀最大の作曲家の一人である。
1882年6月17日、ストラヴィンスキーはサンクトペテルブルク近郊に生まれている。父はマリンスキー劇場の有名な歌手。9才からピアノを学ぶが、父の意向でペテルブルク大の法学部に進んだ。
1902年20才で作曲家となる決心を固め、大作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)に師事して決定的な影響を受けた。この年に本格的な習作「ピアノ・ソナタ」を完成。
1907年25才のとき「交響曲変ホ長調」(作品番号1)を発表。以後88年の生涯を全うしたその活動は3期に分けられる。
《初期 原始民族主義の時代》
1909年2月、前年に作曲した「スケルツォ・ファンタスティック」と「花火」の2曲がロシア・バレエ団を主宰する天才興行師セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)に認められる。
彼の依頼によって三大バレエ作品である「火の鳥」(1910年)、「ペトルーシュカ」(1911年)、「春の祭典」(1913年)が作曲され、パリで初演された。
ロシアの古い民話をモチーフとし、ロシア民謡風の旋律と大編成のオーケストラによるエネルギッシュで壮大な音楽は大成功を収める。中でも「春の祭典」の初演は、ディアギレフの意図した通りの一大センセーションを惹き起こした。
《中期 新古典主義の時代》
第一次世界大戦とロシア革命によってロシアに戻れなくなったストラヴィンスキーは、スイス国内を転々としながら、「プルチネッラ」(1920年)、オペラ・オラトリオ「オイディプス王」(1927年)、「詩篇交響曲」(1930年)、「3楽章の交響曲」(1942-45年)を発表した。
1920年からはフランスに住み、ピアニスト或いは指揮者として自作をステージで演奏した。34年にはフランス国籍を取得する。
1939年に渡米。以後西海岸に永住することになる。
《後期 十二音技法の時代》
オーストリアの作曲家シェーンベルク(1874-1951)が確立した十二音技法を彼の死後、積極的に取り入れる様になったストラヴィンスキーは、
「七重奏曲」(1953年)、「カンティクム・サクレム」(1955年)、「トレニ」(1958年)、「説教・説話・祈り」(1961年)、「レクイエム・カンテイクルズ」(1966年)などの精緻を極めた宗教的合唱曲やバレエ音楽「アゴン」(1957年)を作曲した。
1959年には来日して1ヶ月滞在。NHK交響楽団にて「火の鳥」を指揮した映像を残している。(またベートーヴェンの作曲法を語る興味深い動画も見ることができる。)
https://www.youtube.com/watch?v=EnkshojTyYk
https://www.youtube.com/watch?v=oJIXobO94Jo
1971年4月6日ニューヨークで死去。遺言により、ディアギレフの眠るベネチアのサン・ミケーレ島に埋葬された。
ディアギレフは恩師リムスキー=コルサコフに師事したこともある同門の先輩であり、生涯忘れえぬ恩人だった。
◆◆【4】作者マリノ・マリーニ(1901-1980)について◆◆
20世紀イタリアの彫刻家。エトルリア美術を育んだトスカーナ地方の出身。馬や騎手をモチーフとした力強い作品で知られ、イタリアの具象彫刻を代表する一人である。絵画や版画作品も多い。
イタリア中部トスカーナ地方の都市、フィレンツェ近郊の町ピストイアに、マリノ・マリーニは双子兄妹として生を受けた。父は銀行家であり、情操豊かな母の血が強く流れている。
トスカーナ地方は、古代ギリシャ文明とローマ文明の狭間に誕生したエトルスク王国の中心として栄えている。そして二つの文明とは体温の異なるエトルリア美術はマリーニの芸術に決定的な影響を及ぼした。
1915年14才の少年はフィレンツェにドナテッロとミケランジェロの彫刻を見に行ったとき、フランスの大彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)に出会っている。
