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- No.30 「矢内原の胸像Ⅰ」
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織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
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【1】 ジャコメッティ作「矢内原の胸像1」
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像彫刻の内容について
【6】 編集後記
◆◆【1】「矢内原の胸像1」◆◆
ジャコメッティは、1901年生まれのもう一人の彫刻家マリーニと並んで、20世紀を代表する芸術家に数えられ、実存主義の哲学者や同時代の詩人たちに高く評価されました。
初期のシュールレアリズム・オブジェを経て、モデルを置いて制作する方式に回帰したとき、独創的な細長い人体表現に到達します。
作家で詩人のジャン・ジュネは
「ジャコメッティは同時代の人々のために仕事をするのでもなければ、来たるべき世代のためにでもない。彼は死者たちをついに恍惚たらしめる立像を作るのだ」
と書き残しました。
★★★ジャコメッティ作「矢内原の胸像1」はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p30.html
◆◆【2】肖像データファイル◆◆
作品名: 矢内原の胸像1
作者名: アルベルト・ジャコメッティ
材 質: ブロンズ(彫刻)
寸 法: 48.6×29.2×12.7cm
制作年: 1960年
所在地: ジョン&メアリー・シャーリー氏蔵(シアトル、USA)
注文者: 彫刻家本人
意 味: 大阪大学の助教授だった矢内原伊作は、留学の最後の年だった1956年以降、長期休暇のたびに四度渡仏しジャコメッティの肖像制作のモデルを務めた。それはすべて彫刻家からの依頼に応えたものだった。
1960年の8月初旬にパリを再訪した矢内原に、彫刻家は初めて「今年はきみの顔を彫刻でやろう」といい、粘土で胸像を作り始める。48日後、モデルが帰国するとき作品は未完成だったが、取引画廊によってそのままブロンズに鋳造された。
二人の共同作業によって産み落とされた二十数点の油彩画と二点の彫刻は、矢内原の友情と献身の証しである。
◆◆【3】像主について◆◆
矢内原伊作(1918-1989)法政大学哲学科教授。カミュ、サルトルの実存主義を紹介。翻訳者、美術評論家、作家。
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1.伊作の父・矢内原忠雄
彼は平和主義者として世に知られた矢内原忠雄(1893-1961)を父に持つ。
愛媛県越智郡富田村の医者の子・矢内原忠雄は、両親と祖母によって幼児期より、武士道、宗教心、正直なる精神を育んだ。
又、新渡戸稲造(1862-1933)と内村鑑三(1961-1930)の薫陶を受けて、無教会主義のクリスチャンとなった。
1917年に東京帝国大学政治学科を卒業すると、新居浜市の住友・別子銅山の事務方に職を得て、同年西永愛子(1899-1923)と結婚。翌年長男が誕生すると旧約聖書創世記のユダヤの族長の名を取って、伊作と命名した。
1920年東大助教授となりアメリカとフランスに留学。1923年に帰国後教授に就任したが、愛子を結核で失った。1924年、堀恵子と再婚。
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1937年、日中戦争が始まり、日本が戦争一色に染まっていく中で、矢内原事件と呼ばれた筆禍事件を引き起こす。
反マルクス主義・平和主義者を標榜する矢内原忠雄は、自らの反戦思想を論文として、『中央公論9月号』に「国家の理想」を、『通信10月号』に「神の国」を発表。相次いで発禁処分を受けた。
事件は大きく報じられ、東大教授会の要請に屈して辞職するが、翌1938年1月に『嘉信』を創刊。1944年12月に廃刊命令が下ると直ぐにまた『嘉信会報』を刊行するなど、一貫して戦争批判と反戦活動を行った。
敗戦後は東大に復職。1949年初代教養部長に就任。1951年から57年まで東大総長を務め上げ、学生によるストライキを指弾する『矢内原三原則』を打ち出した。
退職後は1961年に68才で亡くなるまで聖書による福音と平和を説き続けた。歴史家の家永三郎(1913-2002)は、矢内原を「日本人の良心」と讃えている。
