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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0009
2007年03月05日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 足利義輝の肖像画(光源院)
【2】 肖像画データファイル
【3】 剣豪将軍・足利義輝とその師について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】足利義輝の肖像画(光源院)◆◆
足利義輝は剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)と上泉伊勢守信綱の薫陶を受け、剣 豪将軍と謳われています。日本の歴代将軍の中では武勇第一だったと考えられ その風格はこの肖像画の中に現れています。
★足利義輝の肖像画(光源院)はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p9.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 足利義輝の肖像
作者名: 源弐(げんじ;土佐光吉)と推定。
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 不詳
制作年: 1560年代と推定。
所在地: 光源院(京都府)
注文者: 本人が有力。
意 味: 生前に描かれた寿像。
◆◆【3】剣豪将軍・足利義輝 (1536-65) とその師について◆◆
室町幕府第13代将軍・足利義輝は、傑物であった。その政治的手腕は前回書 いた通りだが、今回は彼の凄まじい死に様から語ろう。
1565年、松永久秀は、幕府の権力回復に躍起となっている義輝の暗殺を企て た。そして三好政康、三好長逸、岩成友通の三好三人衆と、亡き三好長慶の息 ・義継を操り、清水寺参詣の群衆に紛れさせて、秘密裏に数千人を動員した。
変は5月19日に起こった。義輝の二条屋敷は備えが鉄壁で侵入が困難だった が、久秀は一計を図る。三好一族の演技の上手い者が嘆願書を持って、将軍に 直訴させて欲しいと義輝の母・慶寿院(1514-1565)に取り入ったのである。
使者は隙を見て裏木戸を開け、大勢の刺客が一気になだれ込んだ。
義輝は、正室の近衛氏や側室の烏丸氏らに家臣をつけて脱出させた。そして もはやこれまでと覚悟したのだろう、辞世の句を記し、家臣と酒をあおると、 所有する名刀数十振りを抜刀し、畳に突き立てた。
そしてわずかの近臣と共に、多勢の刺客に立ち向かった。
彼は、腕に覚えの剣技をふるい、鬼神の如く戦った。やがて、配下30人が討 たれても、なお義輝は戦い続ける。
血糊で刀が切れなくなると、畳に突き立てた抜刀を、取り換え取り替え、斬 り合った。彼が一人で築いた死者の山は30に達したという。
このとき、息のあがり始めた義輝の背後に回ったものがあった。久秀の家臣 ・池田丹後守という。彼は背後から長槍でもって、義輝の足を払った。
つんのめった義輝に、刺客たちは間髪を入れず、外してあったふすまをつぎ つぎと被せた。その上から大勢でメッタ刺しにしたのである。
幕臣・細川藤孝は、変報を聞くと救援に駆けつけたが間に合わなかった。
義輝の生母・慶寿院は自害した。
弟・鹿苑寺周高は殺害されたが、末弟・奈良一乗院覚慶(のちの第15代将軍 ・足利義昭)は一時、久秀に幽閉されたのち、細川藤孝によって近江に逃れる ことに成功した。
義輝の子・義高(1563-1624)は、近臣によって脱出し、京都誓願寺で仏門 に入った。
義輝の子を身に宿していた側室・烏丸氏は松永勢の手から逃れ、尾池玄番光 永の屋敷に匿れた。そして義輝の遺児・義辰(1565-1642)を出産。
尾池光永は讃岐の横井城主だった。義辰は彼の養嗣子となり、名を尾池保衡 に改める。のち横井城主。
