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- No.06 武田信玄の父・信虎の肖像画(大泉寺)
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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0006
2007年01月22日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 武田信玄の父・信虎の肖像画(大泉寺)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主・武田信虎について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】武田信玄の父・信虎の肖像画(大泉寺)◆◆
若き日の信玄・武田晴信像に続き、今回は彼と対立した父・信虎の肖像を取 り上げる。中井貴一が信玄を演じた過去の大河ドラマでは、信虎役を平幹二郎 が務め、現在の風林火山では仲代達矢が演じている。
この武田信虎の狂気を、三男の武田信廉が、一度見たら忘れられない容貌の 中に見事に描き出している。
★武田信玄の父・信虎の肖像画(大泉寺)はこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/p6.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 武田信虎の肖像
作者名: 武田信廉(逍遥軒信綱;信虎三男)
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 85.3×35.8cm
制作年: 天正2年(1574年)
所在地: 甲斐・大泉寺(山梨県甲府市)
注文者: 武田家当主である孫・勝頼が有力。
意 味: 遺像。天正2年3月5日81歳で没した信虎の死後直ちに描かれ、甲府 の長禅寺住職春国の賛を得て、5月5日武田家の菩提所大泉寺に奉納された。
◆◆【3】像主・武田信虎(1494-1574) について◆◆
武田五郎信直(信虎)は父・信縄(1472-1507)が36歳で病死すると、 永正4年(1507)14歳で甲斐守護職の座を継ぎ、武田家18代当主となる。
翌年叔父・油川信恵を討つと、小山田氏と和睦。大井氏、栗原氏、逸見氏、 浦氏等、武田一族の支流を次々と降し、相模の北条氏や駿河の今川氏と牽制し 合いながら、天文元年(1532)36歳のとき甲斐一国を統一した。
そして信濃の村上義清、諏訪頼重と結ぶことによって信濃攻略が軌道に乗り かかる。ここまでは信虎の順風な前半生であった。
以下は、信虎が京都から遠い甲斐にありながら、足利将軍家の権威や朝廷と の関係を重視し、或いは、天下を視野に入れていたことを物語る。
大永元年(1521)28歳のとき従五位下左京大夫叙任。「信虎」と改名。
大永7年(1527)室町幕府第12代将軍・足利義晴(1511-1550)が危機に瀕 した折、34歳で上洛。
天文5年(1536)嫡男・太郎(後の信玄)の元服にあたって将軍義晴より晴 の偏諱(へんき)を賜り、晴信と名乗らせる。同時に晴信は従五位下大膳大夫 信濃守に叙せられ、官位伝達のためわざわざ京から正親町公叙が下向した。
同年の今川氏の内紛に際して義元を支援。翌年娘を義元の室に入れ姻戚関係 を結ぶ。
天文7年(1538)今川義元の斡旋で京都の公家・三条公頼(1495-1551;後に 左大臣)の次女を晴信の妻に迎えた。公頼の長女は幕府管領・細川晴元 (1514-63)の妻、三女は本願寺・顕如(1543-92)の妻であった。
天文10年(1541)6月14日のこと。信虎は嫡男・晴信(信玄)の無血クーデ ターにより突如甲斐の国を追われた。この事件の裏工作をしたのが、板垣信方 甘利虎泰、飯富虎昌という信虎の重臣たちである。
信虎は百戦錬磨の名将だったが、侵略しても国盗りを行わないため経済的な 見返りが少なかった。旱魃・飢饉が続き毎年おびただしい餓死者が出ても放置 される。頻繁な陣立のため領国は疲弊し、民衆の心は離反していた。
晴信は前年の佐久郡海ノ口城攻略のとき、国盗りを進言したが一蹴されてい る。信虎は次男・信繁を跡取と考えており、この点でも晴信は危機感を募らせ ていた。
加えて信虎は、妊婦の腹を割くなどの乱行を重ね、智謀の忠臣を手打ちにし た。老臣・内藤虎資が諌めると無言で斬り捨て、工藤虎豊が止めに入るとこれ も斬った。死を覚悟で諌めた馬場虎貞、山県虎清も誅伐されている。
この年の5月、信虎は信州小県郡の滋野一族を攻め、海野棟綱を破り6月4日 甲斐に凱旋する。この機をのがさず甘利ら三将は、信虎に同盟国・駿河への 遊山を勧めた。