1917年、後年詩人となった妹エグレと共に、フィレンツェの美術学校に入学し、絵画科と版画科に籍を置いた。
1919年画家ガリレオ・キーニ(1873-1956)に絵画を学ぶ。1922年からは絵画を続けながら彫刻科コースに登録し、ドメニコ・トレンタコステ(1859-1933)の指導を受けた。
1926年フィレンツェに定住し、初めてのアトリエを持つと同時に初めて肖像彫刻を制作。
1928年ミラノのノヴェチェント展に出品。ノヴェチェントとは20世紀を意味し、ここにはカルロ・カッラ(1881-1966)、マリオ・シローニ(1885-1961)、マッシモ・カンピリ(1895-1971)ら当時を代表する気鋭の芸術家たちが集結していた。
同年パリで、ロダンの弟子だったシャルル・デスピオ(1874-1946)やアリスティド・マイヨール(1861-1944)と出会う。
1929年ミラノ北東の小都市モンツァの美術学校彫刻科教授となり、1940年まで在籍した。この頃、大地の女神ポモナとしての女性像を制作。
1930年パリでカンピリ、デ・キリコ、ジーノ・セヴェリーニ、ピカソ、マイヨール、ブラックらと親交を結ぶ。
1933年カンピリと二人展開催。
1934年ドイツ旅行で、バンベルグのハインリッヒ二世の騎馬像に感銘を受ける。
1935年からポモナの連作を開始。第2回ローマ・クワドリエンナーレで彫刻大賞受賞。
1938年メルチェデス・ペドラツィーニと出会い結婚。マリーニは彼女をマリナと呼んだ。
1940年トリノの美術学校彫刻科教授を1年間だけ務める。
1941年ミラノのブレラ美術学校彫刻科教授就任。
1942年、第2次大戦中モンツァのアトリエを破壊され、スイスに移る。ここでジャコメッティやファイニンガ―、ジェルメーヌ・リシェ親交を深める。
1943年ロカルノ近郊のアトリエえ、騎馬像の連作に着手。
1946年大戦後、ミラノに戻り、ブレラ美術学校彫刻科教授。
1948年アメリカの画商クルト・ヴァレンティン、イギリス人彫刻家ヘンリー・ムーア、アメリカの大コレクター、ペギー・グッゲンハイムと出会う。
1950年、クルト・ヴァレンティンが経営するニューヨークのブッフホルツ画廊で個展。作曲家ストラヴィンスキー、彫刻家アルプ、カルダー、画家ダリを知る。
1952年第26回ベネチア・ビエンナーレで彫刻大賞受賞。
1954年クルト・ヴァレンティンの死により、ピエール・マティス画廊と契約。
1962年チューリッヒで大回顧展。
1966年ローマで大回顧展。
1968年第8回現代イタリア銅版画家ビエンナーレ一等賞。
「私はいつも絵を描く必要を感じている。私が彫刻に着手するのは、その本質を絵画的に理解してからである。
私にとって、ある形を想像することは、色彩を感得することと同じになりつつある。それは色彩のヴィジョンである。
絵を描くことは、なにかしら完成された詩歌の中に我が身を置くことであり、この何ものかが制作において実現されるのである」
1972年ミラノにおいて肖像彫刻展『20世紀の人物』開催。ミラノ名誉市民に選ばれる。
1973年ミラノ近代美術館内に6室からなるマリノ・マリーニ美術館設置。同年、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の舞台装置と衣装を手がける。
1974年フィレンツェのウフィツィ美術館にポモナが展示される。イタリア共和国大十字騎士勲章受章。
1975年ピストイア名誉市民に選ばれる。
1976年スイスのロカルノへ移住。喘息とリューマチの治療を受ける。同年最後の彫刻「(画家)オスカー・ココシュカの肖像」制作。
1980年リビエラ海岸入口の古都ヴィアレッジョで死去。79才。
マリノ・マリーニは世界中で個展を行い、各地のアカデミーや芸術団体で名誉会員になるなど、芸術家としての栄誉を一身に受けている。