尾池保衡は、1587年讃岐高松城主・生駒親正に仕える。保衡の子・西山右京 が細川家に千石で召抱えられた後、肥後に入国、1642年正月、宮本武蔵と共に 奥書院で藩主忠利に謁し杯を交わしたりしている。 同年7月没。
子孫は西山氏として、明治に命脈をつないだと伝わる。
しかし、このような斬り死にをした将軍は例がない。
足利義輝が、剣豪・塚原卜伝に、新当流の奥儀「一の太刀」を伝授されるほ どの腕前だったためであろうか。
また一宮随巴斎からは弓術を、小笠原氏隆には小笠原流兵法を学び、 さらに新陰流を開いた上泉信綱を招いて秘技を修得している。
越後の上杉謙信に、火縄銃や「鉄放薬方並調合次第」(上杉家文書)を贈っ たように砲術にも通じていたのである。
さて、義輝の生涯の結びに天下に名を轟かせた二人の師匠を紹介しよう。
まず、塚原卜伝(ぼくでん:1489-1571)である。
室町末期の剣豪。新当流の祖。常陸(茨城県)鹿島家の家臣で、鹿島神宮の 祠官・卜部覚賢の次男にうまれ、初名・卜部朝孝。小領主・塚原土佐守安幹の 養子となり、のち新左衛門尉高幹(たかもと)、卜伝斎、土佐入道と称した。
父・覚賢から家伝の鹿島中古流を、養父・安幹から天真正伝神道流を学んだ のち、諸国をめぐって修行をかさねた。1523年、35歳のとき、鹿島一族の内紛 から高天原の合戦となり、卜伝は首級21をあげた。
その後、鹿島神宮に参籠して兵法の奥儀に達し、極意を「一の太刀」と名付 け、新当流を創始。多数の門弟を率いて諸国をめぐり、流派を広めた。
甲斐武田氏の『甲陽軍鑑』によれば、1544年に卜伝の一行が、24歳の武田晴 信(信玄:1521-73)を訪れた際の総勢は80名、鷹3疋、馬3頭を引かせ、華美 に振舞った。このとき信玄の家臣・山本勘介(1500-61)に兵法を教授した。
その生涯に討ち果たした敵の数 212 という。
1547年には、前将軍・足利義晴の招きを受けて上洛。13代将軍に就任したば かりの義輝11歳に半年ほど剣の手ほどきをしている。
1561年には41歳の武田信玄を再訪。伊勢の国司・北畠具教(1528-76)に 一の太刀を伝授。京では暮れから翌年にかけて、26歳の武将に成長していた 将軍・足利義輝や幕臣・細川藤孝(幽斎:1534-1610)らの大名に指南した。
1563年にはまたも武田信玄を訪れている。信玄に対して、もう一人の弟子 ・足利義輝を盛り立てるよう託した。
晩年は郷里に戻り、養子・彦四郎幹秀を迎え、1571年2月、高弟・松岡兵庫 助則方の屋敷で没した。享年83。
兵庫助は、1603年徳川家康(1543-1616)に招かれ、江戸に出府。 徳川将軍家に、秘伝・一の太刀を伝授した。
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彼の逸話が伝わる。
あるとき江州の渡し舟に、天下無敵とうそぶく大柄な侍と乗り合せた。
その傍若無人な騒がしさに、つい卜伝は口をはさんでしまう。 流派を問われて『無手勝流』と応えたところ、男は怒り出した。
「この舟を急いで押し着けよ、陸へ上って勝負をする」
卜伝は、陸では人に迷惑をかけると、離れ小島に向かわせた。 島につくやいなや、男は飛び降り、相手が降りるのを待った。
卜伝は舟にのったまま棹を手にすると、舟を押し出し、沖へと漕ぎ出す。
男はそれを見て 「どうして貴殿は上陸なされぬのじや?」
卜伝が答えて応えて言うに 「どうしてそんな処へ上れるものか、くやしくば水を泳いでここへ来給え」
「我が無手勝流はこの通り」(本朝武芸小伝)
そしてもう一人が上泉信綱(1508-77)である。
室町末期の剣豪。新陰流の祖。初め伊勢守秀綱、のち武蔵守信綱を称した。 上野国(群馬県)大胡城主・大胡氏の一族。父・秀継は上泉城主で、関東管領 ・上杉憲政に属していた。