駿河の当主・今川義元(1512-1560)の正妻は、信虎の長女・定恵院 (1519-1550)だったから、信虎にとっては、婿殿と娘を訪れる気楽な保養の 旅である。十日後、信虎は何の疑いもなく4人の側室を伴って出立する。
板垣が、信虎を義元のもとへ送り届ける重い役目を果たした。その後国境は 甲斐の足軽兵によって封鎖され、クーデターは成功する。
こうして信虎は48歳で思わぬ隠居の身とされてしまった。長い後半生の始ま りである。この後22年の長きに渡って今川家の食客に甘んじることとなる。
この信虎追放劇は甲斐に未曾有の喜びをもたらした。
「信虎の悪逆無道に国中の人民牛馬家畜類まで愁え、地下・侍・出家・老幼 男女すべて満足」といった記録が残っている。
今川義元と義弟・武田晴信の間には、予め密約が交わされていた。10月にな ると女中衆も送り届けられ、今川家に送られる手厚い隠居料もこののち途絶え ることはなかった。
それから19年後の永禄3年(1560)5月19日のことである。大軍を率いて上洛 を目指していた当主義元が、尾張・桶狭間で織田信長に討たれるという今川家 にとって驚天動地の事件が起こった。
義元の嫡男・氏真は凡庸な後継ぎだった。信虎は、甲斐の信玄(晴信)に対 して今川家の内情を伝えて駿河侵攻を勧めると共に、自身も乗っ取りを画策し た。しかし氏真側に露見し、永禄6年(1563)駿河国から追放されてしまう。
甲斐に戻ることを許されず、京へと向かう70歳の信虎は、途上、信玄に駿河 侵攻を再度呼びかけている。都では信玄の嫁・三条夫人の実家を訪ねたり、高 野山に登ったりした。
またその年の内に、室町幕府第13代将軍・足利義輝(1536-1565)に謁見し て、相伴衆に取り立てられている。
この相伴衆というのは、主として三管四職(斯波・細川・畠山/山名・一色 ・京極・赤松)の有力大名たちが務め、重要な政治問題を合議によって処理し ていた非公式の集団である。
永禄7年(1564)3月将軍・義輝は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模 の北条氏康の三名に対して和睦を促す書簡を送った。ここには相伴衆・信虎の 意見が反映されている。まだまだその智謀に衰えはない。
翌、永禄8年(1565)5月19日、将軍・義輝が暗殺されてしまったため、 72歳の信虎は信濃に戻ったが、やはり甲斐に入ることは許されず、入道して西 国を放浪した。高野山に入ったともいわれる。
元亀2年(1571)武田信玄は、遂に今川氏真を伊豆に追いやり、駿河一国を 制圧した。翌、元亀3年(1572)、甲斐・信濃・相模・上野・駿河の連合軍 二万七千の兵を率い、織田信長打倒のため上洛を目指す。
徳川家康を蹴散らし破竹の勢いの武田勢だったが、途上、総大将・信玄の 持病が悪化、元亀4年(1573)4月12日信玄が信濃駒場にて病没(53歳)した ため全軍は引き返すことになった。
天正元年(1573;元亀4年7月改元)秋、息子の死の報を得た信虎は、信濃国 上伊那郡の高遠城に姿をあらわした。この城は信玄の後継ぎ・武田四郎勝頼 (1546-1582)が8年間城主を務めた後、信玄の弟・信廉が主となっていた。
ここで80歳となっていた信虎は、武田家の新しい当主・孫の勝頼(28歳)と 初めての対面を果たす。甲斐を追われて32年め、勝頼が長篠の合戦で信長に敗 れる2年前のことであった。
信虎の三男・信廉、七男・河窪信実、八男・一条信龍、及び信玄累代の家臣 団は健在で、その人を直接知る家臣も幾人かはいたはずである。
一族との久々の対面の席で気が高ぶったのか、それとも威厳を示そうとした のか。信虎は勝頼・信廉以下、居並ぶ家臣を前にして、突如抜刀し虚空を斬っ た。そして、かつてこの刀で家臣五十余人を手打ちにした、と語ったのだ。
あまりのことに一同は凍りついた。このとき家臣の一人が隙を見て、信虎か ら刀を奪い取ったという逸話が伝わっている。
翌春、天正2年(1574)3月5日、信虎は、甲斐に足を踏み入れることの ないまま、伊那の娘婿・禰津神平のもとで81歳の生涯を閉じた。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
武田信廉(1529-1582)は、信虎の三男で、母は大井氏。 長男・信玄、次男・信繁の同母弟である。幼名を孫六、信玄没後の天正2年 (1574)頃剃髪して逍遥軒と号し、名を信綱と改めた。
武人画家であるが、武功よりも絵画・彫刻の方が有名かもしれない。
信玄と容貌がそっくりで影武者も務めた。永禄4年の川中島の合戦では信玄 本陣を固めており、上杉謙信と一騎討ちしたのは信廉だったという説もある。 信玄の死後訪れた他国の使者に対して、信玄として応対したとも伝わる。
天正3年(1575)の武田勝頼率いる長篠の合戦では、(信廉改め)信綱は、 山県隊に続く二番手中央突破隊を務めた。武田勢は、織田・徳川連合軍の鉄砲 隊の前に多くの名将を失い惨敗したが、信綱は生き延びている。