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2.ジャコメッティと矢内原伊作
このような偉大な父を持つ矢内原伊作は、1918年5月2日愛媛県新居浜市で生まれた。父の東京帝大助教授拝命に伴い東京府下に育つ。
東京府立一中、第一高等学校理科へと進み、1941年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。翌年海軍予備学生となった。
1945年1月、江原鋤と結婚。
1947年、幼なじみで一高の同級生・宇佐見英治らと『同時代』を創刊。1951年には大阪大学文学部の助教授に就任する。
論文と翻訳書を精力的に発表していた伊作は、フランス国立科学研究所に招聘され、二年間の給費留学生として1954年秋に渡仏した。
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翌春のこと友人の宇佐見が、パリの矢内原の元に『美術手帳93号』(1955年4月号)を送ってよこした。自作の論考「ジャコメッティ 人と作品」が掲載されているので、これを彫刻家本人に届けて欲しいと、たっての頼みである。
矢内原は画廊でコンタクトを依頼し、サンジェルマン・デ・プレのカフェでジャコメッティと初めて対面する。1955年11月8日のことだった。
この初めての出会い以後、カフェやアトリエをしばしば訪れるようになり、ジャコメッティや夫人アネットとの友情を育んだ。
2年の留学期間が終わりに近づき、矢内原が帰国の予定を告げに行ったとき、記念に肖像画を描こうと彫刻家が申し出る。こうして、連日のアトリエ通いが始まることになった。
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矢内原は数か月前、パリに来ていた父の忠雄をジャコメッティに紹介したことがあった。彫刻家はしばらく描いていて突然言った。「きみはお父さんにそっくりだね、いまそれが見えた。あのときは全然似ていないと思ったが…」
数日で簡単に仕上がると思われた肖像画の制作は延々と続いた。矢内原の帰国日がまぢかに迫ると、ジャコメッティの焦り・絶望と、制作の激しさは募っていった。矢内原はしかたなく出発の延期を決断した。
その後も出発が近づく度に延期するという決断が幾度も繰り返された。遂には当初10月8日だった帰国日は、最終的に12月16日にまで、五度変更された。
とうとう彼が本当に日本に帰ることになったとき、ジャコメッティに、明くる年も間違いなくパリに戻って来ることを約束しなければならなかった。
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以下は、矢内原の日記から抜粋された、ポーズした日々の記録である。
1956年10月6日~12月16日 72日間
1957年 8月~9月 42日間
1959年 8月17日~9月22日 37日間
1960年 8月6日~ 9月23日 48日間
1961年 8月11日~9月13日 31日間
彼は国立大学に助教授として勤務しながら、ジャコメッティのため、夏季休暇のたびに渡仏し、合計230日もの間、ひたすら椅子に座って、不動の姿勢のままポーズし続けたのである。
その間に、「ヤナイハラの肖像」と題された、二十数点の油絵と二点の彫刻作品が制作された。
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矢内原伊作の彫刻家への途方もない友情と献身は、ジャコメッティ夫人・アネットの心の中で、感謝の念が賛嘆・同情となり、やがて愛情に変化した。
愛情は夫公認の男女関係に発展したことが、矢内原の著作「ジャコメッティとともに」に記されている。
1966年にジャコメッティが亡くなったとき、矢内原の肖像画八点と石膏彫刻二点が、まだアトリエに残っていた。ジャコメッティもまた矢内原を愛し、その思い出を忘れがたいものとして、手元に置くことを望んでいたのだ。
「われわれの aventure はまだ終わっていない、君はいつパリに来るのか」と書かれた手紙を、矢内原は何通受け取ったかしれぬ。
(※注1 仏語のアヴァンチュール:aventure は、英語では adventure;冒険 とも affaire;情事 とも訳される)
(※注2 著作「ジャコメッティとともに」は、ジャコメッティの死後に仏訳されたが、未亡人アネットが affaireを否定したために廃刊となった。)
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3.その後の矢内原伊作と出版物
さすがの矢内原も1962年以降は、勤務先や家族の事情もあったらしく、ジャコメッティの要請や懇願に応じることはなかった。
