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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0008
2007年02月17日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 足利義輝の肖像画(国立歴史民俗博物館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主・足利義輝について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】足利義輝の肖像画(国立歴史民俗博物館)◆◆
室町幕府13代将軍・足利義輝は、初めて上京した若き織田信長が臣下の礼を 取った武将で、わずか30歳で暗殺されますが、「天下を治むべき器用あり」と その死を惜しまれました。
後に信長が傀儡として担ぎ上げた15代将軍・義昭の兄に当ります。
★足利義輝の肖像画(国立歴史民俗博物館)はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p8.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 足利義輝の肖像
作者名: 土佐光吉(源弐)
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 不詳
制作年: 天正5年(1577)
所在地: 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)
注文者: 義輝の妻(近衛氏または烏丸氏)が有力。
意 味: 義輝の生前に描かれた源弐筆の下絵を元に、十三回忌の追善供養の
ために作られた遺像。
◆◆【3】像主・足利義輝 (1536-65)について◆◆
室町幕府第13代将軍(在職期間1546-65)。幼名・菊幢丸、初名・義藤。
父は第12代将軍・足利義晴(1511-50)。同母弟に第15代将軍・足利義昭 (1537-97)がある。母(慶寿院1514-65)は近衛尚通(1472-1544)の娘。
彼が生れたとき既に、足利将軍家の権力は失われていた。第6代将軍・足利 義教(1394-1441)の悪政が生んだ自らの暗殺と、その子第8代将軍・足利義政 (1436-1490)の失政がもたらした応仁の乱(1467-1477)の結果である。
幕府最盛期の第3代将軍・足利義満(1358-1408)の時代、奉公衆と呼ばれた 将軍直属の軍隊は三千騎あった。この将軍の直轄軍を支える土台としては、 山城一国(直轄国=料国)のほかに、各地に領地(御領所)を持っていた。
しかし相次ぐ戦乱の中で、各地の国人・土豪層が成長・離反し、将軍の下知 に従うものは激減する。年貢という税収をほとんど失った幕府は、もはや有力 大名の支えなしには立ち行かなくなっていた。
義政の子、第9代・足利義尚から第14代・足利義栄に至る6人の将軍の中で、 京で安らかに死を迎えた者はいない。彼らは、その時々で将軍家の威光を利用 する大名たちの浮沈と共に流浪する傀儡に過ぎなかった。
当時、畿内では畠山氏、六角氏、二つの細川氏とその家臣だった三好氏の争 いが繰り返されていた。
足利義輝は、1546年11歳のとき、近江坂本で元服して将軍職につき、父・義 晴の補佐を受ける。将軍家の当初の後ろだては管領・細川晴元(1514-63)と 南近江の領主・六角定頼(準管領)だった。
1547年将軍父子は、細川氏綱・畠山政国・遊佐長教と結ぶことで細川晴元と 敵対する。翌年講和。翌1549年、細川晴元は、細川氏綱側に寝返った元家臣・ 三好長慶(1522-64)に敗れて、義輝らと近江坂本に逃れた。
3年後の1552年帰洛した義輝は、細川氏綱・三好長慶に擁立された。 この時期の義輝は、出雲の尼子晴久を山陰山陽8ヶ国の守護に任じたり、9月に 上洛した越後の長尾景虎(上杉謙信)に謁見したりしている。
翌年再び三好長慶と対立して、晴元と共に近江朽木に逃れると、以後5年間 を近江の朽木の山中に過ごす。
1558年六角義賢の仲介で三好長慶と和睦し、京に帰還した。同年、近衛稙家 (1503-1566)の娘を娶る。ここにおいてやっと義輝の地位は安定した。
その後は京にあって、各地の大名間の抗争の調停や上洛を促すなどして将軍 権威の回復に努めている。
1558年2月、長尾景虎と甲斐の武田晴信(信玄)の両者に使者を送って講和 を図る。
同年、イエズス会宣教師ガスパル・ビエラら3人が入京し、宣教を開始。 12月12日ビエラは宣教師として初めて将軍義輝に謁見を許される。
1559年2月2日織田信長(1534-1882)に謁見を許し、尾張守護職を任じた。
同年4月、要請を受けて再度上洛した長尾景虎と謁見。このとき義輝は景虎 を、管領並みに厚遇し、鉄砲及び火薬の調合方を記した書物を送っている。
この年豊後の大友義鎮(宗麟)を筑前と豊前の守護に任じた。
1560年、ヴィエラに布教を許す。毛利隆元を安芸の守護に任命。 また日向の伊東義祐・薩摩の島津貴久・豊後の大友義鎮の三和を勧める。
1561年には毛利隆元を、その父・毛利元就と共に相伴衆に任じた。 また三好長慶と子の義興、その陪臣・松永久秀(1510-77)に桐紋を与えて 懐柔している。
1563年、毛利元就・大友義鎮の講和を勧める。 同年上京した武田信虎(信玄の父)を相伴衆に任じた。
1564年3月、越後の上杉謙信・甲斐の武田信玄・相模の北条氏康の三名に対 して和睦を促す書簡を送った。