天正9年(1581)には、勝頼の命で、織田信長の甲斐侵攻に備えて伊那大島 城の守備に就いた。しかし、翌天正10年(1582)2月、織田信忠軍の前に武田 軍は壊滅。信綱は城を捨て甲府へと逃れた。
3月11日武田家当主勝頼自刃。織田軍の執拗な残党狩りによって捕らえられ た信綱は、3月24日府中立石相川左岸にて斬首された。
こうして名門武田家は滅んだ。信綱が最後まで自害しなかったところは如何 にも芸術家らしい。
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彼はプロの絵師に匹敵する作画技術を持っていた。前回紹介した母・大井夫 人の肖像(長禅寺蔵)と今回の父・信虎の肖像、いずれも国の重要文化財とな っている。
惠林寺に伝わる鎧不動尊画像は、信玄を見たてて描いたといい、高野山・成 慶院には、「十王画像」十幅、「十二天画像」十二幅が伝わる。他にも長禅寺 蔵「渡唐天神像」、薬王寺蔵「十二天画像」がある。
前回紹介した若き日の信玄・武田晴信の肖像も記録はないが、彼が描いたも のではないかと筆者は考えている。
これらの技術を誰に教わったかは伝わっていない。兄・信玄にも絵の嗜みが あって、快川紹喜賛の洒脱な「渡唐天神画像」という作品が恵林寺に現存する のだが、彼らの若い頃、周囲に土佐派系の絵師がいたのかもしれない。
元徳2年(1330)足利尊氏の時代に夢窓国師によって開かれた恵林寺は、 臨済宗の古刹であるから、頂相(ちんそう;師僧が弟子に印可と共に与える 伝法のための肖像画)を描く画僧がいて、手ほどきを受けたとも考えられる。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
信虎の追善のために描かれた遺像。 彼は嫡男・信玄と異なり、実に長命・壮健であった。
上部に武田家の祈願所・長禅寺の二世春国による長文の賛があり、この絵が 描かれた経緯や作者名が書かれている。
信虎は僧体で、白い小袖の上に墨染めの法衣を着、五条袈裟を掛けて畳に座 している。袈裟は赤と緑の布が継ぎ合わされた鮮やかなものだったろうが、墨 染め共に着古した印象である。
右手に竹柄の団扇を持ち、左手は膝に置いている。墨染めの皺の陰影表現は 実に巧みで美しい。
この法衣の上に乗る首が夢窓国師のような容貌なら、旅路の有徳の僧という 風情になるが、そこにはとんでもない面構えが鎮座しているのである。
一体これが、齢八十を重ねた老人の顔だろうか。
剃り挙げた頭の異様な大きさ。額の斜めに深く刻まれた三本の皺。吊り上が った眉、大きく鋭い目。大きな鼻、大きな口。
王者の風格が漂い、非凡であっただろうことは確かに読み取れる。
織田信長の容貌(⇒ https://www.shouzou.com/mag/p2.html )との共通点も 目・鼻・口・頬骨に見られる。
信虎と信長の性格や行状を比べてみたとき、主に近侍した家臣たちによる印 象であろうが、気の短かさ・癇癖・残酷さ・凶暴さは酷似している。
しかし、この年齢にして、人生の達観・悟り、人徳といったものとは無縁の 表情である。それは現役の戦国武将そのものではないか。
もし、信玄による追放劇がなかったにしても、やはり信長同様、家臣によっ て討たれることになったかもしれない。権力を奪われたが故に、長命を保てた といえるだろう。
作者の力点は眼光に置かれている。瞳の中の異様な黄色い光に。
筆者も一度だけ対看写生においてこのような目を描いたことがある。 人ではない。そのために一週間名古屋の東山に通い詰めたのだが、それは 実にシベリア・タイガーの緑色の目であった。
肖像の中の信虎の目は、虎の目そのものに見える。
信廉は高遠城で32年ぶりに父と再会したとき、その若々しさと、今なお燃え 続ける獣のような復讐心に驚かされたに違いない。
彼の腕は確かである。その胸に父親を懐かしむ気持ちは少なかっただろうか ら、追慕像とはいいにくい。一代の梟雄(きょうゆう)の姿を記録しようとい う絵師魂がこの絵を描かせたのだと思う。
サイトの画像ページには武田晴信像を再び掲載した。
今もなお山梨県の人々から神として慕われている武田家19代目当主・信玄の、 血の通った表情。かたや、国人・領民から忌み嫌われた18代目当主・信虎の、 冷たくなまなましい表情。
二つの肖像画は多くのメッセージを静かに語り伝える。
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は、武田信玄の、問題の肖像画(像主について異論の出ている高野山・ 成慶院本)について語りたいと思います。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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