1966年 アネットから突然、ジャコメッティの訃報が届く。
同年、同志社大学文学部助教授、学習院大学文学部助教授に就任。
1970年 法政大学文学部教授就任。
1989年 定年退職。8月16日胃がんのため、港区虎ノ門病院にて死去。
ジャコメッティが亡くなってから三年経った1969年、シャルル・ド・ゴール(1890-1970)の後を継ぎ、ジョルジュ・ポンピドゥー(1911-74)が第19代フランス大統領に就任した。
その後、久しぶりにパリを訪れた矢内原は、再会したアネットの言葉をエッセーの結びに記している。「1956年のあなたの肖像の一つはポンピドゥーの部屋の壁にかかっているわよ」と。
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著作物
「顔について」1948
「海について ボオドレエル・ヴァレリイ・アラゴン」1949
「抵抗詩人アラゴン」1951
「抵抗の精神」1952
「文学と人生の間」1952
「若き女性への手紙」1954
「実存主義の文学」1955
「芸術家との対話」1958
「サルトル 実存主義の根本思想」1967
「ジャコメッティとともに」1969
「矢内原伊作エッセイ」全4冊 1970
「歩きながら考える」1982
「古寺思索の旅」1983
「たちどまって考える」1984
「話しながら考える」1986
翻訳書
キェルケゴオル「哲学的断片」1948
カミュ「シジフォスの神話」1951
リルケ「愛の手紙」1951
ポール・フールキエ「実存主義」1952
「巴里の手紙 リルケ書簡集」1955
ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ」1961
フェリックス・クレー「パウル・クレー」1962
アンリ・ペリュショ「セザンヌ」1963
「ベルグソン全集 7 思想と動くもの」1965
ジャコメッティ「私の現実」1976
パブロ・ネルーダ「マチュ・ピチュの高み」1987
◆◆【4】作者アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)について◆◆
Alberto Giacometti スイス生まれの彫刻家。パリでアンドレ・ブルトンらのシュールレアリズム(超現実主義)運動に参加した後、写生による制作に回帰して、独自の細長い人物彫刻と肖像を創造し、世界的名声を得た。
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1.芸術の揺籃期
アルベルト・ジャコメッティは1901年10月10日、ジョバンニ・ジャコメッティ(1868-1933)とアネッタ・スタンパ(1871-1964)の長男として、山深いスイスのグリゾン州ボルゴノーヴォに生まれた。
この地はイタリア国境に程近く、ジャコメッティという姓及び血族はイタリアに起源を持っている。
父ジョバンニは、スイスでは知られた後期印象派の代表的画家で、フェルディナンド・ホドラー(1853-1918)やクーノ・アミエ(1868-1961)、イタリア人のジョバンニ・セガンティーニ(1858-99)との交流があった。
アルベルトの弟妹には、家具職人で、しばしば兄のモデルを務めた次弟のディエゴ(1902-1985)、33才で早世した妹のオッティーリア(1904-37)、後にチューリッヒで建築家となった末弟のブルーノがいた。
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1906年に一家は祖父の住んでいる隣村のスタンパ(標高994m)に移住した。アルベルトは9才になったとき、父の勧めでデッサンを始め、12才で水彩画と油彩画を描いた。翌年にはディエゴをモデルに胸像を作った。
1919年19才になるとジュネーブに出て、美術学校で絵画を、工芸学校で彫刻を学ぶ。
1920年から父に連れられてイタリアを旅行。ティントレットやジォットに感銘をうける。ローマでは父の従兄弟の家に滞在し、娘のビアンカ・ジャコメッティをモデルに胸像に取り組んだ。
秋に、旅の道中で出会った老オランダ人と同道したが、その急死に立ち会うことになり、その記憶はトラウマとして彫刻家に生涯つきまとった。
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1922年から25年まで、父も学んだパリのアカデミー・グランド・ショミエールに登録。ロダンの弟子の大家、アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)のクラスで彫刻を学んだ。