塚原卜伝の先達・松本備前守政信(-1524)に鹿島神流を、愛洲移香斎 (1442-1538)の子・小七郎宗通に陰流を、さらに小笠原宮内大輔氏隆に兵法 を学び、これらに創意工夫を加えて新陰流を編み出した。
信綱は、管領・上杉氏の衰退に伴い、やむなく相模の北条氏に属し、ついで 越後の長尾景虎(上杉謙信)に加勢した。武田信玄の信濃攻めに際しては、相 対する長野信濃守業政の配下に入り、よく対抗した。
1561年に業政が病没したのち、1563年正月武田氏の箕輪城攻めによって長野 氏が滅ぶと、武田軍に編入された。武田信玄は当時秀綱と称していた彼に一字 を与え、信綱と名乗らせた。
信玄は直属の重臣に取り立てる腹積りだったが、信綱は兵法者として立つこ とを決意。その誘いを断って、門人を引き連れ、諸国をめぐる修行に出た。
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1563年、塚原卜伝の一の太刀の伝授者である伊勢国司・北畠具教を頼る。彼 の紹介で、興福寺・宝蔵院胤栄、柳生但馬守宗厳、松田織部助信栄らと立会っ たのち、新陰流を教授した。その後柳生を本拠にして数回入洛している。
1564年6月17日には、京都本覚寺に仮寓中の将軍足利義輝に謁見して、技を 披露した。義輝に対し、小笠原氏隆直伝の兵法を講じ、「兵法新陰流軍法軍配 天下第一」の称を得ている。
1569年には、権大納言山科言継ら公家と親交を結び、兵法を伝授している。 翌年には従四位下に叙せられた。
その後、言継の紹介状を得て下野国・結城氏を頼り、途上信濃の千野氏を教 授したと伝わる。1577年、郷里の上野国上泉にて没した。享年70。
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彼の逸話も紹介しよう。黒澤明監督の映画『七人の侍』に挿入されたエピソ ードである。
東海道を西に上る途上、信綱の一行が尾張の妙興寺にさしかかったところ、 騒がしい。咎人が、村の子供を人質に、民家に立てこもったというのである。
信綱は、居合わせた僧侶に向かって、自分の頭を剃ってくれるように頼み込 んだ。同時に、村人には握り飯を用意するように告げた。
頭が剃り終わると、僧に法衣を脱いでもらい、自分が着込んで坊主になりす ました。そして握り飯をふところにして、咎人の隠れる民家の戸を開けた。
咎人が叫ぶ。「やあ、来たな、必ず拙者に近寄ってはならんぞ」
僧体の信綱がいうには「童がひもじかろうと握り飯を持って来た。この坊主 頭に免じて、少し手をゆるめてやってくれ」と、子供に握り飯を放り投げた。
次に「そなたも腹が減ったろう」と、咎人に向かって握り飯を投げた。 男が、つい手を伸ばした瞬間、信綱は飛びかかり、子供を奪って外へ出た。
村人たちは、そこへ一気に乱入して咎人を捕えて始末した。(本朝武芸小伝)
室町末期の時代において、細川氏、畠山氏、三好氏、六角氏、松永氏と、 反目し合っていた大名たちだったが、将軍家に組織的な力を与えない姿勢だけ は一貫していた。
剛毅な青年・足利義輝がふたりの師匠から譲り受けた剣法は、十分な兵も戦 力も持たない将軍にあっては、発揮しようのないものである。
「勝負とは負くるものでない。勝つと見込みのない勝負はするものでない」 という塚原卜伝の無手勝流。
そして上泉信綱の智謀。
これこそが、義輝に必要だったのだが。
敵が二条の館に乱入し、自らの最期を覚悟するまでの刹那に、 小袖に書き残したという、義輝の辞世の句がある。
五月雨はつゆか涙か不如帰(ほととぎす)
わが名をあげよ 雲の上まで
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
前回紹介した足利義輝像・国立歴史民俗博物館本の作者は土佐光吉 (1539-1613)であった。
今回の光源院本は、作者不詳とされている。
しかし、民博本の容貌とほとんど同一であるから、作者名はやはり土佐光吉 正しくは、彼が土佐派の門人として源弐と呼ばれていた時代のものであろう。