◆◆【5】肖像彫刻の内容について◆◆
《ストラヴィンスキーとの出会い》
彫刻家の妻であるマリナ・マリーニは、1950年、ニューヨークのクルト・ヴァレンティンのブッフホルツ画廊での作曲家との出会いを以下の様に綴っている。
「ある朝、クルトの画廊にいたとき、品のよい男性がマリノの作品をじっと見ているのに気づきました。そのときクルトが入って来ましたので、あの人は誰、とそっと聞きますと、イゴール・ストラヴィンスキーと教えてくれました。
クルトが彼に近づくと、ストラヴィンスキーは作品を激賛して、作家に会いたいと希望しました。マリノと私は彼と話すうちに、ほとんど瞬時に親しみがわきました。ストラヴィンスキーは予定が特にないのなら昼食でもと誘ってくれました。
ニューヨーク滞在中、何度か楽しく食事をするうち、ストラヴィンスキーは自分の肖像を彫刻してくれないだろうかと頼みました。マリノは興奮しながらも即座に引き受けました。そして、ストラヴィンスキーのホテルで幾度かポーズを取りました。」
続いて1950年11月1日にフランス語で書かれた作曲家の手紙を紹介しよう。
「親愛なるマリノ・マリーニ様
あなたの手になる私の頭像の写真をお約束どおりお忘れなくお送りいただき、ご親切にいたみいります。この彫刻はまことに美しく、私たちの時代のもっとも偉大な芸術家のおひとりに彫っていただいた私の肖像があることを、私はまことに誇らしく思います。
近じかこの彫刻をみる機会があるといいのですが・・・アメリカで展覧会をまた行うおつもりはございませんか。ウジェーヌ・ベルマンは、最近あなたをお訪ねし、あなたの作品に心から感激したことを手紙に書いてきました。
奥様にくれぐれもよろしくお伝えください。
我が親友に。
敬具
イゴール・ストラヴィンスキー」
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マリーニはつねづね「モデルから感得できるものがないと制作しない」と語っていた。
郷里の古代エトルリア美術から啓示を受け、アカデミズムから脱する様式を手にしたこの彫刻家にとって、
師匠であるニコライ・リムスキー=コルサコフの影響下に、ロシアの原始民族主義を出発点としたストラヴィンスキーは、同じ芸術哲学を持つ同志であり、直ぐに意気投合したことも自然な成り行きだった。
後にマリーニは作曲家について回想している。
「ストラヴィンスキーは、鋭敏で神経質な直観的性格の持ち主であり、私が興味を抱いたのは、まさしく彼から発する活力、感受性であった。」
《マリーニ作品と詩情についての考察》
ポエジーという言葉がある。(原語はフランス語でpoesie、英語ではpoetry)。これは、詩のもっている情趣、詩的な世界、詩情などと訳される。
この詩情の意味は
1.詩として、あるいは詩的に表現したいという欲求。詩を作ることに対する興味。
2.詩のもっている情趣。詩のもっている情緒的な雰囲気や気分。詩的情景。
と「精選版 日本国語大辞典」では解説されている。
芸術作品は、もし詩情を欠いていたとしても芸術作品足りえるものである一方で、あらゆる芸術作品の中で最も優れているといえるのは、やはり詩情を内包しているものであるだろう。
これまで肖像画家の端くれとして古今東西の肖像画作品を見てきた筆者にとって、これらの中には芸術作品と呼べるものも、そうでないものも数多く存在する。
しかし全く不思議なことに、古代から連綿と描き続けられてきた幾百万、幾千万の肖像作品に『詩情を帯びたもの』は稀である。いや、皆無であったと言ってよいかもしれない。
肖像とは、あくまでも「像主に似せた像」のことであり、その目的は、当人であろうとなかろうと、とにかく依頼者を満足させることが第一義である。
その最高の規範といえるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの言うように『鏡』となること、つまり、リアリズム芸術そのものであることなのだ。