同級には、画家アンリ・マティス(1869-1954)の息子で後に画商となったピエール・マティス(1900-1989)がいた。また1925年~29年まで交際したアメリカの女学生フローラ・メイヨー(1900-?)にもここで出会っている。
当初ホテル暮らしだったアルベルトは、1924年にダンフェール=ロシュロー大通り、翌年にはフロワドヴォー通りにアトリエを借り、そこへ弟のディエゴが合流した。
1926年になると14区のイポリット・マンドロン通り46番地の小さなアトリエ(4.74×4.9m)に移った。ここがジャコメッティにとって終生の住居兼アトリエとなる。
ディエゴも向かいの部屋に移り住んだ。彼は鋳物職人としてブロンズ家具や装飾品を手がけながら、終生アルベルトの最良の友であり続け、また何でも屋の召使であり、第一のモデルでもあった。
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2.シュールレアリズム運動への参加と決別
1925年から28年にかけてジャコメッティはアンリ・ローランス(1885-1954)やオシップ・ザッキン(1890-1967)、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)らの影響を受けた、平面的なキュビズム彫刻を制作する。
恋人フローラ・メイヨーをモデルに制作した「女の頭部」は、平板な厚板に刻線で目鼻口を描いており、絵画的かつ正面性の際立つ作品になっていた。
1929年ジャンヌ・ビュシェ画廊に展示した「見つめる頭部」は、アーリントン墓地に並ぶ西洋式の墓石を思わせるような、抽象的形態の彫刻で、専門家の注目を集めることになった。
1930年ピエール画廊の『ミロ、アルプ、ジャコメッティ展』には「吊り下げられた球」が展示される。これを見たアンドレ・ブルトン(1896-1966)とサルバドール・ダリ(1904-1989)に誘われ、シュールレアリズム運動に参加。
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またこの頃、インテリア・デザイナーのジャン=ミシェル・フランク(1895-1941)に紹介されたディエゴとアルベルトは、1940年まで彼の下で、花瓶やフロアランプ、家具製作等に携わることになった。
1932年31才のとき、シュールレアリズム彫刻の傑作と呼ばれる「喉を斬られた女」と「午前4時の宮殿」を発表。
1933年6月、父のジョバンニが65才で死去したのに伴い、帰国し、翌年まで故郷に留まる。ジャコメッティは制作意欲を失ってしまい、シュールレアリズム的な作品への関心も薄れていった。
翌年、写実性が加わった彫刻「見えざるオブジェ(空虚を抱く手)」を発表する。そして1935年、ある啓示が彼を襲う。
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生活費が必要になると引き受けていた、インテリア・オブジェを作るプロセスが、シュールレアリズム彫刻を作るプロセスとほとんど変わらないことに気がついたのである。
彫刻を作っていたのではなくオブジェを作っていたのに過ぎないのか!
「私の作品は創造ではなく、大工が机を作っているのと何ら変わりはなかった。源へ戻ってすべてをやり直すことが必要だった。」
長年親しい友人だったハンガリー出身の写真家ブラッサイは、ジャコメッティの気づきを次のように説明している。
「ジャコメッティは突然、あの平凡な真理、すなわち彫刻の重大な関心事はいつも、空間の中でうつし身の生命をもった不動の、或るいは動いている人間の像を再現することだということに気づいたのである。
彼はまた美術のもっとも慣習的な原則、すなわち模倣の原則に気づいた」
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こうして、モデルを前にした制作が復活する。弟のディエゴや、職業モデルのリタ・ゲフィエ、それに恋人のイザベル・ニクラス(1912-92)をモデルに頼み、写生による彫刻制作が始まった。
この写実への回帰は、アンドレ・ブルトンたちから裏切りとみなされ、シュールレアリズム運動とは次第に袂を分かつことになった。
モデルによる制作は、1935年から40年にかけてぶっ通しに続けられたが、ジャコメッティはのっけから困難に襲われた。
モデルがポーズをするのは限られた時間だけだったから、ジャコメッティが何かを見出そうとし始める前にモデルは立ち去ってしまうのだ。
しかたなく、モデルのいない時間に、記憶による制作が加わった。
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3.独創的な彫刻の開眼
ジャコメッティの作る彫刻は次第に小さくなった。