1565年、宣教師ビエラとルイス・フロイスが、幕府を訪れて将軍足利義輝に 新年を祝う。ビエラらは京都以外の畿内に5つの教会を建てていた。
また足利義輝(義藤)の偏諱(一字拝領)を受けた者は、
甲斐の武田義信(1538-67/信玄の嫡男)1550年
越前の朝倉義景(1533-73)1552年
周防の大内義長(1540-57)1553年
越後の上杉輝虎(謙信1530-78)1561年
河内の三好義重(義継1551-73/長慶の養子)1565年
安芸の毛利輝元(1553-1625/元就の孫)1565年
薩摩の島津義辰(義久1533-1611)
和泉の細川藤孝(幽斎1534-1610)
出羽の伊達輝宗(1544-85/正宗の父)
「天下を治むべき器用あり」(穴太記)
「当御所様一段御器用御座候」(集古文書)
1564年、義輝を擁立していた実力者・三好長慶が43歳で没する。この前後か ら三好家陪臣の松永久秀は、長慶一族の滅亡を画策していた。すなわち
三好長慶の弟・十河一存が急死。翌年、弟・三好義賢が戦死。続いて長慶の 長男・三好義興が突然の病死。さらに松永久秀は、淡路島を拠点とする海賊・ 安宅水軍の頭領で、長慶の弟・安宅冬康を讒言し、三好長慶に殺害させた。
長慶の死も久秀による毒殺と考えられている。
将軍義輝は、三好長慶の死をきっかけに一気に幕府の権力回復を試みる。
しかし、この動きを危ういと見た松永久秀は、新たな傀儡将軍を立てるため に、三好義継や三好三人衆を動かし、1565年5月19日辰刻、二条御所に数千の 兵で夜襲をかけた。
このとき将軍を守る近臣は30名ほどだったという。義輝討ち死、享年30。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
義輝の生前に描かれた下絵(墨によるデッサン)が、京都市立芸術大学に あり、作者名を土佐派の絵師・源弐(げんじ)と伝えている。
源弐(1539-1613)とは、土佐派の名手・土佐光信の跡目を継いだ絵所預・ 土佐光茂(1496-)の門人である。
光茂には土佐光元(1530-69)という後継ぎがいたが、羽柴秀吉に従軍し、 1569年不幸にも戦死したため、土佐派本家は断絶の瀬戸際にあった。
父・光茂はこのとき、最晩年にあったがかろうじて現役であり、1569年、 15代将軍・足利義昭の二条館に描いたという記録(土佐文書)と、 譲状を玄二(源弐)に宛てて書いたという記録(禁苑文書)が残っている。
こののち、源弐は、和泉の堺で土佐光吉を名乗って、光元の遺児を養育しな がら、土佐派を受け継いだ。のちには剃髪して久翌あるいは休翌と号した。
狩野派の依頼を受けて障壁画制作にも携わったが、主に古典的な画題の細密 画を維持して、光則や広通に伝授した。
遺作は少なく、現在残るものとしては、繊細華麗な「源氏物語図帖」「三十 六歌仙扁額」などがあげられる。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
天正五年(1577)義輝の十三回忌の追善供養のため作られた遺像である。
注文者は、三好一族の襲撃を逃れて辛くも生き延びた正室・近衛氏あるいは 側室・烏丸氏であろう。上部には天龍寺の策彦周良の賛がある。本来は天龍寺 に伝わったものかもしれない。
素足で青畳に座す像主・義輝の姿は、自然体である。
夏用の紗(しゃ)で作られた褐色の直垂から透けて見える、白地と橙色の段 替わりの小袖が粋である。画面では見づらいが、桐と籠目の箔置きが施されて いるという。帯も同様の華麗なものである。
胸元には若緑の下着が覗いている。これはやはり橙色と柔らかな補色対比を 見せ画面を引き締める。これら着衣の優美さは一体、絵師の器量によるものだ ろうか、それとも注文者の指示によるものだろうか。
右手に中啓(末広扇)を持ち左手は軽く拳を握る。腰に差した漆塗りの小刀 には、桐紋目貫(釘頭飾り)が輝いている。
頭には立烏帽子を被り、口髭と顎髯を伸ばしている。
土佐光吉が源弐と呼ばれた時代に、義輝の面前で描いた下絵(画面左)には 額に深い皺が刻まれ、頬には天然痘の跡が描かれている。表情は穏やかである が、剣豪将軍と謳われた剛毅さは確かな筆で写されている。
剛毛のような髯の質感も正確である。固く威厳のある表情を見せている。
これに対し、本画(遺像)は、筆者が違うと思えるほどソフトである。 髯は触れてみたくなるような柔らかさを感じさせる。
その眼差しはあくまで優しい。天然痘の跡も、眉間の皺もない。
絵師が見た義輝は下絵に描かれた男である。
しかし、本画では、注文者である義輝の妻の要望通りに描いた。あくまでも 彼女が望む、彼女が見たい夫の姿を描いたのであった。
13年前の5月19日、義輝を殺害した松永久秀は、この絵が描かれた年の 10月10日、織田信忠・明智光秀・細川藤孝に攻められて、信貴山城に滅んだ。
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は、足利義輝のもうひとつの肖像(京都・光源院)を取り上げます。
義輝は剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)と上泉伊勢守信綱の薫陶を受け、 剣豪将軍と謳われました。日本の歴代将軍の中では武勇第一だったと考えら れその風格はもう一つの肖像画の中に現れています。
「足利義輝の肖像(光源院)」は 3月5日(月)にお届いたします。 何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。
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