像主・足利義輝の生前には、源弐の師である土佐光茂(1496-1569?)と その子・光元(1530-69)が存命であった。将軍直々の制作依頼に対してなぜ、 幕府御用絵師の土佐宗家の彼らが手掛けなかったのかは不明である。
現に、義輝の父・義晴の肖像画は、土佐光茂のものが残っている。
将軍が京に落ち着けず、流浪を重ねるという体たらくであったから、有名無 実の足利幕府には、もはや絵預所という職制が存在しなかったせいかもしれない。
宗家の絵師は、富裕な大名の仕事に従事し、資金が潤沢でない将軍家には、 弟子筋を当てたというわけだろうか。しかし、門人源弐の腕は、平安時代から 連綿と続く大和絵師・土佐派正系の確かなものであった。
源弐の出自は明かではないが、或いは足利家の家臣筋から、土佐家に入門し たというような、えにしを想像することもできるだろう。
1569年、源弐は、光元の戦死により土佐派宗家を継いだのであった。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
足利義輝は上畳の上に文官の束帯姿で座している。晩年の姿を思わせる国立 歴史民俗博物館本と比べると、やや細面で、若く見える。
頭に冠を戴き、手に笏を構え、飾り太刀を差して、平緒を前に垂らしており 鎌倉時代に描かれた藤原隆信作・源頼朝像と共通する伝統様式を保っている。
面貌には剥落が見られるが、一切の線描が失われていないため、修復加筆が もし許されるなら、完成当時の画像にもどすことも可能である。
このように顔だけに剥落が見られるのは、胡粉という牡蠣殻を原料とする顔 料が厚塗りされているせいであって故意のものではない。塩分を含む不適切な 絵の具を使用することは、現代日本画にも継承された不可思議な慣習であった。
ただし彼の顔には天然痘の痕があったので都合がよいといえるかもしれない。 全体は、しぶい色彩構成で、重厚な人物像になっている。
澄んだ瞳と静かな面差しに、像主の品格は現れている。黒い束帯に収まるが っしりとした体格が、そのまま剣豪将軍を思わせる。
その剛毅さと識見、そしてその不幸な死に思いを馳せるとき、二つ違いの 織田信長(1534-1582)にイメージを重ねてしまうのは筆者だけであろうか。
さて、上部には、義輝のものと思われる和歌が記されている。 (残念ながら、不勉強な筆者には解説することあたわず。)
彼は武芸だけでなく、芸術や文学にも造詣が深かった。
1559年、義輝から織田信長に下賜された花瓶・青磁下蕪花生(せいじしもか ぶらはないけ)が今に伝わっている。これは最も早い時期の信長コレクション となったであろう。
また、足利義輝筆と箱書きされた、藤原公任撰『和漢朗詠集』写本2冊も現 存する。
彼は、長年、歌道修行を願っていたが、師範となるべき人物がいなかった。
三好氏の紹介で、故実にならって東家の素山という歌人を招いたところ、素 山は大変な栄誉と喜び、早々上洛している途上、将軍暗殺の報を得る。そして
光源院殿御代に和歌の師範たるへきよし仰ありて都へのほらんとせしに、
義輝公不慮の御事おはせしか
素 山
大かたの袖たにしほる五月雨に
雲ゐのほかもくれかたの世や
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は、徳川家康の肖像(愛知・徳川美術館)を取り上げます。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と呼ばれるものです。
あの武田信玄最晩年の戦に大敗した直後の家康が、生涯の戒めとするために恐怖に引きつった姿そのままを描かせたという珍しいタイプの肖像画です。
用心深い家康としては、唯一ともいえる生前の絵姿(寿像)でした。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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