見える対象と自分の距離感を彫刻に与えようとしたのである。誰もそんなことを試みた彫刻家はいなかった。
イメージに忠実なジャコメッティがなおも続けると、しまいには作品はマッチ箱に入るほどになった。
この小ささは是非とも克服されなければならない。彼は絶対に小さくしない様に、高さを変えない決断をした。
すると今度は彫刻が細くなっていった。
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第二次大戦後しばらくしてから、小像は画廊で発表され始めたが、1948年、ニューヨークのピエール・マティス画廊で最初の個展が行われたとき、細長い立像彫刻は大反響を呼んだ。
名声は新大陸で確立され、パリに逆輸入されることとなる。
戦時中ジュネーブで出会ったアネット・アルム(1922-93)と1946年に再会。前年にイザベラと別れていたジャコメッティは、アネットをパリに呼び寄せ、イポリット・マンドロン街での同棲生活が始まった。
1947年、アネットはアトリエの隣に自分のための寝室を借りる。1949年に二人は結婚。ジャコメッティは彫刻制作の傍ら、油絵具で肖像画を描き始める。1950年からはリトグラフ版画の制作も開始した。
同年パリのマーグ画廊で初めての大規模な個展を開催。以後、欧米各地での展覧会に招待されるようになった。
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1955年には矢内原伊作と出会い、翌年より矢内原の肖像画制作が始まる。
1956年、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1959年、パリのバーで21才のカロリーヌと知り合う。ジャコメッティの最後の重要なモデル、兼恋人となった彼女は、本名をイヴォンヌ=マルグリット・ポワドローという娼婦だった。
1960年、150点のリトグラフからなる作品集「終わりなきパリ」に着手。
1961年、ピッツバーグのカーネギー美術館で彫刻部門の最優秀賞を受賞。
1962年、ヴェネツィア・ビエンナーレに80点余りの作品を展示し、彫刻大賞が授与された。この年、胃がんが見つかる。
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彼が健康を損なったとしても不思議ではなかった。矢内原はジャコメッティの一日が大体つぎのようなものだったと記している。
14時頃起床。アレジア通りのカフェで軽い朝食。
15時頃から暗くなるまでモデル制作。
19時頃から同じカフェでコーヒーとゆで卵二個、パンの昼食。
20時から24時まで電燈の下でのモデル制作。
0時から2時過ぎまで、モンパルナスの終夜営業のレストランで夕食。
その後、朝まで一人で記憶による制作。
7時または8時から昼過ぎまで就寝。
このような日々が、一日の休みもなく繰り返された。
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4.晩年のジャコメッティ
1963年、パリのレミ・ド・グールモン病院で胃がんを切除。4時間半の手術で胃のほとんどが切り取られた。翌1964年1月、母アネッタの死。
アネッタはアルベルトの力の源泉であった。
さかのぼる1937年のこと、長い中断のあとで再び絵を描き始めたとき、母をモデルに二か月間、毎日、肖像画を描いた。アネッタは少しも文句を言わずによくポーズしてくれたと息子は回想している。
アネッタの口癖は、「なんでお前はお父さんみたいな良い芸術家になれないんだね?」というものだった。
写真家の妻で、画家のメルセデス・マッター(1913-2001)がアルベルトのことを、口をきわめてほめ讃えたとき、アネッタはこたえた。「いやあ、家のあたりではね、あの子は全くの役立たずなんですよ。」
マッターがあとでこの話をするとアルベルトは大喜びした。
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同年ニューヨークのグッゲンハイム美術館の国際絵画大賞を受賞。10月、スイス・グリゾン州の州都、クールの病院で過労と診断される。
写真家・ブラッサイも又、ジャコメッティの生活について綴っている。
「カフェで、腹をすかせたアルベルトは、サンドウィッチとゆで卵をいくつも食べ、その殻がカウンターに散らばった。次から次へとタバコに火をつけた。彼が前にもまして健康に気を使わないのを見て、私は悲しくなった。
仕事に明け暮れる、この厳しく、不規則で、体を疲れはてさせる生活はばかげており、そのままでは長く続くはずがないと私は心配した。」