そこにはいささかも詩情が必要とされていない。
逆に言えば、詩情とはリアリズムから遠ざからなければ得られない、或いはリアリズムに対して一種のヴェール(覆い)を掛けねば得られないはずのものだった。
ヴェールとは『作者の想い』と言ってよいだろう。
肖像が像主に似るほど、リアリズムに傾くほど、詩情は失せる。反対に詩情が前面に出た肖像画は、肖像そのものから離れ、人物画もしくは寓意画に傾いてしまう。
このように肖像と詩情とは相反する概念であり、両立しない性質のものだった。
印象派の画家たちも、パリ派(エコール・ド・パリ)の画家たちも、リアリズムから遠ざかることでかろうじて詩情を得ているに過ぎない。
ところが、天才的彫刻家マリノ・マリーニにあっては、リアリズムと詩情は両輪となり、作品に尽きせぬ魅力を添えている。
マリーニは語る。
「創造の美学がひとつの線、ひとつの突起、ひとつの浅い窪みに含まれ、宿り、凝固しないような人間の顔は存在しない。芸術家はこの詩学を知り、解き放たなければならない。
その際に芸術家は、自分の感性や、観察と洞察の本質に導かれるのである。この詩学を造形的に再構成しなければならない。」
「肖像において私は、人物の性格を表現するのにも、いつも肖像に詩を与えることを心がけています。この詩のないところに人の顔はないのです。」
「芸術は愛と同様、説明されるべきではないと考えますので、神秘を残すというのは大変重要なことです。」
「一つの彫刻において、より多くの感動を与えるのは、詩であるということを忘れてはならない。」
これらを読むと、マリーニが確固たる方法論によって肖像と詩情を両立させていると考えられよう。
ではその方法論とは如何なるものだろうか。
「ストラヴィンスキーの肖像」を見てみよう。
或いは、
「建築家ミース・ファン・デア・ローエ」、
「実業家ネルソン・ロックフェラー」、
「妻マリーナ・マリーニ」、
「画家カルロ・カッラ」、
「作家ヘンリー・ミラー」、
「画家マッシモ・カンピリ」
の肖像を。
1.表情に語らせないこと
これらの作品に共通していえることは、いずれもが、何も語ろうとしていないことである。
そこには表情が存在しない。表情をまるで置き忘れてきたかのようなのだ。
またそれらの彫像からは彫刻家の存在を意識しているようにはまったく見えない。
モデルがこの境地に至るには作家への尊敬や相互理解はもとより、作家に完全に屈服し、諦念が全身を覆い尽くされている必要がある。
そしてそれを可能にするのは、モチーフであるモデルをねじ伏せる腕力であり、経験と精神力の賜物である。
くしくも、ある写真家を前にモデルを務めた女優の真野響子が、「もうどうにでも好きにしてよ!」という気持ちにさせられたことがある、と語ったような『諦めの感情』が、これらの作品には見て取れる。
2.目に語らせないこと
彼らの目は、何の感情も含んでいない。また瞑想しているようにも見えない。
これはマリーニ独自の表現技術によるものであろう。
もし、彼らの目に我が鎌倉彫刻の玉眼(水晶の裏から瞳を描き、その上を白で覆った眼球)を入れたなら、詩情は台無しになるに違いない。
もちろん、西洋の伝統に玉眼はなかったし、その主流となる表現は彫眼である。
しかし、世に数十万存在すると思われる彫眼と、マリーニのそれとを比較すると、彼においては両目の非対称性が徹底されていることが判る。
こうした表現は彼の尊敬する先輩画家アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)の作品を観察した結果得られたものかもしれない。
モディリアーニの描く人物の両目は、緑色一色に塗られて瞳が描かれていないことが多いのだが、
これが彼一流の詩的表現になっていると評価される一方で、意図的に片目にだけ瞳を描いているケースが見られる。
この片目表現が、ポエジーの醸造により深く関わっているように思われるのである。