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1965年、ジャコメッティの健康が悪化。
同年デンマークのルイジアナ美術館、ロンドンのテート・ギャラリー、そしてニューヨーク近代美術館(MoMA)での大回顧展。11月20日フランス国家芸術大賞受賞。
12月2日から4日にかけて、写真家エリー・ロタールの胸像とカロリーヌの肖像画を制作。これらが遺作となった。
12月5日、夜行でスタンパに向かう。心臓発作でクールの州立病院に入院。
1966年1月11日、ディエゴ、アネット、ブルーノとその妻オデット、カロリーヌに囲まれ、息を引き取る。
1月15日、ジャコメッティは両親の眠るボルゴノーヴォの墓地に埋葬された。
◆◆【5】肖像彫刻の内容について◆◆
1.ジャコメッティの刻印
本作品「矢内原の胸像1」を一瞥するとき、頭部と胴体の仕上げ状況の程度差は明らかになる。
彫刻家の全神経は頭や顔に集中し、繊細さ・制作の密度といったものが感じられる一方で、肩や胸部はふかく太い指跡がそのまま荒々しく残されている。
それはまるで彼の故郷・スタンパの、ごつごつとした山塊を思わせる。
また、額からアゴにかけて、さらによく見ると胸の中央部にも、正中線として垂直にきざみ込まれた小刀のなまなましい切り口が残っている。
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正中線とは、人体の中央部を通り全身をたてに二分する線のことである。
それは横から見ると、人体の凹凸にそって曲線を描きながら、真正面から見るとまったき垂直な一本の直線である。
彫刻家も画家も、自ら刻したこの分割線を基準にして、対象の前後の凹凸や動勢(ムーブマン)を捉え、ゆがみを矯正する。
ジャコメッティのケースでは念入りなことに、二つの眼球にも正中線を入れていた。
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これらの正中線と直角に交わって、十字をきざむように、額の中央、両目の位置、またアゴのつけ根にも、ナイフのあとが残されている。この横方向の分割線は目・鼻・口等の、位置決めのための基準線である。
このような基準線は、制作が進むとだんだんに不要になるため消えていくべきものであり、現にジャコメッティの他の彫刻作品ではここまでくっきりと残っているものは、ほとんどないのである。
そうしてみると、胸部の指あとといい、顔の傷あとといい、彫刻家にとってはまことに不本意な、制作を中断された証拠であるといえるだろう。
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2.ジャコメッティの彫刻制作
「矢内原の胸像1」(1960年)は、油絵で1956年、57年、59年と、延べ151日間にもおよぶ、矢内原伊作の一連の肖像画が制作された末に、初めて試みられた肖像彫刻であった。
矢内原は「ジャコメッティ1960年」と題するエッセーに、そのときの制作について記している。
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彫刻の制作は午後3時過ぎからはじまり、夕方の7時半頃、暗くなって何も見えなくなるまで、連日ぶっ通しで続けられた。
矢内原は足の届かない1メートルほどの高さの台に、足が宙ぶらりんのまま座らされた。
ジャコメッティは彼から1メートル半のところに立ち、モデルの顔を正面から見ながら彫刻台の上の粘土像を、刻み、削り、刻み、こわし、粘土を加え、刻み、削り、際限なく繰り返す。
初めの数日間は、矢内原に右を向かせたり、左を向かせたり、後ろを向かせたりしたが、その後はずっと正面だけを向かせて制作した。側面から修正することは、正面の仕事を妨げるというのがジャコメッティの考えだった。
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彼は制作しながら、彫刻の仕事について矢内原に語る。
「粘土で彫像を作ると、何かが欠けている、まだ何かが不足だと思う。そこで粘土を附け加えていくのだが、それでもやはり何かが欠けている。で次々と附け加えて行くうち、突然或る瞬間に余計なものがあり過ぎることに気 附く。
そこで次々と削りとって行くのだが、やはり余計なものがある。それでもっと削りとっていくと、突然或る瞬間に、欠けているものがあることに気附く。それで再び附け加えて行く。
このようにして幾ら仕事を続けてもちょうどいいというところには到達しない」と。
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彫刻制作は48日間休まずにつづけられ、大阪大学の夏季休暇が終わる直前の9月23日、矢内原が帰国することによって、ついに未完成に終わった。
けれども、パリの画商・マーグの指示で粘土像は、そのまま石膏取りされ、ブロンズに鋳造されることになる。
こうしてジャコメッティの仕事はいつも、やむなく終わらされるのである。しかし、それを未完成品だと思う者はどこにもいなかった。
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「作ることが問題なのではなく、現実を少しでも一層正しく把握することが問題なのだ。」
「自分にとって終わるということはない。芸術に完成はないのだから。それはただ全体として少しずつ、真実に近づいていくものだ。」
こう考えるジャコメッティの作品は、手を加え、見つめる、その一瞬一瞬における真実を、余すところなく伝えている。
そうした手の営みが一瞬一瞬に完結していて、指の一タッチ、一タッチに、精神の集中がこめられているために、全体としては未完成でも、観るものにそれを感じさせないのである。
それは、セザンヌの探求に匹敵するものではなかったか。
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3.ジャコメッティの彫刻が意味するもの
万物は、それがコップですら、見るたびに形を変えるものだ。
そう言いながら、見えるものを、見える通りに実現するために格闘し続けたジャコメッティは、その作品について、人生とか苦しみといった抽象的な概念をもって語ることは決してなかった。
或いは、モデルの内面を肖像に表そうとすることも一切なかった。
しかし、一旦作者の手を離れた作品は、必然的に、観る者の自由な想像と解釈とに委ねられる。
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ジャコメッティの親しい友人で、自らもモデルとなったことのある詩人のジャン・ジュネ(1910-86)は語る。
「ジャコメッティの立像はひとりの死者の通夜をしている」と。
ルーブル美術館のエジプト美術室で、暗い壁龕(へきがん)の中にひっそりと立つ、オシリス神像を見た刹那、ジュネの中に芽生えた恐怖。
まぎれもない神の眼前にいるのと同じ恐怖と魅惑を、ジャコメッティの細く引き伸ばされた女たちの立像に感じた。
その一方で、ディエゴの胸像はそれほどの高みには達していないと詩人は言い切る。
「それはむしろ非常に位の高い聖職者に属する、一人の司祭の胸像であろう。神ではないのだ」と。
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ジャコメッティは答える。
「これはきっとアネットの像は全身像であるのに、ディエゴのは単なる胸像だからだ。それは断ち切られている。つまり因襲的なのだ、ディエゴをそれほど遠くに行かせないのはこの因襲だ」と。
矢内原の胸像や肖像画もまた、全身像でない故に、神にはなり得ない。
ジュネは又、こうも記す。
「彼は自分のモデルたちに夢中になる。彼はあの日本人を愛した。」
「彼がヤナイハラの顔で悪戦苦闘していた間中、私は、決して間違うことはないが、たえず道を失う男の感動すべき姿を目の当たりにした。
自らをさし出し、かつまた、まるで自分の唯一無二のアイデンティティをまもらなければならないかのように、その似姿がカンヴァスの上へとおもむ くのを拒むこの顔は想像に余りあるだろう。」
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「ジャコメッティの刻印」と題して冒頭に書いた、矢内原の胸像のあの正中線。額の中央でそれとクロスする水平線。その十字架状の深い傷あとは、旧約聖書創世記第22章の一節を筆者に思い起こさせる。
神、アブラハムを試みんとて言ひ給ひけるは、
「汝の子汝の愛する独り子即ちイサクを携えてモリアの地に到り、わが汝に示さんとする彼処の山に於いて、彼を燔祭(はんさい)として献ぐべし」
神に生贄として差し出されたアブラハムの息子・イサクと、
芸術の女神に魅入られ彫刻家に我が身を献げる矢内原忠雄の息子・伊作。
もちろん、これは勝手な、あまりに文学的な、空想に過ぎないのだが、額の十字の刻印は、聖なるものの印象を醸し出す。
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その矢内原自身はジャコメッティの彫刻について次のように述べている。
「思うに、彼にとって彫刻は客観的に四方からながめられるオブジェではなく、ある距離を隔てて見られるもの、そして見る者を見返すものなのであ る。
だから彼が制作において最も苦労したのは目だった。人間を物質から分かち生者を死者から分かつものは目である。人を見つめる目、どうしたらそれを粘土によって作ることができるか。