人間の目は、決してシンメトリーではないものだが、マリーニは作品において、敢えてこの解釈を誇張、というか拡大させている。
そこには現実から抽出したという意味での抽象性が見られ、或いは写実性と抽象性の狭間で、中立・中正であろうとする意志が感じられる。
「リアリズムに対して大きく踏み込んだ足に、体重をかけないでおく」とでもいうような、危うさと精妙さ。
3.マットで古色を帯びたような質感
マリーニのマチエールとして無数に刻まれた刀痕による肌の表現も、写実性と抽象性の間を漂っている。
彼の巧みな手腕(メチエ)はそれを、恣意的なものと感じさせない。
また、テラコッタも石膏もブロンズも細心の注意を払って、一様に艶が出ないように処理している。彩色を施している作品も少なくない。
ロダンの弟子で、肖像彫刻の名手であったシャルル・デスピオ(1874-1946)の作品と比べてみると、マリーニ作品のマットな質感は詩情を喚起するのに十分効果的であることが判然とする。
それは東洋の井戸茶碗にも似た古拙の美を感じさせてくれる。
以上、筆者の凡庸な観察眼では、これだけしか詩情の方法論を挙げることができないのだが、最後にマリーニ自身が肖像彫刻をどのように構想するかについて述べられた言葉を引用する。
「私の目の前に、ある形、ある輪郭が現れる。丸いとか長細いとか、まずはこの形の種類が大事である。これらが本質的要素であり、すぐにそれを発見し、頭のなかに刻み込まなければならない。
その後に、この人物の精神に入ってゆくが、ここに難しい点がある。それはこの人物の相貌を、人間性の空間のなかに、すなわち他の人々、他の人間的個性において構成される空間のなかに、想像することの困難さである。
これがすべてである。この真実は、肖像作品を完成するまで私のなかに残るはずである。正しく特徴的な線を引くという点に関して、結果は私にとって満足ゆくはずである。
この仕事を終え、死者の王国に肖像を置き、注文主に作品を引き渡す・・・しかし残念ながら大体において喜んではくれない。あるいはもっとひどかったりする。」
肖像彫刻においては、リアリズム以外のものは注文主には理解されづらいのかもしれない。その意味でも、作曲家ストラヴィンスキーとの出会いは、幸福なそれであったろう。
〈参考文献〉
「マリノ・マリーニ展カタログ」彫刻の森美術館他編(R&Fインターナショナル)1997年
「イタリアの近代美術1880-1980」井関正昭著(小沢書店)1989年
「イタリア彫刻の20世紀展」(「イタリア彫刻の20世紀」展実行委員会 現代彫刻センター)2001年
「20世紀イタリア美術展カタログ」(東京都現代美術館 日本経済新聞社)2001年
「イタリア美術の一世紀展1880-1980」(毎日新聞社)1982年
「メナード美術館作品図録」(メナード美術館)1987年
「日本百科大事典」(小学館)
「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)
「ブリタニカ国際大百科事典」
"Marino Marini" Galleria d'Arte Moderna Milano, 1984, Arnoldo Mondadori Editore S.p.A.,Milano
◆◆【6】次号予告◆◆
イタリア人マリーニと同じ年に生を受けたスイス生まれの彫刻家アルベルト・ジャコメッティにもまた、イタリア人の血が流れています。
そして二人とも多くの肖像彫刻を残しましたが、後者の仕事ぶりは独特で、生み出された彫刻もマリーニのそれとは大きく異なります。
ジャコメッティの芸術哲学は書物によって伝えられておりますので、その言葉にも耳を傾けてみたいと思います。
次回、ジャコメッティの肖像彫刻にどうぞご期待ください。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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