それができないうちは彫刻は粘土の塊に過ぎないだろう。粘土を粘土でないものに、すなわち生命という確かではあるが手に触れ得ないものに転化すること、彫刻とはこれ以外のものではない。」
矢内原は、彫像が見られるだけでなく、見返すという。まるで意志を持っているような言い方である。
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メルセデス・マッターは、ジャコメッティの作品に関する試論の中で、矢内原のそれに通じる、或る実感を伝えている。
「ディエゴの頭部像が最初に我々の家に来た時、それは奇妙に不安をおぼえさせた。まるで文字通り一つの新しい生命がそこに存在しているとでもいうみたいにである。
外出した時には、彼だけのけものにして、置き去りにしたように我々は感じた。しばらくすると忘れてしまうのだったが、家に戻ってみると、彼がそこに、部屋を一人占めにしているのを見出した。
話を交わしていた我々は、どぎまぎして、突然話をやめた。彼だって聞くことができるのだ。」
そう、そこに生きた人間が実在している。
生きた人間をありのままに実現すること、それこそがジャコメッティが生涯をかけて追及し続けた命題であった。
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『アルベルト・ジャコメッティ巡回展』《広島県立美術館・静岡県立美術館・足利市立美術館・静岡新聞社・中国新聞社主催》武田昭彦翻訳・監修(アイメックス・ファインアート)1997年
『ジャコメッティ展』《国立新美術館・豊田市美術館・マーグ財団・朝日新聞社・中日新聞社主催》横山由季子責任編集(印象社)2017年
『グッゲンハイム美術館名品展 ―ピカソからポロックまで― 』《セゾン美術館・朝日新聞社主催》(ソロモン・R.グッゲンハイム美術館編集・発行)
1991年
『ジャコメッティ』ヘルベルト・マッター写真/メルセデス・マッター文/千葉成夫翻訳(リブロポート)1998年
『みづゑ NO.795』「アルベルト・ジャコメッティ 終わりなきパリ」粟津則雄(美術出版社)1971年
『ジャコメッティとともに』矢内原伊作著(筑摩書房)1969年
『矢内原伊作エッセイ5 芸術家との対話』矢内原伊作著(雄渾社)1971年
『ジャコメッティ 私の現実』矢内原伊作・宇佐見英治編訳(みすず書房)1976年
『ジャン・ジュネ全集 第3巻』「ジャコメッティのアトリエ」曽根元吉訳(筑摩書房)1967年
『わが生涯の芸術家たち』ブラッサイ著・岩佐哲夫訳(リブロポート)1987年
『サルトル全集第三十巻 シチュアシオン3』「絶対の探求 ジャコメッティの彫刻について」滝口修造訳(人文書院)1964年
『サルトル全集第十巻 シチュアシオン4』「ジャコメッティの絵画」矢内原伊作訳(人文書院)1964年
『西洋美術解読事典』ジェイムズ・ホール著・高階秀爾監修(河出書房新社)1988年
『舊新約聖書 引照附』(日本聖書協会)1979年
"Alberto Giacometti" Reinhokd Hohl, 1971, Verlag Gerd Hatje,Stuttgart
"PARIS SANS FIN" GIACOMETTI, 2003, Buchet/Chastel,Paris
◆◆【6】編集後記◆◆
ジャコメッティを識って以来、彼は私にとって特別な存在であり続けています。展覧会は偶然にもめぐり合わせが悪く、1997年に静岡県立美術館で開催された『アルベルト・ジャコメッティ展』しか見ていないのですが、
20代後半の美校在学時に、『ジャコメッティとともに』矢内原伊作著(1969年筑摩書房発行)を手に取ったことが、決定的な出会いとなりました。
彼の発した言葉の一つ一つ、彼の文章、油彩画、彫刻、デッサン、版画、そして彼を記録した動画……どれもが、見る者を刺激し鼓舞します。
在仏当時は、ポンピドーセンターのジャコメッティ室に何度立ち尽くしたことでしょう。版画集『終わりなきパリ』にクレヨンで描かれたパリの風物は、私が目撃した風景そのままに強烈なノスタルジーをかき立てるのです。
今回、最終回のメルマガ執筆にあたっては、公立図書館の資料に頼る必要がありませんでした。これも30回発行したメルマガの中で初めてのことです。
あなたの心の中に、一つだけでもジャコメッティの爪痕を残すことができたなら、これに勝る喜びはありません。
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肖像ドットコム代表 高野秀樹
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